第38話 後景
「……ふう」
息と共に、淡い震えを吐き出す。
確かに水に沈んで、しかし目を開ければ乾いた場所にいる。ここまで何回も繰り返してきた過程だけれど、毎度、階段から落ちる夢を見て目を覚ますようで心臓に悪い。
右手に繋がった蔦が引かれる感触に顔を上げると、上から伸びる蔦の周りを滑るようにして、白い鳥と黒い月が落ちてくるのが目に入った。座ったまま両手を伸ばして、抱き留める。
「ありがとうございます、ココ様」
「おわ、びっくりした! 受け止めてくれたんね、助かる」
「ふたりとも、今回も特に異常はありませんか」
私の問いに、トケイは頷き、厭忌の精霊は軽く盾を上下させる。
「ん、なんともないんね」
「こちらも問題ございません」
「それなら良かったです」
ひとまず安心しながら、私は周りを見回した。
辺りの光量は少なく、相変わらず薄暗い。しかし頭上のあちこちを、光る小さな花びらが舞っている。より正確に言うなら、落ちてきていると言うより、生き物のような不規則さで飛び交っていらと言うべきだろうか。
菫色の線が、闇に慣れた視界に破れ目を残していく。靴の下に力をかけると、軽く弾みがつく。私には柔らかい腐葉土のように感じられた。
「トケイ、ここはどんな感じの場所?」
腕の中のトケイに向けてそう尋ねると、トケイは右の方に身を乗り出してから、軽く頭を捻る仕草をした。
「……あーっと、なんなんねこれ、蝶? 蛾? 蛍? ともかくそこら辺に似た虫が、ココの頭の上を左の方に向けて沢山飛んで行ってるんよ。まあこっちには来なさそうだけんど。で、足元は……なんかつるつるしてる以外よく分からんね……何かの植物の葉っぽくもあるような。ひとまず、動かなさそうではある」
ありがとう、と返しながら、私は内心少し残念に思う。今度こそは、はっきり見えたと思っていたのだけれど。私の視界だと精度に欠けるのは、ここでも変わっていないようだ。
「安全そうなら、このまま休憩にしましょうか」
「はい、承知いたしました」
「まあ特に変なのとかもいないし、いいんじゃないかいね」
ふたりの肯定の返事を聞きつつ、私はその場で片足を立て、片足を伸ばす。両手に抱えた精霊と鶏が、ほんのりと温かかった。先程水に潜ったように感じたのはあくまで錯覚に近いから、服も髪も濡れてはいない。けれどもこの『裏側』はどこでも初春くらいの温度を保っており、薄らと寒い。それこそ、光の当たる表面からは遠いからだろうか。
表面。現在地に対応する『表側』は、水銀を用いて作られた世界だということだけれども。この『裏側』の景色とはどう繋がりがあるのだろうと、ふと疑問に思う。
ここにも何か似通ったイメージがあるのだろうか。紫の羽虫、何かの葉。滑り落ちる、水銀の丸い滴と、朝露の玉、などか。
勿論実際のところは、創世者本人に聞いてみなければ分からない。それでもこうして『裏側』を見ているだけで、いくらでも想像を広げていけるような気がした。
誰にも見られる事もなく、『表側』と繋がりその幹を支える景色と、心象。
それは確かに表に出なかった場所かもしれない。けれども、私は。
──考え事をしているうちにうとうととしてしまっていたようで、気が付けば頬の周りを、柔らかい羽と、樹脂のような硬さの滑らかな質感が取り巻いていた。
顔を上げると、腕の中から、囁くような意思が伝わってきた。
「ココ様、大丈夫でございますか」
「……すみません、重くなかったですか?」
「こちらは問題ございませんが……」
言い淀む厭忌の精霊に、瞬きをしながら視線を動かすと、仏頂面をしたトケイと目が合った。私に潰されていたのか、鶏冠が斜めになっている。
「……もしかして起こそうとした?」
「わりと」
「ごめん、全然気付かなかった」
「暴れても起きなかったんね。シクにも言われたの忘れるなよ。新世代? は感覚が鋭くて生き物にも近いから、だんだん普通に疲れたりもするようになるって言われてたんね」
「……ちゃんと覚えてくれてたんだ」
何重かの意味で、苦笑する。
トケイは、あまり他人の話を聞いていないと自分で言っているけれど。事実、適当に流していることもあるようだけれど。
最近は特に、私と旅する中で忘れてはいけないと思った事は、こうして残さず覚えようとしてくれている。多分彼は、私に焦点を合わせようとしてくれている。
だから、この頃については。いつも側にいるひとの忠告を聞かずにいるのは、正しくは私の方なのだ。
頭を振ってから、私はもう一度ゆっくりと瞬きをした。常に薄暗いせいか、周りがよく見えないと、自分の内側もぼんやりしてくる気がする。
「先に休ませてもらってありがとうございます。ふたりとも休んでいませんよね。私はある程度体力も戻ったので、交代しましょう」
「ありがとうございます、そうさせていただきます」
「とりあえず地面に戻してくれね」
素直に頷く精霊と、相変わらず仏頂面のトケイと。ふたりを膝から下ろしつつ、ふと、不思議になった。夢から目覚めた後に『そういえば世界は丸かったのか』と思い出すようにして、私は軽く首をひねる。
