第19話。美紅と悪夢

 美紅みく晴久はるひさの家まで足を運んだ。


 玄関の扉に手を伸ばしたのは、晴久に呼び出されたと美紅が自覚していたから。扉を開けた先にはいつもと同じ靴が置かれていた。


 美紅は玄関から上がると、廊下の先にあるリビングまで歩いて行くことにした。もし、晴久の母親がいるなら、今の状況を知らないはずがない。


「……っ」


 リビングに足を踏み入れた時、美紅は戸惑ってしまう。床に広がった赤色は日常を歪ませる光景だった。


 晴久の母親と教師の田橋たはしが体から血を流して倒れていた。呼吸を確認をするまでもなく、二人は既に息絶えていることがわかった。


 腐敗臭と体にわいている虫。二人が死んでから時間が経っていて、救急車を呼んでも助からない。


 美紅は後ずさりをした。結衣を助けようと足を運んだのに、初めて恐怖を感じた。この場から逃げろと本能が嫌なほど叫んでいた。


「先生。そっちじゃないよ」


 声と同時に美紅の背中に何かが当たった。


 ゆっくりと顔を後ろに向けると、そこに立っていたのは晴久だった。晴久の顔にはアザのようなものがあり、皮膚の色がハッキリ変わっていた。


東雲しののめさん……これはいったい……」


 冷静に落ち着いて、美紅は対応をする。


「俺が殺したんだよ」


 美紅は自分の背中に刃物が押し当てられていることに気づいた。下手に動けば、晴久に刺されることは目の前の光景を見なくても理解出来る。


「俺の部屋に来てよ。あの子に会いたいんでしょ」


 晴久に言われたまま美紅は部屋に向かう。


「先生、俺。あのクズ野郎から殴れたんだよ」


「どうして……?」


「俺が近所の学校に爆破予告してるのがババアにバレてさ。アイツに呼び出されたかと思ったら、いきなり殴られた。それで警察にも行くって言うから、ムカついて刺し殺したんだよ」


