雪降る日、君と春と膝枕

白神天稀

雪降る日、君と春と膝枕

 四度目の春が来ないなら、このまま白に殺されたい。



 見上げた空はこんなにも暗いのに、産み落とされる雪はどうして漂白されるのだろう。

 街灯に照らされて初めて気付くまっさらな色。朝が来るまでこの身を覆い隠してくれるなら、俺もこの白に染まってしまいたい。


「これ、電車は無理だろうな」


 雪が誘惑する。このまま電車も時間も止めてしまおうと。二十三時三十五分で時計の針を最後に刻もうと。


 けれど指先は許してくれない。春も朝も待てないと喚くから、俺は自販機でコーヒー缶を買った。痛んだ手の中で缶を転がし、適当に雪を払ったベンチに腰掛ける。


「卒論、終わらせたくねーな……」


 卒論を書くことは、面倒だけどそこまで嫌じゃない。終わることが怖いだけだ。


 たった一万と数千文字のレポートを提出してしまったら、生まれてこの方ずっとあった学生の身分が剥奪される。柵の中で満足していた家畜が出荷のトラックを見つけた時も、こんな気持ちなんだろうか。


 大学は奨学金で行ってるから留年しても親は勘当まではしないだろうとか、高熱でも出して風邪になった方が免罪符になるだろうかとか。いっそこのまま雪に埋まって、学生の身のまま生涯を終えるのも悪くはないかもしれない。