このふたりはそれぞれ長い年月を過ごした精霊という共通点はあるけれども、性格はまるで違う。ミマシたちのような同時代の導きの神も、その役割の分を除いてもそれぞれに個性的だ。本質は違えど、私たちは全て、創世者から切り離されて、ヨロズハに形を与えられたものであるというのに。
ひとをつくるのは、生まれ持ったものや環境や、そういったもの全てなのだろうと、私は思う。
それならば私達にここまで個性があるということは、彼らの生きるこの場所が──創世者が生み出し、ヨロズハが抱えるこの世界たちが、それだけの多様さを生み出せるほど豊かに呼吸し続けている、ということでもあるかもしれない。
春の遥か前に積もって腐る枯葉のように、今いる『裏側』にも沢山のものを抱えながら。
世界たちと、生き物たちは、確かに今生きている。
「……急に黙り込んでどうかしたんかいね?」
「ちょっと考え事をしていて。世界も精霊も生き物も導きの神も、みんなそれぞれ生きているんだなというか」
「今更何言ってるんね」
「うん、今更は今更だね」
空になった膝を抱えて、一刹那だけ、目を閉じる。
「……ふたりとも、何となくでいいので、聞いてもらえますか。そのまま寝てしまったり、聞き流してもらってもいいので」
「なんでございましょう?」
左側の地面から、厭忌の精霊が問いかけてくる。『裏側』に来てから、精霊の新月の夜のような光は、比較的安定して内側に灯っているようだった。また、拡散とは違った、漣のように端から伝う揺らぎも、時折その光に映してくれるようになった。
「私の見た目なんですが。元々、何でこうなってるのかよく分かっていなくて。ついこの前、やっと由来を思い出しました」
右側に座り込んで丸くなったトケイが、片目だけ開けてこちらに視線を向ける。返事の代わりに、彼に湛えられている白い光が、くるりと一度回転する。
「私の生き物時代の夫は、小説家だったんですが。私は時々、夫が丸ごと没にせざるを得なかった物語の原稿を貰い受けていまして。今の私の容姿は、そこに出てきた登場人物の姿を継ぎ合わせたものだと思います」
声に出しながら、彼らの面影をなぞってみる。
白亜のビル群を渡り歩く、金色の瞳をした夜闇の語り部。
銀の髪を炎で照らしながら進む、溶岩の世界の救命士。
氷を削って儚いランタンを作る、黒い服の灯職人。
銀細工で飾られた櫂を持って舞う、船を守る祝福の整備人。
彼らだけではない。声や、目鼻立ちや、私の他のあらゆる部分もきっと、今挙げきれなかった人々の蓄積でできている。
導きの神は、本人の思う『導く者』の姿で生まれる。シディアは特に分かりやすい例であったそうだ。シク曰く、彼の名前と姿は、彼が生きていた世界の大神のものだったという。
一方私にとっての『導く者』は神ではなくて、多くの人目には触れなかった物語、その登場人物であったのだろう。
彼らは私が生み出したわけではない。けれども、満流が世に出すことができた物語の数々は、彼らを経てから創られているのは傍目にも分かっていた。
外に出してあげられなかった代わりに、伝え方を学ばせてもらったこともあると聞いた。また別の物語の雛形になってもらったこともあると聞いた。彼らは皆ただの過去であるだけではなく、軌跡を刻む道標だった。
思い出す。満流ははじめ、完成させられなかったものだからと、私に原稿を渡すのを渋っていたけれども。
何度か受け取りを繰り返すうちにある日ふと。
珍しく囁くような声で、『ありがとう』と一言言ってくれたことがあったのだ。
「そういう記憶もあって。……なんとなく、ですが。この表側にならなかった『裏側』も、──きっと、忘れられてしまった世界も。どうでもいいものではなかったのだと、思います。……思いたいです。ここだって、綺麗な場所だと私は感じますし。ただ少し、吹く風と噛み合わなかったり、雨の激しい時に当たってしまって、遠くに飛ばせなかっただけで」
「…………」
深い呼吸を繰り返すようにして、厭忌の精霊の光が、拡大と収縮を繰り返す。それはまるで、宇宙の形をした心臓を見ているようだった。
「……というのが、私が何となく感じたことです。すみません、休憩なのに長々と」
「……いえ……」
ぽつりと、雪が落ちるように、淡く厭忌の精霊は呟いた。
「今のココ様のお話で、また少し、定まった気がいたします。こちらが創世者の嫌う世界に行って、何をしたいのか。創世者の嫌う世界とは、なんなのか」
「……そう、ですか」
「はい。もう少し言葉に出来るようになったらお二人にもお伝えいたします」
「ありがとうございます。楽しみに、待っていますね」
頷くと、厭忌の精霊の光が雫を落としたようにして、同心円状に波打つのが分かった。
地面に投げかけられた光の波紋を追って、視線を落とす。その先で、トケイは目を閉じていた。眠ってしまったのか、それとも聞いているかどうかが分からない
静寂のまま、頭上を見上げる。
昏い空はなだらかに穏やかに揺蕩っていて、そこには星の一つも降りそうにない。私達ごと闇に包み込むような空だった。
シク聞いた、創世者たちの結末には、程遠いような天だった。
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