罪を知らない

驟雨

罪をまだ知らない

 曇天の雲が街を覆って、隙間から僅かに夕陽が漏れている。昼に降った雨が地に溜まり、服が濡れ、蒸れた空気が体を撫でる。空の様子を見るに、陽が落ちた頃にはまた雨が降りそうだ。地面からビルと電柱、電線、雨雲を見上げる。

 失敗したな、と思う。身体中が痛い。地面から、ビルを見上げる。かなり高いビルだ。二十メートルはあるだろう。そこから飛び降りれば簡単に死ねると思ったのだが現実はそう優しくない。

 ネットか何かで、飛び降りは簡単に死ねると聞いた。なんでも飛び降り中に失神するんだとか。昨今少し調べれば自殺方法などいくらでも出てくるわけだが。その中でも、これが一番自分に向いてると思った。だから高いビルから飛び降りた。近場で人通りの少ない場所にあるビルを知っていた。学校が終わって、そのままそのビルに向かい。そこの屋上に立って、一歩踏み出すだけだ。簡単な方法だと思った。恐怖はそこまで感じなかったし、自然な一歩だったと思う。結果こそ失敗だったわけだが。飛び降り中に失神するどころか死ぬ事もまともにできなかった。激痛が全身に響く。それに耐えながら地面に横たわった動かない体から、飛び降りた場所をただぼんやりと眺める。声を出せれば少しは痛みがまぎれそうなものだが、残念ながら声もでない。首元に激痛を感じるあたり声を出すのに必要な器官を壊したのだろう。声がでないので代わりに思考を続けることで痛みを紛らわしている。

 全身がじんわりと熱い。白湯でも体に注がれるような感覚だ。その熱が、地面に張られた雨水のおかげで少しはましになる。

 舌の根に血の味が塗られている。その血が僅かに少しずつ濃くなっている。

 もう私は、死ぬのだろうか、いや死ぬだろう。飛び降り自殺で楽に死ぬ事には失敗したものの、飛び降りはしたのだ。体全身に、心地の悪い痛みが走って、脂汗が地面の水と混ざっている。内臓や骨も死ぬのには十分な条件になっているだろう。

 ……それなら私はなぜまだ死んでいないのだろうか。いや、やめだ。こんな事を考えても意味がない。なぜ死んでないって死ぬのにまだ十分な時間が過ぎていないからだ。それだけでしかない。そもそも私がなぜ今死んでないかと問えば、そもそもなぜ私が今まで死ななかったのかという話になるし、そう話が進めば、なぜ私は自殺したのかという話になる。そんな事今考えても価値はないだろう。いや、そもそも死を待つだけの今の時間に何を考えるのにも価値はないわけだが。

 そういう思考に行き着くと色々と考えてしまう。なぜ私は自殺しようとしたのか。…………いや、考えたくない。考える必要はないだろう。そもそも今思えばくだらない理由な気がしてきた。思春期特有の意味のない、どこかエモーショナルで自慰的な。時間が解決してくれるような悩む必要すらない。大人から言わせれば、昔は私もそんなくだらないことに悩んでいた、とでも言われそうなことだ。そうそんな事だ。いや、そんな事なんだけど。少なくとも自殺を選ぶくらいには、「私は悩んでたんだよな。」。そんな言葉が口から漏れた気がした。実際は全く漏れていないんだけども。

 どっぷりと体に浸かる痛みから抜け出そうとするように、じっくりと思考を続ける。そうしていると足音が聴こえた。ざり、ざりと。水が混ざり泥のようになった砂利を踏み締める音が、一歩一歩と近づいてくる。

 あぁ、いつもは人通りの少ないこの道に今日は珍しく人が通るらしい。残念だ。体中から出血して、今にも死にそうな見た目になっているとは思わないが。もしこの通行人が私が自殺未遂をしてここに横たわっている事に気づいたら救急車を呼ぶだろう。そうすれば、病院は自殺なんてアホな事をする人間を一人助けるという無駄な仕事が増えて、私はまた死に場所を求める事になる。なんとかこの通行人に気付かれないようにする事はできないだろうか。

 そんな事を考えたがどうやら私の考えは杞憂だったらしい。その通行人は地面に横たわる私の顔を覗き込んでお気楽な声で言葉を発した。

「こんにちわ〜。そろそろ死人が出ると言う事で、一人看取りに来ましたよ。」

 頭には黒のハットを被っている。そこから綺麗な白髪が垂れている。中性的な整った顔立ちからは性別まではわからない。看取りに来た、と言っているがどういう意味だろうか。この人は人が死ぬの見るという猟奇的な趣味を持った人なのだろうか。そもそも看取りに来たという事はこの人は私がここで死にかけている事を知っているという意味になる。なぜこの人はそんな事を知っているのだろう。そもそも、友達みたいな軽いテンションで話かけてきたが誰なんだこの人は。

「はは〜、いきなり喋りかけられてびっくりですよね〜。けど安心してください。ただの死神です。怪しもんじゃあありません。ただ一つ、あなたの命を頂にきました。」

 死神、か。随分ありがたい話だ。自殺にすら失敗した私に死ぬ直前から律儀に迎えにきてくれるのだから。

 それとも、この死神も死に際私が見ている幻の可能性もある。もしそうならどこか滑稽で、冥土に一つ土産話でもできてありがたいものだが。しかしそもそも私が土産を持っていくような相手が冥土にいないという一点を除けば。

「はは、死にかけなのによく頭の回る方ですね。珍しいですよ今時。けど僕は幻ではないですよ。実在かと問われると少し言葉に詰まりますが。」

 死神はどこか嬉しそうにそう言う。言いながら私の体をじろじろと舐め回すように見つめる。あまり心地良くはない。

「うーん。自殺未遂で死にかけ。まだまだ死ぬには時間もかかりそうですし、死神が出てくるには早過ぎたかもしれませんね。何より、今から病院に担ぎ込めば死は免れるでしょう。ですが……」

