第11話

 椿のご機嫌は露骨だった。それはもう、目も当てられないくらいに。

 何は無くとも楽しげで、目が合うだけで無邪気にはにかむ。あまりにも眩く、どうにも落ち着かない。 

 堪えきれず、口を開く。

「……あのさあ。アレは言葉の綾っていうか__。」

「はい、お弁当。」

 遮るように言葉を被せ、弁当箱が差し出される。

 晶は訝しみつつそれを受け取り、椿の表情を伺った。どうぞと手で勧められ、躊躇いつつも包みを解く。

 だし巻き卵に、切り干し大根。きんぴらごぼうに、ほうれん草のお浸し。

 カラスはいかにも楽しそうに、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。

 これはつまり、そういう事だろう。

 これを見ても、その先が言えるのか?と。

 __コイツ、めちゃくちゃ調子に乗ってやがる!

 そうは思えど、晶にそれを跳ね除けるだけの胆力があるはずも無く。案の定歯噛みする晶に、椿は満足げな笑みを浮かべた。

 デザートに林檎のコンポートまですっかり平らげ、空になった弁当箱を包み直して返却する。

 カラスはそれをランチバッグにしまうと、いそいそとスカートを整え、「どうぞ」とばかりぽんと膝を叩いた。

 椿の顔を見やる。慈母の如き柔らかな微笑。

「……冗談でしょ。」

「あんなによく眠れたのに?」

「よく眠ってたから、気付かなかっただけ。」

「寝付くまで撫でてあげるのに。」

「意味わかんない。」

「それはもちろん、おばあ様のようにはいかないかもしれないけれど__。」

 沈黙。

「……なんで、そこでおばあ様が出てくるわけ?」

 辛うじて平静を装い、問いかける。声音は硬い。

「撫でている時、寝言で『ばあば』って言っていたから……。」

 じわりと頬が熱くなる。

 何を思ってか、椿はおずおず手を伸ばした。指先が髪に触れるなり、濡れ犬よろしく頭を振って拒絶する。

 椿は驚き、手を引っこめた。乱れた髪もそのままに、じっとりと椿を睨め付ける。

「……アンタさあ。」

 椿は、飛んでくるであろう拒絶の言葉に身構えた。しかし、今日の私はひと味違う。なんと言っても、公認の『お友達』なのだから__。

「……そんなに、撫でて欲しいわけ?」

「……え?」

 晶はニヒルな笑みを浮かべ、にじり寄る。

「そんなにしつこく言ってくるって事はさあ、嫌がらせでも無い限り、自分がされたら嬉しいと思う事なんでしょ?」

 一転攻勢。椿は脳裏に沢山の疑問符を浮かべながら後ずさり、尻もちをついた。

「ふはは。観念しな!」

 指をわきわき、これは愉快とさらに迫れば、カラスは瞳をせわしく揺らし、唇をわななかせ__覚悟を決めたかのように、ぎゅっと固く目を瞑った。

 __観念、しやがった。

 本当に観念するやつがあるか。

 観念されて頭を撫でたら、ただイチャついているだけではないか!

 そうは思えど、ここで引いては増々コイツの思う壺。折角手にした攻めの糸口、みすみす手放すわけにはいかない。

 とは言え、曲がりなりにも女として、その手入れの行き届いた黒髪を乱暴にかき混ぜる勇気はなく__結局、晶は椿の頭にそっと手を乗せ、そのなだらかな頭蓋の曲線に沿って、ゆっくりと手を滑らせた。

 カラスはその白磁の如き肌にじゅわっと朱を滲ませ、上目遣いに晶の様子を伺いながら、されるがままになっている。

 濡れているかのようにあでやかなツヤと、陽に透かすと青みがかるような、深く、軽やかな黒。細く豊かな髪は清流の如くさらさらと流れ、揺らめくたび、仄かに香る。

 シャンプーや香水のそれではない。どこかくすんだような、セピア色の穏やかな匂い。例えるなら、お香や匂い袋のような……。

「……私の髪、そんなに気に入った……?」

 ただ黙々と撫でられるのに耐えかね、椿は自らの髪のひと房を摘みあげると、その穂先で晶の鼻先を擽った。

 椿は、反論するだろうと思った。しかし、晶は名残惜しそうに椿の毛先を弄ぶ。

「……羨ましい。」

 自然と零れ落ちたそれは、晶の素直な感想だった。

 晶の髪は太く、硬く、量も多い。それに加えてうねる癖毛と、色素が薄く、茶けた色味も相まって、伸ばすと獣のようになる。

 幼い時分、猪の毛皮に触れた折、その手触りが自分の髪とよく似ていると思った。以来、晶にとって、自らの髪はコンプレックスだった。

 故に、椿のような綺麗な髪は、まさしく理想のそれであった。色彩の耽美。手触りの妖艶。一挙一動に沿い、嫋やかに揺れ動くその様。

「私は、佐伯さんの髪も素敵だと思うけれど……。」

 晶は、目に見えてむっとした。下手な世辞だと思ったのだろう。椿にはその不機嫌が手に取るようにわかったが、お互い様だと謝ることはしない。

「でも、気持ちはわかるかもしれない。私も、自分の髪、あまり好きじゃないから。」

「……なんで。」

 __そんなに綺麗なのに。

 羨望と嫉妬。憧れの否定。続く言葉は呑み込めど、言葉は自然と硬さを帯びる。

 椿は、悩んだ。それは極めて深いところにあるモノであって、椿にとって、晶はその外に居る存在だった。

 知られなくても良いことだ。知った上で拒絶されれば、私はきっと、お門違いと知ってもなお、裏切られたと思ってしまう。

 今の関係がただ続けば良い。

 何も、呪いを擦り付ける事はないのだ。

 ないのに__それでも、話したい。

 どうして?