 そんなことまで考えてた。


「なんだか、卒論サボりたがってる不良後輩の声がしたのは、気のせいかな?」


 だからそれが、雪の静寂が聞かせた幻聴なんだと俺ははじめに疑った。

 ただそれは幻なんかじゃなかった。何度も聞いてきた風の音の声、一年前までいた春の足音。


 鼠色のカーテンから顔を出すように、よれたスーツにコートを羽織ったその人が立っていた。


「燐、先輩?」


「やっほー。卒業して以来だね」


 春は相も変わらず、俺に微笑みかけていた。



 先輩は自分のお汁粉ついでに、俺の分まで驕ってくれた。


「コーヒー飲めるか分かんなくて。ココアで良かった?」


「ありがとうございます。甘いのならなんでも」


「君も結構お子様口だね。私もコーヒーダメなの」


 もえ切っていた空き缶を雪で隠しながら、ベージュの手袋から渡されるホットココアを両手に包んだ。


 当然俺はどっちも飲める。けど先輩が飲む方に合わせて、いつも甘い飲み物を選んでたらすっかり甘党になってた。

 最近は飲むことが減って、そのことさえ忘れかけていたけど。


「卒論行き詰ってるの?」


「いや、調査とか分析は済んでて、もう書くだけ、っていうか半分ぐらいまで書いてます」


「え、普通に真面目してるじゃん! この時期からやってるなら全然間に合うよ」


「はは。まあ、ここに来てモチベーションなくなっちゃったんですけどね」


 さっきまではそれで凍死してしまおうと考えてた、なんて冗談でも言い出せる気にはなれなかった。


 自分のことはあまり聞かれたくなくて、俺は女性もののビジネスバッグをぼんやり眺めながら話題を逸らす。


「ところで先輩、会社はどうです? 一年働いてみての感想は」


「勿論バリバリ働いてるよ! 難しくて大変なことも多いけど、若いうちに経験と思って毎日奮闘中」


「さすが、先輩らしいです。俺なんて――」


「って、言いたかったんだけどなあ」


 今日は珍しく、先輩はそっぽを向いたまま話してた。


 人の顔を覗き込むように目を合わせてきた先輩が今だけは、誰もいない道の真ん中に語り掛ける。


「ごめん、一瞬カッコ付けようとしたけどやめた。ホントは全然上手くいってないんだ。会社じゃポンのコツ」


 柔らかい声色はいつになく強張って、空元気が酷く喉を震わせている。

 腕や足を押し出すように伸ばすジェスチャーも、横目でチラリと拝んだ表情も、この寒さに凍えていた。


「意外、でした。燐先輩って成績良かったし、サークルも仕事もガツガツやってて、一番仕事出来そうなイメージでした」


「思うでしょ? 実を言うと私もちょっと思ってた。自惚れかなー。社会人にもなって自分にガックシだよ」


「会社がブラックとか?」


「ううん、環境は超ホワイトなの。人はみんな優しいんだけど、どうしても業務が合わなくってさ。同期も先輩も簡単にやっちゃう仕事が何一つも出来なくて」


「まだ、焦らなくても大丈夫ですよきっと。まだ一年目なんだから」


「でもみんな、来年はもっと難しいことするんだよ? それがあと四十年って、無理だなあって。大学十回入り直すぐらいの間やるとか、考えられないなって」


 先輩にとって大学とは、全身全霊で生きた四年間だったんだろう。

 俺は勉強もバイトもサークルも、何一つ妥協しない先輩の姿をよく目で追っていた。常に忙しそうにしてるのに、それでも笑顔を絶やさない春風のような人を。


 そんな春が三年間、俺の前で微笑み続けてくれたんだ。忘れるなんてできないさ。こんな冬の雪化粧にも、脳裏に焼き付いた笑みを映し出すほどなのだから。


 その春が今、どんなに口角を上げているとしても、笑っていないことなんて見なくても分かる。


「あ、壊れるって、思っちゃったんだ。あれ以上辛いこと、乗り越えられる自信、へし折られちゃって」


 春は雪を解かして、草花を咲かせる。そうやってこれまでを生きて来た。

 ただ今年の冬は酷い寒波だった。毎年強まる予報に、春は雪を解かせなかった。


 解かせない年もきっとあるだろう。ただその事実が、先輩を冬に置いていってしまったのだと思う。


「こんなに良い環境でも働けないなら、自分はどこも働けるとこないなって考えたら、心折れちゃった」


 雪解け水が頬を流れた。冬の川は冷たく、痛むのだろう。


 その涙が止まるまで、俺は片手でそっと先輩の背を撫でた。冷え切った体温はコート越しにも伝わって来る気がした。


「それでさっき、退職代行のサイト見て歩いてたら、たまたまキミがいたから……声かけちゃったんだよね」


 涙を流し切って、少し湿った笑い声がこぼれたのを聞いて、手持ち無沙汰な手をそっと自分の近くに戻す。


 鼻先を赤くした先輩は髪を揺らして、また俺の目を見てくれた。


「キミは、学生を悔いないように楽しんでね。そして私みたいに、ならないで」


 冬の寒さで弱ってしまった春。それでもその暖かさは変わらない。一年前と同じ春だった。


 雪に覆われて止めてしまおうなんて思っていたけど、俺の時間はとっくに止まってたんだ。桜の振ったあの日、俺の時間だけが氷漬けになっていたことにようやく気付いた。


「先輩。俺今日、卒業すんのが嫌で死のうとしてたんですよ」


 解かされた氷の中から、気が付いたら言葉が走り出していた。


「……そっか」


 少しだけ目を見開いて、先輩は静かに頷いた。ただ横で、春はジッと座って待っている。


「俺は大学の年間が楽しかった。もう時間が進んでほしくないぐらい楽しい時間だったんです」


「一年は、楽しくなかったの?」


「うん。だって最後の一年は、先輩いなかったから」


 自分でも分かっていなかったものまで、冷えて固まっていたようだ。