 晴久が二人を殺した。


 美紅は後ろにいる人間が殺人鬼だと理解した。


 それでも結衣を助けるまでは何も出来ない。


「……っ」


 晴久の部屋に入ると、手足を縛られた結衣が床に倒れていた。すぐでも駆け寄りたい気持ちを抑えながら、美紅は現状を打開する方法を考えていた。


 結衣と目があった。意識はある。口を封じていないのは結衣がおとなしくしていたからか。今でも結衣は怯えた表情で声を出せずにいた。


「東雲さんは何が望みですか?」


 わざわざ結衣を使って呼び出した理由。


 そのを答えを待っていると、晴久は結衣の方に歩いて行った。晴久の手には刃物が握られたままで迂闊には動けない。


「望みを言っても先生は叶えてくれないだろ」


 晴久が足を上げ、結衣の体を踏みつけた。


「うっ……」


 結衣が苦しそうな声を出した。けれど、晴久は楽しむように結衣を何度も踏みつける。


「コイツを!殺せば!先生も!反省するだろ!」


 晴久の目的が結衣を痛めつけて、最後には殺すことだと知った。そうすることで、美紅は大切なものを目の前で失うことになる。


 これは晴久の復讐のようなもの。晴久は家庭教師だった人間の苦しむ姿を望んでいる。美紅は結衣が踏みつけられる度に胸のザワつきを必死に抑えていた。


「もう……やめてください……」


 美紅は耐えられず、頭を地面につけた。


「いきなり土下座するとか頭おかしいのか?」


 これしかない。結衣が殺されない為だったら土下座でもなんでもする。美紅はただ必死に頭を下げていた。


「でも、わかった」


 美紅が顔を上げたのは晴久が願いを受け入れてくれたと思ったから。


「コイツは今から殺してやる」


 晴久は笑顔のまま刃物を結衣に向けた。


「やめて……」


 他人に結衣が奪われるなんて許されるわけがない。結衣が殺されてもいい理由なんてあるわけがない。


 だからこそ。


 美紅の中に一つの意思が灯る。


 心の奥底に隠していた、美紅の本性。


「私は出来るよ」


 美紅は立ち上がり、晴久に向かって考え無しに飛びかかった。


「なにして……っ!」


 晴久の刃物を持った腕に美紅は噛み付いた。手から刃物が抜け落ちたけれど、その代償に美紅は顔を殴られた。


 怯むもなく、美紅は晴久の体を押し倒す。


 刃物はどこか遠くに行ってしまい、美紅は両手を伸ばした。晴久の首に向かって手を動かしたのは美紅が覚悟を決めた結果だった。


「……っ!」


 晴久の首を美紅は両手で締めつける。爪が皮膚にくい込み、赤い液体が流れる。同じように美紅の腕に晴久の爪が何度も引っ掻き傷を作り、必死に抵抗をする。


「やめ……て、くれ……」


 これは害虫を殺すことと何も変わらない。


 殺虫剤を吹きかけた虫みたいにじたばた暴れている。それも次第に動かなくなってくる。衝動が収まるほど、美紅は自分の手の中にある感触を認識する。


 皮膚の潰れた感触。すぐに手を離すことが出来ないのは、まだ相手が動くことを恐れていたから。


「死んだ……?」


 人を殺した。


 それを美紅が実感したのは自分の手が赤く染っていたから。誰の血がついているかもわからないくらい皮膚の上で混じりあっていた。


 美紅は晴久の体から離れたのは、結衣のところに行く為。立ち上がり、ふらつく体を二つの足で支えながら、美紅は歩き出した。


「結衣ちゃん……」


 手を伸ばした時、美紅は動きを止めた。


「……っ」


 結衣は怯えた顔をしていた。


 まるでバケモノでもみたかのような表情。


「来ないでください……」


 結衣が怯える相手は、もういないはずなのに。


「結衣ちゃん、私……」


 美紅の手が届く距離から、結衣は逃げ出して行った。その姿を見て、美紅は地面に落ちていた刃物を手に掴んだ。


「大丈夫だよ。結衣ちゃん……」


 刃物を持ったまま、晴久のところに歩いて行く。


「ちゃんと、私が殺すから……」


 一回、二回。刃物が深く突き刺さる感覚。何度も何度も繰り返して、結衣のことを怖がらせる存在が世界からいなくなるように。


 美紅は晴久の体を刺し続けた。


 誰かの悲鳴にも似た声が美紅の耳には確かに届いていた。それでも美紅が手を止めなかったのは、たった一人の人間を殺せば解決することだから。


 全部終わらせれば、また結衣と一緒にお出かけが出来る。今度はたくさん猫の居るところに連れ行って、遊園地にも行って。結衣の行きたいところに全部行く。


 その為なら、邪魔なモノを壊してもいい。


「美紅、何やってるんだ!」


 雨音あまねに体を引っ張られた時、美紅は自分のやっていることに気づいた。形を失ったソレを人間と呼ぶことは難しい。


「なにこれ……?」


 晴久の中身が辺りに散らばっている。


 現実を認識すると、美紅は胃袋の中身を吐き出した。手で押えても、抑えられない吐き気に襲われる。


「雨音ちゃん。私……」


 色々なモノが混じった臭い。目の前の広がっている恐ろしい光景。自分のやったことを美紅は受け入れられなかった。


「これは酷いな」


 雨音に続いて月雲つくもも部屋に入ってきた。


「月雲、あの子を連れて行け」


「ああ。わかった」


 月雲が歩いた先に居る結衣。結衣は部屋の隅で頭を抱えて、体を小さくしている。ずっと聞こえていた悲鳴の正体が結衣だと美紅は気づいた。


「月雲ちゃん、待って……!」


 結衣の体が月雲に抱き上げられた時、美紅は手を伸ばした。その時、伸ばした手とは反対の手に刃物を握りしめながら。


「いい加減にしろよッ!」


 頭に強い衝撃を受けて、美紅は地面に倒れた。


「雨音。余計な真似はやめよ」


 意識が朦朧としている。


「もう、コイツは壊れたんだよ」


「だとしてもじゃ。おぬしの心まですり減らす必要はないじゃろ」


 二人の声が遠くなる。


「美紅よ。すまんな。出来ることならおぬしと立場を変わってやりかった。だが、今の醜いおぬしに手を差し伸べる気にはなれん」


「月雲ちゃん……」


 最後の力を振り絞って、手を伸ばした。


「結衣ちゃんを……返して……」


「今は休め。全部、ただの悪い夢じゃ」


 これは悪い夢。


 だから、次に目を覚ました時には。


「……っ」


 意識を失う瞬間。美紅は胸に違和感を覚えた。


 それは過去に味わった感覚。美紅が教師になることを諦めた原因であり、美紅が抱え続けていた爆弾のようなもの。


 今、美紅からすべてを奪う為に動き出していた。


 まるで、罰を与えるかのように。

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