第5話 柱樹 前編

 シートベルトを外す音が、やけに慎ましくかしゃんと響いた。

 扉のロックを外す直前、私は小さく深呼吸をする。

 窓の外には、一面の緑と、それらが作り出す影の網。咲き誇る黄色の花からは茶色の蜜が滴り、葉を伝う雫に小さな虫が群がる。

 窓を擦った枝が、虫の運んできた土をガラスの上に残していく。ドアを開ければ、様々な匂いの混じり合った空気が喉に流れ込むだろう。

 それでも、明らかにそうと分かる生の気配に満ちながら、鉄扉一枚の向こうは、静寂に包まれている。この世界では、音でコミュニケーションを取るのは難しい。振動は全て、この根と葉で足元と空を支える植物たちに飲み込まれてしまうためだ。


「……着きました。ここが、創世者が香水で表した、『緑で編み上げられた水上の世界』です。外に出たら声が通りにくいので、一度見て回ってからこの車に戻って、説明の時間をとりますね」


「分かりました」


 精霊の肯定に頷き返し、私は、勢いよくドアを押し開ける。

 その瞬間、木々と生き物が一斉に襲いかかってくるような感覚に襲われた。

 この世界では、音が通りづらい。その理由は、この世界が今の形になった経緯に由来する。

 元々は細く小さかった藻が絡み合い、その上に枯葉が溜まり、そこにまた陸上に適応した植物が生え、という経緯を辿った植物たちは、やがてこの世界の低い天へと伸びていった。

 そこにあったのは、ゼリーより少し柔い、半固形状の空。これは特殊な性質の物質で、少しでも衝撃を与えると表面が燃え上がり、植物たちの歩みを悉く焼くものだった。

 伸びては焼かれてまた水に戻り、それを幾千年繰り返しながら、植物たちは適応する。

 揺らがぬようにお互い支え合い、吹き付けてくる風を呑み込み、ついには音さえも喰らい尽くし、必要な光さえもお互いに生み出し合った。

 そうして分厚く隙間なく、編み上げられたこの緑の籠に、かつて頼りなく彷徨っていた虫や動物たちは定住し、声を潜めて匂いや色でコミュニケーションを取るようになった。

 それが、この世界の物語だ。

 ここに存在する全ての匂いは言葉であり、全ての色は声である。だから、喩えるならば、その時私は、凄まじい轟音の渦に放り出されたも同然だった。

 葉の色は極彩色から今にも散り消えそうな灰色まで。匂いは頭が痛くなるような甘い香りから、冷たい鉄のような有機物と思えない香りまで。

 人間だった頃の感覚に翻訳するなら、都会、それも観光地の只中に突然放り出されたようなものだろうか。

 それでいて、一切の音が感じられない。映画の音声が突然途切れたような違和感に、耳鳴りがするような気がした。

 視界の端で、精霊の光が急速に収縮し、そして霧のように広がる。驚かせてしまったかもしれない。

 反対側のドアを開けると、精霊はこれまでにも増しておずおずと車を降りた。足元のはるか下には水が湛えられているはずだが、枝や茎や葉に隙間なく埋め尽くされていて目視することはできない。

 空も同様だ。背景に空も海も無く、下地になる色はただただ圧倒的に緑だった。外から見ればここは、植物で形作られた、長くて広い円柱に見えるだろう。

 圧倒されたようにゆらゆらと盾を揺らす精霊に、私は手近にあった木を指差す。木の幹にはいくつも、円錐状のこぶのようなものができており、その中は空洞で右に繋がっている。円錐の底面側、外に向かって開かれた方には、分厚い蓋が存在した。私は、それを指差しながら、精霊に鼻を隠す仕草をして見せる。

 その隣の木には、透明な枝で編まれた、蜘蛛の巣やドリームキャッチャーのような形の器官があった。その周辺にはまた、それを覆い切ってしまえるほどの花びらが備わっている。私は自分の瞼を指さし、次いで目を閉じてみせた。

 この世界の情報は膨大だ。しかし同時に、その情報をシャットアウトする器官を、ほとんどの動植物は有している。そして、それを使うことを咎めるものはない。他ならぬ創世主が、「静かでざわめきに満ちた世界」としてこの世界を生み出したからだ。

 静寂も、この世界では当然の権利となる。これならば、この精霊も生きづらくないのではないだろうか。

 そのまま、緑の地面を一歩、奥へと踏み出す。靴の跡を追うようにして、きのこの胞子が舞う。

 毒性のものかもしれないけれど、生き物でない私も、まだどの世界にも生まれていない精霊も、基本的に毒に侵されることも死ぬこともない。改めて考えると、ほっとするような、少し寂しいような気持ちになる。私たちはどの世界からも取り残されている。

 目の前を、硝子のような翅の甲虫の群れが通り去っていった。良く見れば広げられたその翅は、銀色の細かな光を纏っていた。恐らく花粉だろう。その群れと交わるようにして、別方向ら蜂のような、紅色の虫の一軍がやってくる。彼らは皆一様に、一本の樹へと向かっていた。

──その樹は、この世界の真ん中にあった。

 事情を知らない者には、もはや樹であるとは確言し難いかもしれない。傍目にはそれは、様々な種類の植物の、蔦と花と根と枝を混ぜ合わせたような、本体のない塊に見える。

 これは、この世界で最も古く存在する植物であり、最も広く枝を広げる植物でもある。つまりは、文字通りこの世界を支えてきた根幹と言ってもいい。私が人間だった頃に読んだ神話の知識に当て嵌めれば、世界樹、と呼ぶこともできるかもしれない。

 何千年、もしくは何万年と世界を守り続けてきた樹。そこに絡みつく植物たちは、その栄誉に寄生しているとも言えるかもしれないし、一方ではその栄誉を飾り、守っていると言えるかもしれない。そもそも、この数々の植物たちの向こうで、元々の樹が今どうなっているのかも分からない。もしかしたらとうに命を終えて、灰の塊と化しているかもしれない。

 それでも、この世界の植物は、この樹に並び立つことを夢見るように、競い合ってその体を広げる。そしてまた、この世界を編み上げてゆく。

 緑の世界の精神的・物理的支柱。それが、この古くて大きな樹だった。


 隣で、精霊の光が収縮と拡大を繰り返す。それはまるで、心臓の鼓動のようだった。

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