第二十一話 招かれざる客現る

 小さな池の中で、うっすらと赤く染まった尾ひれがひらめいた。水面に口を出し、懸命に餌をねだっているのは錦鯉だ。

 志乃は橋の欄干に手をかけて、諦めの悪い鯉を見下ろした。水辺だからか、ここは特に涼しい。頬を冷やす手ぬぐいはずっと持っていたが、いらないくらいだった。冷えた空気が天然の氷嚢となって肌をさらっていく。


 志乃への接触禁止を言い渡す、と晴時が言っていたが、その命令はしっかり効果を発揮しているようだった。

 昼を過ぎても、志乃の部屋にやってくる人はいない。だから途中まで廊下の様子を窺ってびくびくしていた志乃も落ち着いてきて、こうして散歩に出ているわけである。


 庭園の小道は途中で分岐しながらもきっちり一周できるようにつくられていて、志乃はすでにひととおり歩き回ったあとだった。ほとんどの庭木が何なのかさっぱりだったが、それでも綺麗だということは理解できる。秋らしい色に染まり始めた落ち葉を一枚拾って袖口に忍び込ませたりもした。


(もう一周したら戻ろうかなぁ)


 顔を上げれば、志乃の部屋の前で静かに待機するすずの姿があった。一緒に歩かないかという志乃の申し出を丁重に辞して、ああして黙って座っている。志乃が部屋を出たときからまったく体勢が変わっていない。


 いや、今動いた。すずが何かをたしかめるように体を傾ける。


 志乃も気づいた。足音がする。床板をあえて踏み鳴らすような荒々しい足取りだった。思わず伸び上がって来客を確認したのだが、すぐに後悔することとなった。


「神子殿はいらっしゃるか」


 顎にたくわえた髭を撫でながら現れたのは、大柄な男だった。鍛えているのか、体に厚みがある。年のころは四十代か五十代だろうか。志乃の親と同世代だ。

 うしろには大きな箱を抱えた従者が控えていた。


 部屋の前に立った男に、すずが立ち上がった。入室を阻止するように障子の前に移動する。


「申し訳ありません。こちらへの立ち入りは禁じられていたはずですが」

「御託はよい。神子殿はいらっしゃるな?」


 中に志乃はいないのだが、すずの挙動から勘違いしたらしい。男は確信をしたようで、障子を開けようとする。


 すずの目が何度かこちらを見て、志乃はようやく我に返った。

 誰かは知らないが、少なくとも許可を得て志乃を訪ねてきた者ではない。身を隠したほうがいいのだ。庭の奥に逃げ込もうと思って踵を返す。


「アッ」


 足を滑らせた。

 転がるように橋を下りて、志乃は眉間にぎゅっとシワを寄せた。やってしまった。恐る恐る部屋のほうを確認すれば、男とばっちり目が合った。


「そちらにいらっしゃったか、神子殿」


 もう諦めるほかはない。志乃は返事を迷って、ただ会釈をした。




 押しかけてきた男は、間宮篤保とくもりと名乗った。先代の弟――晴時の叔父だという。真偽のほどは不明だが、すずがおとなしく部屋に入れたので嘘ではないだろう。


 志乃は自室で篤保と向き合っていた。

 気難しそうな顔だ、と思った。薄く開かれたまぶたの奥に潜む眼光が鋭い。体が大きいので、どうしても志乃を見下ろすかたちになる。それが正面から見つめてくるのだから、落ち着かないことこの上なかった。

 そわそわとつま先をすり合わせる。


 廊下に面した障子は大きく開け放ってあった。外にも中にも、すずの姿はない。すずはお茶の準備をすると出ていったばかりだ。廊下にいるのは、相変わらず大きな箱を傍らに携えたままの、篤保の従者だけである。


「突然の訪問を受け入れてくださり感謝する」


 禁を破ってきたわりには、篤保は礼儀正しかった。手をついて頭を下げた彼を、志乃はただただ見下ろす。自分がどう振る舞えばいいのか、よくわからなかった。


「あの、大丈夫なので……頭を上げてください」

「お心遣い、ありがたく。実は手土産を持参したのだ。気に入っていただけるといいのだが」


 篤保が声をかけると、廊下に控えていた従者が出てきた。どうやら箱の出番らしい。縦に長い桐箱だった。蓋を開けると、牡丹色の反物が現れた。


「あなたのような若い娘には、明るい色のほうが似合うと思ってな。どうだろう」

「えっと……」

「気に入らないか」

「……綺麗だとは思います」


 どうにか言葉をしぼり出せば、篤保は呵々かかと笑った。迫力がすごい。そして強引だ。「ではこれで着物を仕立てさせよう」と勝手に決めてしまった。志乃はまだ、受け取るとも言っていない。

 そもそも素直にもらってしまっていいのだろうか。この場にすずがいてくれたら、間違いなく代わりに答えてくれただろうに、と志乃は廊下を見る。頼りの女中が戻ってくる気配はなかった。