 解け出した氷水は川を流れるように、春の記憶を運んで来る。


「覚えてます? サークル誘って貰ったのも、初めて酒の味覚えさせてくれたのも、遊園地に遊びにいったのも、燐先輩が誘ってくれたんですよ」


 その記憶は春も冬も、秋も夏も、すべて一色だった。ただの一度も寒さを知ったことなんてなかった。


 だから俺はいなくなった春の影をなぞって、冬の中で息絶えそうになっていたんだ。


「つまんなかったですよ、この一年。ずっと連絡くれないし、もう俺なんか眼中にないと思ってたし」


「……ごめん。忙しかった、なんて言い訳だよね。カッコ悪いとこ、見られたくなくて。今日まで何も送れなかった」


 先輩の謝罪に俺は首を横に振る。


「それも俺が遅かったせいだ。結局卒業式の日も、ちゃんと向き合うって決めたのに、結局何も言えず仕舞いだった。それからずっと諦めてた」


 俺の目まで雪解けになって、鼻からも溢れ出していた。笑って誤魔化しながら、袖で何度も拭うことを繰り返す。


「もう二度と叶わない夢なら、いっそ雪に埋もれて死んだ方が綺麗に終われそうかなって」


 言いたいこと吐き出して、また俺は雪の中へ埋まってしまいたくなった。


 大人になったみたいな気取った態度してるくせして、はっきり言い切れない胃自分の幼稚さに心底嫌気が差す。

 図体も年齢も大人と変わらなくて、今朝剃った顎ひげもマフラーに引っかかっているのに、中身は中途半端な子供のまま。


 あの日から一歩だって進んだ気なんてしない。


「結局、考えること同じかぁ」


 でも先輩も、俺を置いていった訳じゃなかった。


 手袋の毛糸が俺の小指と薬指に、先っぽだけが重ねられる。


「学生のまま終わりたい君と、学生に戻って続けたい私。どっちもお子様のままだ」


「……大人なんて上手く見栄張ってる子供が大半ですよ。大の字に手足広げて、その無理を続けられる人たちが大人って言われてるだけ」


 嬉しいんだか、恥ずかしいんだか、寂しいんだか。堪えてる涙の意味も分からないまま、必死に口をつぐんでた。


「子どもだったら、傷の舐め合いも許してもらえるよね」


 先輩がそう言った途端、視界が九十度横に倒れた。


 世界が起き上がったのかと錯覚した時、咄嗟に俺は空を見上げる。

 ベンチに転がされた俺は暗い雲も落ちて来る雪も見えなくて、先輩の顔だけが昇っていた。


「ね、耳。真っ赤だよ」


 不意に見せられた悪戯な笑みに声が詰まった。耳どころか、顔まで赤く染められていたに違いない。


「え、あっ、これは……」


「ここに頭乗せて。あっためてあげる」


 言われるがまま頭を動かされ、柔らかい膝の上にまんまと乗せられてしまった。

 耳の膨張と心臓の鼓動で音が世界から消える。夢かと思ってまばたきや手をつねるのを繰り返しても、景色に変わりはない。


 止まった時間はゆっくりと、降り積もる雪より遅い時の中で針を刻む。白のマーブルが虚空で止まっているように見えるほどの緩やかな二人だけの時間。


 それまでの寒さは嘘みたいに溶けて、眠ってしまいそうな暖かさが、春がそこにあった。


「なかなか、恥ずかしいですね」


「嫌だったらやめるよ?」


「……いや、このままでいさせて下さい」


「うん、いいよ。私もそうしたい」


 歩道から伸びている街時計が霜で見えなくなるまで、俺は先輩の膝の中にいた。

 右手は手袋の手と繋いで。



 心臓の音が耳から離れた頃、先輩の膝から空を見上げていた。


「燐先輩。俺、就職やめるかも」


「大学、やっぱり留年する?」


「いや、先輩の話聞いてたら、会社勤めは嫌だなって」


「あはは、脅かしちゃったかな」


 お互い、未来の話をしてももう凍えてはいなかった。


「だから俺、実家の仕事手伝おうかなって」


「そっか。キミの家って農家さんだったよね」


「書類に押し潰されるぐらいなら、昔から触ってる土に埋められる方が良いかなって」


「じゃあ、実家に帰るんだね」


「いや、家には帰りません。近所でも良いから別居します。また毎日会ってると疲れる気がするから」


 雪解け水の中から、手も顔も赤くして勇気を拾い上げる。


「子どもな自分を捨てきれないけど、ちゃんと大人になるからさ。燐先輩……」


 まだ中途半端でも、もう時間を止めないように、その言葉を口にする。


「俺、今のここから離れたくないよ」


 震える体から絞り出した声は、今度はしっかり春に届いた。


 冬明けの陽射しのように、手がそっと頬を包み込む。


「キミがそう言ってくれるなら、いつでもやってあげるよ」


 春があまりにも眩し過ぎて、思わず目を瞑ってしまう。それを見て先輩はいつも通りケラケラと笑っていた。


 すっかり絆されて俺の顔と胸まで暖かくなっていた。喉も解されたことで、俺は気まぐれに尋ねてみる。


「先輩って、ベッドと敷布団でいったら、どっちが好きですか?」


 目を閉じた先輩は少し考えてから、頬を緩ませて答える。


「敷布団かな。床が近いと、なんだか安心できるから」


 話に上げているだけなのに、先輩はもう布団に入っているような表情を浮かべている。


 そこから右手を掴んだ先輩の力が、ほんのちょっぴり強くなった。


「少ないと思うけど、退職金が出るからさ。大きいやつ買いにいこうね」


「分かりました。卒論書き上げたら、一緒に見に行きましょう」


 ベンチに座ってからも降り積もり続けて三センチ。雪に隠したコーヒー缶は、もう何処にいったのか分からない。

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