 私を、知って貰いたいから。

 どうして。

「__佐伯さんも言ってたけれど、私、不気味でしょう?笑顔が怖いだとか、何考えてるか分からないとか、昔から散々言われてたの。」

 答えも見つけられぬまま、笑い混じりに、冗談めかして語り出す。あくまで過去の事として、とっくに塞いだ傷として。

「小学生の頃はもっと短くて、おかっぱ頭だったのね。それも相まって、市松人形ってからかわれて。それが嫌で髪を伸ばしたら、頭に『呪いの』が付いただけだったわ。呪いの市松人形。笑っちゃうでしょう?」

 椿の自嘲に、晶は哀しいような、苛立っているような微妙な表情をして、ただ口を引き結んでいる。

 椿は頬を緩めた。このひとの、こういう所が好きなのだ。時折見せるこの表情は、このひとにとって一体どんな意味を持つのだろう。

 もっと知りたい。全部知りたい。私を知って貰いたい。理性がブレーキを握るけれど、いちど芽生えた衝動の種火は、緩やかに、しかし確実にその勢いを増してゆく。

「中学に上がると、揶揄われる事は減ったわ。むしろ、髪を褒められることが増えた。羨ましい、どんなケアしてるの?だなんて。その中には、昔私をからかっていた子も居た。みんな、感情がひっくり返ったみたいに__私に、接したわ。」

 負の感情が沸き立ち、鍋肌をせり上がる。椿は口を噤んだ。火を弱めなければならない。これ以上は、吹きこぼれてしまう……。

「……いいよ。聞くよ。話しなよ。」

 晶は、膝の上で固く握られた椿のこぶしに、そっと手を重ねた。そのこぶしは、小刻みに震えていた。怒りでも、悲しみでもない。過ぎたとて褪せることのない、暗い春を思うやるせなさ。

 晶の中にもそれはあった。内側から破れんばかりの息苦しさ。堪えがたい衝動。いっそ狂ってしまえれば、どれだけ楽だったろうと思う。

 椿は、胸の深くに息を沈めた。目を瞑り、覚悟を決め、細く吐く。

「……中学の頃の私はね、何と言うか__すごく、トゲトゲしてたの。その頃は色々あったから、余計に。誰も信じられない。みんな嘘つきだって。正直、今でも引きずってるし、人との接し方は分からないまま。」

 __あの日の私は。

 木枯らしの吹く屋上。不安定に軋む曲面の上で、私は確かに、終わりを想っていた。

 ゆっくりと、こぶしを解く。指先が痺れていた。

 重ねられた手を取る。晶の手は、ひやりと冷たい。

 指を絡め、そっと握り返してみる。

 晶は、それを拒みはしなかった。

 __このひとの手は、硝子のようだ。冷たく、透けて、掴みどころがないけれど__私の中の猛る炎を包み込み、輪郭を与えてくれる。

 その姿が見えずとも、しかと私を映している。

 このひとは、私を見てくれる。

「つまり、私が言いたいのは__。」

 喉が震え、言葉が詰まる。

 あの日、あなたが来てくれたから。

 私を見つけてくれたから。

 他の誰でもない、あなたが。

「__誰でもいいわけじゃないの。」

 見ず知らずの私を案じて、屋上まで駆け付けてくれる。

 私の作ったご飯を、美味しいって食べてくれる。

 私の嫌いな部分も、好きでいてくれる。

 苦しい時、手を握って、寄り添ってくれる。

 そんなひとがただひとり、傍に居てくれさえすれば。

「……ひとりは、寂しいわ。みんなの変化を受け入れられれば、寂しくなくなるかもしれない。でも、そうしたら__あの頃の私は、ひとりぼっちのままでしょう?」

 ありのままの私を受け入れてくれる。

 嫌いなところは嫌いと言って、好きなところは快く思い、怒っていても、嫌っていても、傷つける嘘は絶対につかない。

「__だからね、佐伯さん。」

 他でもない、あなたがいい。

 あの日、屋上を顧みてくれた、私の事を嫌いなあなた。

 あなたじゃなきゃ、嫌だから。

「佐伯さんには、申し訳ないのだけれど__。」

 そのただならぬ様子に、晶はごくりと唾を飲んだ。

 今すぐにでも逃げ出したかった。しかし、繋がれた手がそれを許さない。

 熱い、熱い手であった。生来の冷え性故に、その温度が染み入ってくる感覚がありありと感ぜられる。

 真っ直ぐ眸を見据えられ、縛られたように動けない。今や二人の膝は触れ合い、互いの瞳に自らの姿を見ていた。

「だから__もう、あきらめて……?」

 その細い喉から絞り出されるは、縋り付くような、弱々しい声音であった。

 しかしその切実な哀願が、晶にはどうして、なかば脅迫じみた強制力を持って聞こえたのであった。

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こがらす、こがらし、こいこがれ。 惠上 @imani

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