第39話 障壁

 幾つかの共有地点を経由して、幾つもの世界の裏側を歩いた。

 初めの方はひたすらに色々な世界を当たってみる、という見通しが立てづらい行程ではあったものの。歩みを進めてゆくごとに、厭忌の精霊は徐々に、どちらへ行きたいかを述べてくれるようになっていった。


「こちら……の方が、より近い気がいたします」


「少し、ここからはずれているようでございます」


「こちらです」


 どうやら精霊は、ぼんやりとながら裏側の構造を理解し始めているようだった。口ぶりから察するに、おそらく創世者の欠片から情報を得ているものだと思われた。

 また、それを踏まえて行き先を決めてゆけるということは、即ち、厭忌の精霊自身が目指したい場所についても、確実に形を成しつつあるということなのだろう。

 ほんの少しの寂しさと安堵になり切る前の不安定な温度を抱えつつ、私は厭忌の精霊を追い続けた。

 そうして、精霊に導かれながら、私達は『裏側』を彷徨し。やがて、一際深いその場所に辿り着いた。


      ※


 その場所の表側にあたるのは、創世者が琥珀で固め閉じ込めた、『明け風を巡らせる翅の世界』だった。

 一匹の天青石で出来た蜻蛉とんぼが星と海を牽引しながら廻り、またその過程で起きる旋風の上で、小動物たちが舞い上げられながら生活する世界。

 この下ですと、厭忌の精霊は言った。その言葉に、私とトケイは暫し息を呑み。それからお互いに、顔を見合わせた。

 厭忌の精霊の見据える、50m程先の地点。

 そこにはここより深みに繋がる場所があるようだが、それを塞ぐように、巨大な蜘蛛──と呼べるかすらも分からないものが、天に向けて13本の長い足を広げている。

 今私たちは、あれを目にした直後に咄嗟に展開した、透明な直方体に囲まれている。この旅の間に私の『書き換え』の技術は随分と上達して、こうした単純なものならほぼ一瞬で作り上げることができるようになった。

 直方体の底面と側面越しに透かし見えるのは、どこまでも広がる泥濘だ。私にはただ無個性に均された灰色の泥に見えていたそれは、トケイの目から見れば、折り重なり絡み合う錆びた鎖が混ざった、白い粘土であるという。

 その只中に、上下左右の果てが見えない、煙色の壁が広がっており、蜘蛛はそこに埋まるようにして佇んでいた。

 目視の正確さに自信はないけれど、大きさは、脚を抜いてもおそらく10m程はあるだろう。

 砂時計のような形の胴体は、植物の根を圧縮して塗り固めような、複雑な紐状の素材の集まりで出来ているように見える。一言で表せば、酷く細かな縄目紋様と言うべきだろうか。

 またよく見れば、その長い足は、数多の南京錠と、それが巻き込む折れた鍵によって形成されていた。頭と思しき部分を注視しても、目や口のようなものは確認できない。こちらを向いていないだけか、そもそも存在しないのか。

 そして何より私が戦慄したのは、こうした蜘蛛についての情報だけは、トケイの見るものと私の見るもので細部まで違いがないということだった。あれはおそらく、多少視点が違っても見間違いようのないものなのだろう。たとえば、『裏側』におけるこの場所の核とも呼べるような。

 壁の中で蜘蛛は、広げた脚の内、上から数えて二本までを、ゆらゆらと動かしていた。同時に口があるはずの位置も同じように動いており、何かを捕食しようとしているのだと悟る。その対象が私たちなのか、それともここの遥か上にいる天青石の蜻蛉であるのかまでは分からないものの。


「……あの壁、蜘蛛を捕まえてくれてるんかいね? なら、どうにかして大丈夫そうなところに穴を開けて潜り抜けたりとか」


「……でも、埋まっているというより……どちらかというとあの壁は、蜘蛛が作ったものに見えるけれど。丁度蜘蛛の巣みたいに」


 壁には僅かな凹凸がある。化石になった木の木目のように見えるけれども、その紋様の先端は、全て蜘蛛の腹部に続いている。


「……だな、ごめん、俺の見間違いだったらいいなと思ったんね」


「ここでは私より鳥目じゃないくせに。……どうしようか」

 

 身を乗り出すようにして、厭忌の精霊がこちらの正面に回り込む。


「ひとまず何か、刺激を与えてみるのはいかがでございますか」


「そうですね、そうしてみましょう」


 精霊に頷き返して、私は右手の中に、手のひら大の小石を出す。次いで、目の前の透明な覆いの一部を開き、石を蜘蛛に向かって投げつける。

 かん、と、硬く澄んだ音を立てた小石は、次の瞬間、粉々に砕け散った。

 即座に覆いを閉じ、私はふたりの方を見る。唖然とした様子のトケイが、何が起こったのかと言いたげに首を振った。


「……私に見えた限りでは。足のうち一本の関節から、弾丸みたいなものが飛んで行って、石にぶつかった気がする」


「なんほど、おめえさんの目がめちゃくちゃ良いのとあいつがえげつないのしか分からんね」


「こちらにも何も見えませんでした。正面からは行くのは危険そうでございますね……」


「私の目が良いのは多分、攻体だからだと思います。……今度はあの壁に向かって投げてみて、反応するか確認しますね」


 再び、手元に小石を用意し、覆いの隙間から投げる。壁に向かって一直線に飛んで行った小石は、壁にぶつかり、そのままのめり込んだ。どうやら私の知る蜘蛛の巣同様の、柔らかく粘性のある素材で出来ているらしい。

