第十二話 救出される
早く血なまぐさい現場を離れたいな、と考えた志乃の意を汲んでくれた――わけではないようだが、晴時が歩みを再開した。大蛇の死骸の横を抜け、やや早歩き。横道に入るとすぐに小走りになる。
「やはり、声が聞こえる。走るぞ」
すでに走っているじゃないか。人をひとり抱えているというのにずいぶん軽やかな足取りである。舌を噛まないように唇を引き結んで耐えていると、志乃の耳にも聞こえるものがあった。
「晴時ー! は――――る――と――げほっげほげほっ」
むせている。聞き覚えのある声に、志乃は晴時を見上げた。
彼は頬を引きつらせていた。
(あの声、真也さんだよね……?)
前方に差し込む何時間かぶりの日の光の明るさに目を細める。咳き込みながら絶えず晴時を呼び続ける声は、たしかに地上から下りてきているようだ。まさかとは思うが、真也は志乃たちが落ちてからずっと叫び続けていたのだろうか。
すぐ耳元で吐き出されたため息に、志乃は苦笑した。
「そんなに喉を絞らずとも聞こえている。真也」
晴時がぽっかりと空いた穴の中央に歩み出る。
ずっと地下にいた身に、突然の明かりは少々堪えた。まぶたを焼いた太陽光に、志乃はぎゅっと目を閉じる。慣らすように瞬いて、頭上を仰いだ。すかっと晴れた空に、すでに中天まで達した太陽。どうりで眩しいわけである。誰かが地上から穴を覗き込んでいるようだったが、逆光でよく見えなかった。
視認できなくても間違いない。そこにいるのは真也だ。
「晴時! 志乃ちゃんも! よかった、怪我はない?」
「問題ない。そこにいるのはおまえだけか? ほかの連中はどうした」
「先に間宮家へ向かわせたよ。君たちをそこから引き上げるにしても、何も用意がないし……さっきの大蛇はどうしたの」
互いに質問の応酬だった。きちんと答えてから問いを重ねているあたり、律儀というか無駄がないというか。志乃は黙ってふたりのやりとりを聞き、もとい、子守唄に流しながら船を漕いでいた。
(だ、だめだ……また眠くなってきた)
外が見えた安心感に、あたたかい日光。耳元で響く低音。自分は口を閉じて静かに抱えられているとなれば、疲れ切っている志乃が眠くならないはずがない。志乃は下りそうになるまぶたをこじ開けながら、どうにか起きていようと必死で思考を回した。
志乃や晴時が無事を知らせに戻ってきたときのために、真也だけはこの場に留まっていたらしい。ほかの
しかし芽柏の跡地の妖怪――双頭の大蛇は先ほど志乃と晴時が祓ってしまった。後者の許可取りは完全に無駄足だ。志乃たちは余分に待ちぼうけをくらうことになる。
といっても、志乃にはもはや関係ないかもしれない。
頭を回転させる努力も虚しく、抗いがたい睡魔に意識を呑まれてしまったからである。
目覚めは思いのほか早く訪れた。
頬に触れた他人の体温に、志乃は薄っすらと目を開ける。
「――い」
ややほやけた視界に映るのは、淡い紫苑色だ。誰かが間近で志乃の顔を覗き込んでいる。いったい誰だと訝しむよりも先に――。
「いひゃいいひゃいいひゃいつねらないで――!」
あまりの痛みで、悲鳴とともに飛び起きた。
頬を容赦なくつまむ手を叩き落とす。眠気も何もかも吹っ飛んだ。もちろん視界もくっきりクリアだ。尻をつけたまま後ずさりしたり転がったり、無駄の多い動きで必死に距離を取って、志乃は犯人を睨めつけた。
「な、何するんですか!?」
「こちらの台詞だ。何を呑気に寝こけている」
苛立ちも露に睨み返してきたのは晴時だ。手の甲が赤くなっていた。志乃が思いきり叩いたからだ。頬をつねっていたのは彼なのである。
「だからってこんな……えっ、まだ痛いんですけど!」
「赤くなっているな」
「めっちゃ跡残るじゃないですか!」
女の子の顔に何をしてくれる。志乃は必死で頬をさすったが、ひりひりを通り越してずきずきする痛みは引く気配がない。赤くなるどころか内出血していそうなレベルだった。
「寝かせてやっただけでも感謝してほしいものだ。いい加減にここから出るぞ」
「出るって……」
志乃はそこでようやく、周囲を見渡した。
相変わらず大蛇の巣穴の中である。
頭上にぽっかりと空いた穴から見える空に変化はない。中天をいくらか過ぎた太陽が目潰しをする勢いで陽光をまき散らしている。あまり時間は動いていないようだった。志乃が寝ていたのはほんの短い間らしい。短くて十数分、長くても一時間ほど。お昼寝にちょうどいいくらいだろうか。おかげで頭がすっきりしている。
