第39話 鉋屑

 紀尾井町の旗本屋敷の離れは、その日の午後には終わった。佐吉と甚五郎は、あと片付かたづけをして鉋屑かんなくず穿いていたが、その甚五郎は筆で鉋屑に上手に書いている。佐吉には、その達筆たっぴつがなかなかのものだった。

「甚五郎さん、何時いつ、字を習いましたんで」

 甚五郎は、その鉋屑にれている。

唐文字からもじは自分の名前だけでして、後は、山、川、雨、水、火、月とかでして、もう少し手習てなおしやらなければでござんす」

 

 ちなみに、現在のかんなは殆どが台鉋だいかんなである。板の表面を引いて平滑へいかつするので、鉋屑は薄く長くなる。それまでの江戸初期は槍鉋やりかんなが主流であったが、台鉋が発明すると槍鉋は歴史の片隅かたすみに入ってしまった。鉋屑は紙が高価だったので、鉋屑はすぐに紙の代用となり、大工たちの文字の手本となる。最初に大工たちが教養を身に着けたのも、そう言う事もあった。


 最後の検分のため隠居がやって来た。

「なかなかの仕上がりじゃ。めてつかわす」

「へい、有り難うごぜぇやす」

 隠居は、思った以上の仕上がりに満足している様子であった。

「ところで、その方らの名を訊いてなかったろう。名を何と申す」

「へい、佐吉と申しやす」

「あっしは、甚五郎でやんす」

 二人は、手を付いて畏まった。

「佐吉と云えば、今評判の宮大工、土佐屋佐吉とさやさきちがおるのう。甚五郎と云えば、左甚五郎ひだりじんごろうも大層な名人と聞く。その方ら、少々名前負なまえまけをしておらぬか。ハッハハハ」

 この仕事の仲介人は、佐吉の事は話していなかったようだ。だが、それも仕方が無い。今や佐吉と甚五郎の仕事となると法外な金子が要ると勘ぐられ、断られるのが関の山だ。何も話さないのが得策だろう。

「いや、すまぬ。他意は無い。少しでも近づけるよう精進せよという事じゃ」

 隠居は、少し言い過ぎたと思ったのか、言葉を濁した。

「へい、お言葉どおり精進いたしやす。この度は有難うごぜぇやした」


 道具を担いで帰路についたが、まだ日も高い。

「甚五郎さん、久しぶりにまたちょいとやって帰りますか」

 佐吉は、酒を飲む仕草をして甚五郎を誘った。

「そう来なくっちゃ」

 甚五郎は、待ってましたとばかりに飛びついて来た。

「でもね、四代目、何であの時『評判の宮大工、土佐屋佐吉たぁおいらのこったぃ』って名乗らなかってんですかい」

「名乗る? そんな野暮なことはしねぇよ。黙ってんのが意気ってもんよ」

 佐吉はそう云うと、今度は甚五郎に言い返した。

「甚五郎さんだって『天下に聞こえし名人、左甚五郎たぁおいらのことよ』って名乗らなかったんだい?」

「名乗りやしたよ。心の中でね。思い切り大声で名乗ってやりやしたよ」

「じやぁ、おいらも同じだ。心の中で『評判の宮大工、土佐屋佐吉たぁおいらのこったぃ』って名乗りやったさ」

「気分良かったでがんしょ」

「ああ、こんな気分良かったの久しぶりだったよ」

「おいらも同じでさぁ」

 職人姿の二人の男は、道具箱を肩に子供のようにはしゃぎながら江戸の町の喧騒の中に溶けて行った。あちらこちらから威勢の良い掛け声や槌音つちおとが聞こえてくる。

 慶安三年秋、大江戸はまだまだ普請の真っ只中にあった。


                              終わり


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かわごえともぞう @kwagoe

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