 蜘蛛の方は、壁への衝撃にはさほど反応しないようだった。僅かに小石の側へと移動したものの、特に先程のような攻撃を行う気配はない。

 できるだけ蜘蛛から離れた壁に穴を開けて、回り込むことを目指すべきだろうか。そう思ったその時、私は壁にめり込んだ小石が、僅かに震えていることに気づいた。


「……これ……」


「うっわ……」


「……え?」


 私が呻くのと同時に、隣から、トケイの引き攣った意思が伝わってきた。厭忌の精霊は、事態を上手く理解できていないようだった。

 その間にも、小石はゆっくりと上下しながら、壁に飲み込まれてゆく。

 やがて完全に石が見えなくなると同時に、蜘蛛の頭側が軽く動いた。何かを、嚥下するような動きだった。


「絶対食われてるんね、あれ……」


「この壁も蜘蛛の一部と思った方が良さそうかな。でもやっぱり、穴を開けるなら壁の方だと思う」


 勢いよく一撃で私達全員が入れる穴を開ける。それから、恐らく反応してくるだろう蜘蛛を掻い潜り、深みに飛び込むといったところだろうか。

 今のところ私には、それくらいしか思い付かない。


「壁の厚さは大丈夫かいね? 普通の壁一枚ならおめえさんぶち抜けるだろうけんど、分厚さによってはまずそうな気がするんね」 


「……こちらも、それは確認した方が良い気がいたします。何が調べる方法が何かあればよろしいのですが……」


「そうですね……深みに繋がる場所までの経路も気になりますし、導きの神の力で俯瞰できないか、少し、試してみますね」


 足元の覆いを指一本分だけ開き、私は灰色の泥に見えているものを掬い取る。

 そのまま、薄く白粉を塗るようにして唇に乗せ、飲み込む。導きの神の体はそうそう食べた物でどうにかなることはないものの、食べ物ではないものを取り込むのは、毎度少しだけ抵抗がある。

 何度か繰り返した通り、左の視界に周辺や俯瞰図が映り込む。しかしそこで私は、唇を噛んだ。

 色が、判別できない。

 灰色に染まった物の輪郭が、溶け出すように崩れている。

 恐らくここが『裏側』であるだめだろう。私に見える俯瞰図はまるで、日に焼けてインクがとんでしまったモノクロ写真のようだった。眉を寄せても目を細めても、それは明瞭になる気配を見せない。


「よく、見えない……」


 呟きつつ、瞬きをして俯瞰を閉じる。私は内心、頭を抱えた。勿論他に手が無い訳ではなく、一つだけ、壁やその向こうを確認する方法があるにはある。あるのだが、正直に言って成功させられる気がしない。

 ちらりと、トケイへと目を遣った。

 どうかしたかという顔で、彼はこちらを見上げてくる。暗闇の中で、尾を引いた光が残像を作る。


「……トケイ」


「どうかしたんね」


「視点、借りてみてもいい?」


「さっき使えないって言ってなかったかいね?」


 胡乱げに首を傾げるトケイに、私は目を細めて見せる。


「頑張ればできるかもしれないけれど、自信がなくて」


「……ちなみに失敗したらどうなるんね」


「爆発」


「は!?」


「は流石にしないけれど、何か具合が悪くなったりはすると思う」


「いまいちよくわからんのが絶妙に嫌なやつだな……」 


 私も失敗したことはおろか試したこともないから分からないものの、失敗した場合について、いくつか推測できることはある。

 そもそもトケイが『裏側』をくっきりと見られてしまうのは、彼自身も言っていたように、生き物の定義からも精霊の定義からも少しずれた存在であるからだと思われる。

 そのせいで、彼の『見える領域』『感じられる領域』の定義は、やや曖昧になっているのだろう。私の感覚と生き物の感覚と精霊の感覚がそれぞれ違うはずだが、彼はそこをふらふらと行き来している。だから、幾つかの条件が揃って『見える領域』がぶれると、彼は普通は見えないように定められている領域にまで、半ば事故のようにピントが合ってしまう。

 私が彼の視点を借りるというのは、彼に同調してその不具合を共有・操作ということだ。言うまでもなく繊細さが求められる作業であるから、少しでも集中が切れるとトケイの盾や本質の光に傷をつけてしまう可能性がある。そしてその傷はおそらく、盾を通じた知覚や彼自身の意思の表現能力に影響してくるだろう。