そしてお昼寝タイムは、間宮家へと向かった祓守師たちが戻ってくるに十分な長さだったようである。
「ハル、こっちは準備できたよ。縄を下ろしてもいいかい?」
巻いた縄を両手に抱え、真也が志乃たちを見下ろしていた。
「ああ、頼む」
あぐらをかいて座っていた晴時が、くしゃくしゃになった袴を整えながら立ち上がる。彼の前に、とさりと縄の端が落ちてきた。地上のどこかに固定されているらしく、引いてもびくともしない。
「もう少し伸ばせるか」
晴時が頭上に声をかけると、彼が掴んでいた縄がたわんだ。余裕ができた命綱は、蛇のように地面にとぐろを巻く。
「おい」
志乃が座ったままぼうっと眺めていると、呆れたように晴時が振り返った。
「何を呆けている。さっさと来い」
「あっ、はい」といささか間抜けな返事をして、志乃は慌てて立ち上がった。昼寝をしたからか、いくらか体が軽い。といっても、やっと歩けるくらいである。走るのは厳しいし、ロープを伝って地上に登るなんてとうてい不可能だ。両手で自分の体重を支えるなんてとんでもない。平常時ならともかく、今は足を浮かせることすらできないだろう。
「あの、私、さすがに」
と、申し出ようと思ったのだが。
「乗れ」
志乃が傍に来るなり、晴時が膝をついて屈んだ。両手をうしろに向けているその姿勢は、どう考えても。
「おんぶ……」
の準備にしか見えない。しかも晴時は「乗れ」と言った。まず間違いない。
「早くしろ。それとも自力で登るか?」
「ありがとうございます乗ります」
一切の躊躇をかなぐり捨てて、晴時の首に腕を回した。全体重を預けてぴったりと密着すると、胸から腹にかけてほんのりとしたぬくもりが伝わってくる。これだけ布を重ねてもわかるということは、晴時の体温はかなり高い。なんとなく落ち着かなくて、志乃はもぞもぞと身じろぎをする。
背中のちょうど真ん中あたりに、縄が当てられた。おや、と思う間もなく晴時の腹を回って一周し、ふたたび志乃の背中に回る。力強く引き絞られて、固結び。
密着どころか、晴時とくっついたまま固定された。
志乃と晴時を繋いだ縄は、そのまま地上へと伸びている。なるほど、これが本当の命綱というわけか。
「よほどのことがない限り落ちないとは思うが、しっかり掴まっていろ」
結び目をたしかめた晴時が、志乃を背中にくっつけたまま足を伸ばした。両手で地上へと続く縄をしっかり掴み、土壁に足をかける。
彼がぐいぐいと穴を登りはじめたので、志乃は慌てて腕に力を込める。足先が空をかいた。ちらりと肩越しに下を見る。地面とはすでに志乃ふたりぶんくらいの距離があった。眺めている間にも、蛇の巣穴の底はどんどん遠くなる。宙ぶらりんになっている自分の足も見えた。高い。怖い。
下より上を見よう、と顔を上げれば、たっぷりとした日の光に目を焼かれた。どうしようもない。でも目を瞑ったらもっと怖い。
となれば見る箇所はひとつしか残されていない。
自分を運んでくれている晴時である。近くでまじまじと見てはじめて気づいたが、彼のポニーテールは本当に適当にくくっただけのようだった。手櫛でまとめたらしく、ひっ詰められた髪は乱れている。髪紐は布の端切れだろうか。糸がほつれて飛び出ていた。
「もったいない……」
「耳元でしゃべるな。何がだ」
「いえ、何でもないです」
うっかり声に出してしまった。
(だって、本当にもったいない)
どれだけ適当にまとめられていようとも、どれだけぼろの布で結ばれていようとも、質はいいのである。豊かな髪には縮れ毛も枝毛も見当たらない。毛先は志乃の胸と晴時の背中に挟まれているので見えないが、この様子だとほんの少しも傷んでいないに違いない。
志乃はちょっと頭を振って己の髪を見た。
……そっと目を逸らした。何も言うまい。比べてしまったら乙女心が傷つく。
「よかった、ふたりとも無事だね」
真也の声がすぐ傍で聞こえた。
髪の毛に気を取られているうちに、巣穴を抜けていたらしい。鉄紺の羽織の集団――祓守師と、遠方に見える山を目指して続く街道。左右に広がるのは人里を沈めた草原。
今朝以来の、地上の景色だった。
晴時が手早く腹を括った縄を解いた。志乃の体が不安定になる。ゆっくり腕をほどくと、軽やかな音とともに足裏が地面に触れた。
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