第7話 おねがい、オネーチャー その②

「あ」


そのとき、何かがひらひらと心許ない飛び方で、家の庭に舞い込んで来た。


「蝶だ!」


光が叫んで、それは確かにアゲハの成虫だった。黒く縁取られた、暖かな黄色い羽根をぱたぱたと懸命に動かして、庭のレモンの木々の周りをずっと行ったり来たりしている。そう言えばもうそんな時期か。今年は春のうちに一度来たことがあったけれど、あれの方が特例で、本来なら家の庭に蝶が来るのは夏の始まるこの時期だった。


「うぅむ」


縁側に小さく丸まって、光は自分で自分の膝を抑え込むようにしている。強制的に体育座りさせられているみたいな、変なかたちだ。でもこうでもしないと蝶の方へと駆けていきたい好奇心を堪えきれないという感じだった。鼻息を荒く、さっきから低く呻き声を上げ続けている。それでも目だけはじっと蝶の羽ばたきの方を睨んで、ほんの一瞬すらも見逃すまいとしていた。


「ねぇ、おねえちゃん」


内緒話でもするみたいに、光がぼそぼそと私に尋ねてきた。もちろん、眼差しは蝶の方に囚われたままだったから、おねえちゃんという呼びかけがなかったら蝶の方に話しかけているのかと誤解するところだった。

なに、と光と調子を合わせて低く尋ね返す。いつになく真剣な表情の光が、つかまえられないかなと言った。


「捕まえて…それでどうするの?」


幼虫がレモンの葉っぱを食べるのは知っていた。でも蝶が何を主食にするのか、私は存じ上げない。やっぱり花の蜜とかだろうか。光がよく学校の帰り道に友達と一緒になって、そこらに自生している花弁から蜜をちゅーちゅー、おいしそうに吸っていたのを思い出す。光も花の蜜だけを食べるような食生活に切り替えたら、案外羽が生えてきたりするのかもしれないなぁ。代わりに病的なまでに、それこそ断食を試練と捉えてるお坊さんみたいにがりっがりになってしまうかもしれないけど。


「それは…けんきゅうにするよ!なつやすみの」


「研究ね」


咄嗟の思いつきをさも初めから考えていたみたいに誇らしげにする光に、なるほどねと同意しかける。そういえば、私自身、夏休みの自由研究ではなかったけれど、今の光と同じくらいの年の頃に、アゲハの研究をしたことがあった。あれは結局失敗に終わってしまったけれど、血縁のものに私の研究を継いでもらうというのは、案外悪くないかもしれない。これが、庭にレモンの木を持つ梶本家の宿命なのかも…。そんな妄想までした。


「いいね。わたしも昔やったことあるし、その時のノート貸してあげるよ。でも、あの成虫を捕まえるのはだめ」


「え~」


「ちょっと待って」


しぶる光を軽く無視して、スケッチブックを片手に、蝶と木々とに目を凝らす。ちょこまかと飛び回る蝶を描写するのは難しい。でも、だからこそやりがいを強く感じた。なにより、この生命力に溢れる羽ばたきを、残しておきたいという思いに突き動かされた。


捕まえることはできなくても、描いて残すことはできる。


一休さんの屏風の虎の逆みたいなこと考えながら、視線を描きかけのスケッチブックのページと、眼前のまたいつ見れるかしれない光景との間で幾度となく往復させて、少しずつ慎重に、決してなあなあで乱雑に終わらせてしまうことはないように、描き進めていく。


「「あ」」


光とおんなじタイミングで、飛び立つ蝶を見上げて落胆の声を漏らしたときには、蝶とレモンの木を描いたスケッチは完成していた。


ふらふらと酩酊しているみたいな不規則的な飛び方で、アゲハ蝶が庭から飛び出て行くのを見送ったあと、縁側から玄関の方へと回り込んで、私はレモンの木々の方へと近づいていった。


「どしたの?」


いまだに縁側で突飛な行動を取った私を見て、茫然としていた光の前に、さっき玄関で拾ってきた彼女の白にピンクの線の入ったデザインもサイズも可愛らしい靴を、ところどころ、泥だか土だか、付着して汚れていたのを払ってやってから、縁側の下に置いてやった。


「おいで」


すたすたとレモンの木の方へと近づいて、葉っぱの上を詳しく調べていると、やっぱりあった。

私が振り返って手招きをすると、サイズが小さくなってしまったのだろうか、かかとをとんとんやりながら、光がやってきた。


「これ」


そっと水を掬うみたいにして、レモンの木の葉を一枚手に取って、光に見えるようにした。わぁと、目ざとく気づいた光が、ぱぁと顔を明るくして、


「おねえちゃん!これって!?」


「そうだよ。たまご」


柑橘系の匂いの鼻腔を柔らかにくすぐる濃い緑の葉っぱの上には、ほんの小さな黄色の卵が付いていた。定規で測って一ミリあるかないかのそれを二人して眺めていると、全くおんなじ呆けたような顔をしていることに気づいて、むふふと笑い合った。

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