「さて、単刀直入に聞きたい」


 反物を下げさせた篤保が身を乗り出したので、志乃は彼に視線を戻した。先ほどの豪快な笑顔はどこへやら、すっかり真顔になっている。


「神子殿は、詠月様と晴時、どちらが当主として相応しいと思われるか」


 やっぱりその話か。志乃を神子と呼ぶから嫌な予感はしていたのだ。


「ふたりが候補として立ったとき、神力はどちらにも適性を見出した。それっきり、我らの間では話が進展しておらぬ。そこに、神が招いたという神子殿が参られた。となれば、あなたに聞くのが道理というものだろう」


 今朝の晴時を思い出した。この話は回答を濁してほしいと。


「先の集まりの際には晴時のことを頼りにしているように見えたが、神子殿と神力は奴を選ぶべきとお考えかな」


 しかし、志乃は話すのが上手いわけではない。うまい言い訳なんて思いつかなかった。


(こういうときは……)


 話を逸らすに限る。


「その、詠月様かハルさんかっていう話なんですけど」


 志乃はそもそも、間宮家の事情の全容を把握しているわけではない。初代の再来と名高い詠月と、先代の嫡男である晴時。このふたりで勢力が二分されている。知っているのはそれだけだ。初めは単純にふたりの身分や実力が拮抗していて、選びあぐねているだけなのかとも思ったのだが、どうやら違うらしい。

 詠月が見せた剣呑な表情で明らかだった。志乃が彼の部屋からうっかり逃げ出してしまった、あれである。


 詠月と晴時は、当主がどちらになってもいいと思っていた。そして現在、詠月が当主代理として腕を振るっている。となると、当事者ふたりの意見は詠月が当主の座に就くことで合致しているとみてもいいだろう。


 それが「周囲が騒ぎ立てるから争いにされている」のだと、詠月は言っていた。


「そうか、そうだな。神子殿はこちらに来たばかりだ。知らぬのも無理はない」


 話の誘導は上手くいったようだ。篤保による講釈が始まった。


「詠月様がどうして次期当主候補として立っているのかはご存知かな」

「詠月様が初代間宮の生まれ変わりだって言われているからですよね」


 晴時に聞いたので覚えている。だから詠月は下にも置かない扱いを受け、彼の言葉は間宮家の中で何よりも優先される。その発言力のほどは、羽麻子が本邸に出入りするようになった経緯で明らかだった。


「そうだ。しかし、詠月様の出自に問題があってな」

「出自?」


 志乃は詠月について、また新たなことを知った。間宮家の末端の家の娘が暴漢に襲われた結果、産まれたのが詠月であるという話だ。それは他人の口から勝手に聞いていい話なのかと焦ったが、どうやら間宮家では周知の事実らしい。当然といえば当然の話だ。詠月の存在が明らかになったとき、間宮家が、彼の親や家のことまで調べただろうことは想像に難くない。


「初代の再来とはいえ、正統な血筋ではない。その上、父親は誰ともわからぬ流れ者。それが問題で、詠月様を当主に据えることに不服を申し立てる声も多くてな」


 それでは、自動的に晴時が当主になるはずだ。

 が、そう簡単にことが運ばないから今の状況に陥っているわけで。


 志乃は黙って続きを促した。口に出したら、志乃が晴時を推していると思われかねないからだ。


「ではやはり正統な間宮の血を継いだ晴時を……とは、もちろん考えた。しかし、儂はだな」


 篤保の顔がぐっと影を増した。憂いというより、もはや怒りに近い。こぼれ出そうになる感情を噛み潰すように歯を食いしばった篤保は、吐くように言葉を落とした。


「儂は、晴時だけは断じて認めぬ。奴が上に立つくらいなら、本家の血を捨ててでも詠月様を立てるべきだ。初代の生まれ変わりというなら、彼に流れる血も十分間宮として相応しい」


 自分を納得させるように呟くと、彼は膝を立てて志乃に迫った。


 ああ、そうか。

 篤保はふたりのうちどちらを当主に据えるべきか、判断を仰ぎにきたわけではないのだ。彼の心はすでに決まっている。


 日ノ倭国に来た志乃を最初に見つけたのは晴時で、その後の世話をしてくれたのも彼だった。当人のぶっきらぼうな態度はさておき、現状、志乃が一番簡単に心を開くことができるのは晴時である。ほかに頼れる人がいないからという、消極的な理由なのだが、朝の会合の場でしか志乃を見ていない人に、そこまで察しろというのは無理な話である。

 間宮家のその他大勢にとって、晴時の手を取って大広間を入ってきた志乃の姿は、彼を特別に思っているように映っただろう。

 篤保はそれが気に入らなかったのだ。


 にじり寄ってきた篤保が、志乃の目の前で止まった。両肩を強く掴まれる。


「よいか、神子殿」


 篤保の手には、痛みで顔を歪めるくらいの力が込められていたが、志乃は焦らなかった。


 足音が近づいてくる。ばたばたと走るような荒っぽい足音である。

 間違いなくこの部屋を目指していた。


「晴時に肩入れするのは御身のためにならぬ。あいつは、よ――」

「叔父上!」


 内臓を震わせる声が響く。篤保の台詞はかき消された。


「こちらへの立ち入りは禁じていたはずです、どういうことですか!」


 肩を怒らせて部屋に入ってきたのは、晴時だった。

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