 一言置いて死神が私の顔を覗き込む。少し、痩せこけているようにも見える頬、真っ白な瞳と目が合う。その瞳に吸い込まれてしまう。真っ白な瞳は私を吸い込んで、死神の眼の、血肉の奥に眠る真っ白な骨を、頭蓋を、そこから伸びる背骨を、肋を、肩甲骨を、骨盤を、さまざまと感じさせる。痛みが溢れて、熱が滲み出る体に初めて寒気を感じた。死の神が、死そのものが私の目を覗き込んでいる。

「命を取り留めたからと言って、素直に人生をやり直すような顔には見えませんがね。どうします?もうここで死んじゃいます?自殺ってなるとちょっとばかし重い罪を償っていただく事になるんですけども。」

 私が体を冷やしているのも知らぬまま、相も変わらずお気楽に死神は言う。その気楽さに私はまた少し背筋が冷えるのを感じる。しかし同時に死神の提案は心地が良かった。お気楽で、冷たくて、どこか放棄的だ。

 死神曰く自殺をするなら重い罰の償いをしなければならないようだがそれも悪くないだろう。そもそも、私がもっと重いものを背負っていれば飛び降り自殺も失敗しなかったわけだし。そこに足りなかった重さ分罪でも背負えば丁度いいだろう。

「答えは出たみたいですね。それでは、ちょっと早いですけど、死んじゃいましょうか。それじゃあ少し目を瞑っていただけますか。」

 そう言って死神は私の目にそっと手を当てる。冷たくて優しい手だ。目前に現れた暗闇に私はぽっ、と落ちる。落ちて、落ちると目の前に私がいた。死体の私だ。横に、死神がいる。自殺に失敗した私はあっさりと死神の手で眠ってしまったらしい。

「お疲れ様でした。あなたはまだこれからですけどね。なんと言っても罰がありますから。」

 死神はあっけらかんという。私はなんというべきかわからず、あぁ、とか、どうも、とかそんな言葉が口を溢れる。

 死神が私の横に座る。今の私ではなく。死体の私のだ。私もまた死体の私の隣に座る。

 死神が口を開く。

「ここからあなたには地縛霊としてこの場所で数年、数十年長ければ数百年の時間を過ごしてもらいます。もちろんどこかに行ったりはできません。これは罰ですから。けど安心してください僕がついてます。稀にですけど、地縛霊から土地神になられる方もいますし気楽に行きましょう。ははっ。」

 死神は最後に乾いた笑いを添えた。

「なる、ほど。」

 私はよくわからないまま返事をする。とりあえず、この自殺現場で長い間時間を潰す事が私の罰らしい。

 雲に隠れて気づかなかったがもう日が落ちている。ただぼんやりと街を見る。夜になり、雨が降る。ただぼんやりと街を見る。日が明ける。通りかかった通行人が救急車を呼ぶ。それをただぼんやりと眺めている。また日が沈む。ただぼんやりと街を眺める。また日が昇る。ただぼんやりと街を眺める。時折人が花を手向けにくる。知り合いかはわからない。何せもうみんな顔が変わっているし、私もぼんやりとしか人の顔を見ていない。日が地面を焼き、落ち葉が地面を多い、葉が風に吹かれれば、雪がその隙間を埋める。雪が溶ければ、新芽が咲く。桜が花を散らし、葉桜が生いると、雨がよく降るようになる。そんな光景を何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、ただぼんやりと眺めていた。

 それは、長い時間だった。いや、わからない。実は案外短いのかもしれない。ぼんやりと眺めていただけなので正確な事がわからない。感覚がなくなるほどの間私は座っていた。

 あれ、なんだっけ。なんで私がこんなところに座ってるんだ。

 そう思って周りを見ると死神がいる。隣に座っている。あぁ、なんだそういうことか。ん?あれ。なんだ、これ。死神って何だ。わからない。死の神がいるという事は私は死んだのだろうか。

 言葉が口から溢れる。久しぶりの発声にしては綺麗に発音できたと思う。溢れた言葉は死神へと流れた。

「あの、私死んでいるんですっけ。」

 死神は私を見てどこか疲れた顔で、悲しそうな目に、微笑みをその顔にたたえた。

 また、悠久の時間に私の感覚が溶けていった。

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

 |

  ∟

 死神は空を見て思う。隣に座る少女の事を。人を殺した罰に人の死を看取る死神となった自分の事を。

 少女は自分が生きているのか問うた。もう死んでいるのに。

 死神は様々な人間を看取った。罪を償う人の隣にたった。

 その皆が問うた。自分は死んでいるのかと。

 死んだ実感がないのだろう。彼らの中では、自分は生きているのだろう。

 罪を負い、償う。他者から見れば無意味としか思えぬ、償いになっているとは思えぬような時間を過ごし、その無意味で無価値で乾いた時間の中で自分は死んでいないと、皆が私に言った。

 おそらく、おそらくなのだが。償いの時間は誰にとっても不必要な空虚さだ。

 死してその時間を過ごしても死んだ実感が持てず、己は生きていると思う彼らにとっては。人生こそが償いなのではなかろうか。

 そうでなければいいなと思う。そうでないという事実一つあれば、それが唯一自分への慰めとなるから。

 死神という償いきれない罪を負う自分への、柔らかで、嘘臭く、温かで、か細い救いになるから。

 死神はそんな事を思った。まるで生きた人間かのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

罪を知らない 驟雨 @rinnu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る