人生哲学を揺るがす怪作『イントゥ・ザ・ワイルド』

 こちら、どう考えても、鬼作にして怪作にして傑作(原作ノンフィクション小説あり)。


 まずは簡単なあらすじを。 


 主人公の青年は、成績優秀、大学をトップクラスの成績で卒業。ハーバードへ進学すると思われた。家は経済的に恵まれており、世の多くの同世代に比べて、明らかに金銭的物質的豊かさを享受している。が、両親の仲、家族の関係も然り、とはいかない。青年は精神的満足感、ひいては愛なるものにおいて、満たされていないのであり、その満たし方についても確信的なものを得られずにいる。有形の幸せと、無形の幸せ。それらは天秤の左右に乗せられているので、傾いた片方を手に取るしか、選択肢はないように思われる。二十そこそこにしてこの文明社会、資本主義社会に辟易した青年は進学を辞退。所持品は可能な限り手放し、身分証明書を破棄。学資預金も寄付。残ったキャッシュも灰にして自然へと還し、生の本質、そして世界の真理を求めて、アラスカを目指し、ヒッチハイクの旅に出る。旅の道中、何人かの人間──文明人と原始人の連続階調的狭間で揺れる者たち──と出会い、青年は己が人生を知らず知らずのうちに完成させていく。その先にあるものは……




***




 劇中で登場する名言に、


「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」


 というものがある。


 本作は傑作中の傑作でありそのようなもののネタバレをしたい気にはどうしてもなれないので、どのような場面、文脈で登場する名言であるかは伏せさせていただくが、私が個人的に読み取った、この名言の本質エッセンスを述べたい。当然、受け取り手によって解釈の差異はあるはずなので、ぜひ鑑賞して、皆様ご自身の脳で、心で、骨の髄で受け止めていただきたい。



──人は誰しも孤独である。



 他者というのは所詮他者であるから、ある日突然消えるものであるし、裏切る/裏切られるものである。それは、知己であろうと学友であろうと恩師であろうと親であろうと兄弟であろうと恋人であろうと伴侶であろうと変わりはない。全て、他者である。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、だからと言って他者を蔑ろにしてはいけないということだ。自己というのは"他"という存在を持ってしか表現できない。自己というのは、複数の"他"との関わり合いの中でしか輝かない。鉛筆の黒鉛の文字のひと繋がりが物語を織り成し読むものに感動を与えるのは、白紙という"他"があるからこそであり、光が煌々と輝けるのもそれが照らす闇という名の"他"があるからである。つまり何が言いたいか。友も愛する人も血縁者も、裏切り裏切られ、消えるからこそ、(各人の思う形でよいから)大切にしなければならない、ということだ。もしこれがひどく陳腐な言葉に聞こえる者がいるならば、おそらくその者は、人間はおろか、この存在/非存在の世界に身を置くこと自体が向いていないので、何か抽象的な思念体のようなものに転生することをお勧めしたい(これはつまり、誤解を恐れないような言い回しを敢えて用いて、あなたに「共に生きましょう」と語りかけているのである)。


 ここで、架空の"自己"を一つ、表現してみる。


・自分は『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画が好きな人間である。

・自分の身長は165cmである(加賀倉の身長ではありません)。

・私は、人である。


 どうだろう、全て、自己を表しているのは、自己以外のものであると、一目瞭然いちもくりょうぜんだろう。

 究極的には、"『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画"も、"身長"という概念も、"165"という数値も、"cm"という単位も、"人(=ホモ・サピエンス)"という動物分類も、すべて自己ではない"他"である。「自己」という言葉も、自己ではない何かであり、数ある言葉の内の一つでしかなく、今このようにどうにかこうにか並べている御託ごたくも、自己ではない"他"である。今このわけのわからない物言いを聞かされている読者の皆様も、私という自己にとっては"他"なのであり、この時点で閲覧に嫌気がさしてブラウザバックしてしまうかもしれないが、それも自己と他の関係における、一つの運命さだめの形である(これは、無限に入れ子構造マトリョーシカ的に続いていく)。


 つまり、「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」という名言はおそらく……


 自己の制御下にはない他という存在との複雑怪奇な関わりにおいて幸福の実現を求めることは、"この世界"という獰猛な環境に身を置くことと同義であり、すなわちひどく過酷なことであるということを表しているのだろう。

 そしてここで、本作未視聴だと極めて伝わりにくい表現にはなってしまうのを承知で「幸福の実現」の方法を抽象的に示すとすれば……


 人は皆、各人なりの丁度心地のよい"野生ワイルド"を、見出すしかない。文明開花した世界と野生の世界はもはや同一のパレットの中に混ぜ広げられた水っぽい絵の具のグラデーションの中に共存している(マサイ族はもはやスマートフォンでSNSを駆使する)のであり、そのグラデーションの中から、スポイトの先端でお気に入りの一滴の色を抽出して、でるしかない。その"野生"というのはもちろん人によりけりであり、抽出方法を誤れば──同じ点を抽出しようとしたり多量を抽出しようとするあまり他と重複する時──お互いの"野生"は対立関係になりうる点が苦しく、悲しくもあるが、世に存在する以上は、これは不可避の宿命である。


 最後に。


──人は誰しも孤独である……


 ……であるからこそ、死に物狂いで他と関わり続けねばならない。

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