「どうしようか……」


「うーん、何かいい方法はないんかいね……」


 先程シクが成功させていたとはいえ、シクと私では、年季も細やかさも比べものにならないほどの差がある。


「……でしたら」


 振り向くと、夜霧の森のような光は、蜘蛛を見上げるようにして、私の頭より少し高い場所を漂っていた。


「こちらで、おふたりの手助けはできませんでしょうか?」


「手助け、ですか?」


「はい。こちらには、創世者の意思が少し混ざっているとお伺いしております。これを、ココ様に有利に働かせられないでしょうか?」


「創世者の力を、使う……」


 全ての世界は根本的に、創世者のために存在しているという側面を持つ。

 それはヨロズハが決めた、絶対の法則にして、どんなに世界が複雑化しても変わりえない祈りだ。確かに、創世者の意思の一部が私の行動を後押しするなら、少しは同期がやりやすくなるかもしれない。


「ですが、厭忌の精霊は、それで大丈夫ですか? 創世者の意思も確かに貴方の一部ではありますが、全く同じものと感じているわけでもないと思います。不安があるなら、無理はしてほしくないです」 


「ん、そうね、俺もそれだと後味悪いしな、ココのそこはかとない雑さに目を瞑った方が気楽なんね」


「一応丁寧に動くようにはしてるんだけれど」


「丁寧なやつは自分に油断しないから自分のこと丁寧って言わねえんな」


「……いえ、おふたりとも。問題ございません」


 ゆっくりと瞬きをするようにして、厭忌の精霊の光が、収縮と拡散を二度、繰り返す。


「この先に、行きたいのでございます。やらなくては、ことがございます。ですから、」


 僅かな間は、言い淀むためのようにも、言葉を練り上げるためのようにも聞こえた。


「邪魔を、されたくないと考えております」


 黒い光が凝縮して、手に取れそうな程の硬質な輝きを見せる。黒曜石よりもなお深く、ブラックホールよりもなお明るく。暗いまま鮮明に眩い、矛盾に満ちた煌めき。それでもこの精霊が内に抱くものは、間違いなく何かを照らすものなのだった。

 半ば無意識に、唇を噛む。事実として精霊という存在が脆いのは確かで、過信するのは、導きの神として間違っているけれど。

 精霊たちはいつも、その喜びや悲しみや覚悟を、逃れようもないほど真っ直ぐに、こうして示してくれる。それをまだ貴方は幼く弱いからと退けることもまた、彼らの未来に反するように思えてならない。

 これは決して一度目ではない葛藤だ。そしてきっと、何度繰り返しても、リスクが目の前で形を持つときは尚更。誰かを信じることと守ることの均衡は、蛇のように波打っていて分かりづらいのだろう。

 目を閉じる。逡巡の蛇行を、胸の内に閉じ込める。


「分かりました。お願いします、厭忌の精霊。──貴方の力を、貸してください」


 厭忌の精霊が、頷くようにして、私の目の前まで降りてくる。私はその場に膝をついて、唇に再度粘土を載せる。左手で厭忌の精霊に触れる。右手は、トケイの背へ。


「厭忌の精霊の光を無害な程度に少しだけ分けてもらいながら、トケイに同調します。ふたりとも、いいですか」


「はい」


「ん、まあダメ元でな」


 承諾の返事と共に、私は目を閉じて、『裏側』の一部を取り込む。

 左の指先から、清流が一筋流れてくるような感覚があった。それを自分の体を通して右手に伝え、また、左手へと流れを作る。

 繰り返すうちに、自分が、夏の山になったような気がした。水を巡らせ濾過し、流れの形を変換し、そこからまた動きを分けられて茂り、実らせる。迎えと旅立ちの中継地点。

 瞼の裏に、徐々に像が結ばれてゆく。先程私一人でこの場を俯瞰した時よりも読み込みに時間は掛かっているものの、描き出されるものの鮮明さにおいては段違いだった。

 佇む白い光と黒い光。その狭間にいる私自身の姿。そして、この場を分断する、灰色の壁。

 蜘蛛の胴と足がこちらを向いて、そこから盛り上がっている。大蜘蛛を埋める、その隔壁の厚みは、私の大きさと比べて測るなら約2mほど。これなら問題なく貫ける。

 しかし私はもう一つ、その壁と共に立ちはだかるものを見つけてしまった。

 息を詰めた後、私は二人に協力してもらえて良かったと、心の底から感謝する。このまま通過しようとすれば、犠牲も出たかもしれなかった。


「ふたりとも」


 俯瞰図に集中したまま、私は囁く。


「……裏側にもう一匹、います」


 表側と同じ形をしており、しかし脚を形作る錠や鍵に加えて胴体部分の縄目までもが、重くざらついた赤錆に覆われた蜘蛛。

 それが、巨大な壁の裏側で。壁を食い入るように見上げながら、表から来るものを待ち構えていた。

 

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