2月1日と僕の「とらさぶろう」
大崎 灯
2月1日と僕の「とらさぶろう」
「う、うーん……。」
僕は、再び目を覚ました。
部屋はまだ暗い。カーテンの隙間から街の灯りが細く差し込んでいる。
壁にかかった時計に目をやる。針と文字盤が作る形は下が尖った約60度のおうぎ形。午前1時前5分くらいか。まだ真夜中だ。時計の下には「絶対合格!」と筆で大きく書かれたポスターが見える。塾で配られたものを父さんが去年の12月に貼ったものだ。
……まずい。
明日は第一志望の海成中の入試だ。
早く眠らなくては。
明日に向けて早くベッドに入ったというのに、さっきから何度も目が覚めてしまう。
明日の結果次第で僕の人生は大きく変わる。
母さんも父さんも期待している。
失敗するわけにはいかない。
だから、早く寝なくてはいけない。
心が焦りを感じるほどに、逆に目が冴えてくる。
眠らなくちゃいけないのに。
この三年間、夜遅くまで塾へ行き、帰った後も家庭教師の真田さんに分からないところを教えてもらって。
父さんも母さんも無理をして送り迎えをしてくれたり、過去問を解くのを手伝ってくれたり。
さらには塾まで通うのが楽になるようにと、都心のマンションに引っ越してくれた。
全て僕が海成中に合格するため。
父さんの母校である海成中に。
だから、僕も期待に応えなくちゃいけない。
来る日も来る日も勉強した。クリスマスもお正月も、先送りにした。
そんな日々も明日、明日勝てば、それで全て終わるのに。
もしも、このまま眠れなかったら。
明日、眠いままで試験に臨まなくちゃいけなくなったら。
僕は、僕の偏差値は、合格確率が50%だ。
合格できるかどうか二分の一。
もし眠くて実力を出せないとしたら……。
鼓動が速くなっていく。
もしも上手くいかなかったら、母さんも父さんもがっかりするだろう。なんて言うだろう。
僕が勉強してきたことは無駄になってしまう。
いや、そんなことを考えてる場合じゃない。
早く寝なくちゃ、早く。
明日のために勉強してきたんじゃないか。
失敗するわけにはいかない。
こんな、なんで眠れないんだ。
どうして。
ピピピピピッ!
と も る くん、おはよう!あさだよ!
ピピピピピッ!
と も る くん、おはよう!あさだよ!
懐かしい目覚まし時計の電子音声が聞こえたような気がした。枕元を探りながら身体を起こす。
だけど、その目覚まし時計があるはずがない。
気のせいだ。
実際、音は止んだ。
僕はきっと疲れているんだ。大丈夫なのか?
こんな声が聞こえるなんて。
……。
「とらさぶろう」の声、久しぶりに聞いた。
通信教育講座のマスコットキャラクター。
小学生のとらの子どもで、明るく元気。
小学1年生になるころ、体験受講を申し込めば「とらさぶろう」の声で起こしてくれる目覚まし時計がもらえるというので、泣いてまでおねだりしたのだった。
ひらがなで一文字ずつ名前を入力していって、自分の名前を「とらさぶろう」が呼んでくれた時の嬉しさといったら。
結局、その後、三年の間、通信教育講座を母さんに手伝ってもらいながら続けた。
だけど、通信教育講座は、今の塾に入るときにやめたし、「とらさぶろう」の目覚まし時計も、小学2年生になる頃にはカッコ悪いと思って使うのを止めた。今のマンションへ引っ越すときに母さんが断捨離したと思う。
なんでいまさら思い出すのだろう。
せいかい!と も る くん、すごい!
タッチペンで問題を解くと「とらさぶろう」が褒めてくれる。母さんも一緒になって褒めてくれる。
懐かしい。あの頃は勉強が本当に楽しかった。
いつからだろう。
いや、そんなことを考えている場合じゃない、明日は失敗できない日だ。
またせいかい!
と も る くん、すごい!すごい!
「とらさぶろう」の褒めてくれる声。
どうして今思い出すのだろう。
温かい涙が頬を伝う。
思い出した。
僕は、勉強が好きだった。
問題を解いて、ママと「とらさぶろう」が褒めてくれて。仕事から帰ってきてから、パパも褒めてくれて。
いつからだろう。
僕は失敗ができない。
僕よりもずっと勉強ができる人たちが塾にはたくさんいて、でも、僕は彼らに混じって戦わなくちゃいけない。負けてはいけない。勝つか負けるか二分の一の試験を戦って、そして、もしも負けたら、僕は、僕は……。
と も る くん、だいじょうぶ!
と も る くん、かんばったね!
えらい!えらい!
じしんをもって!
「とらさぶろう」が励ましてくれる。
こんな音声、あったっけ?
ゆっくりと目を開けると、ぼんやりと光る「とらさぶろう」がいた。
僕がクレヨンで書き足した茶色のヒゲがかすれているのを見て、本当に久しぶりなんだと思った。
と も る くん、
おもいだしてくれて、ありがとう!
ぼくは、いつも、
と も る くんをおうえんしているよ!
いっしょにべんきょうしたこと、たのしかったよ!
と も る くんが ぼくのしらないところで、
がんばってきたことも しっているよ!
だいじょうぶ!
きっと、うまくいくよ!
と も る くん、すごい!すごい!
「とらさぶろう」が褒めてくれる。
思い出した。
僕は勉強が好きだった。
勉強をして、褒めてくれる「とらさぶろう」も母さんも、父さんも好きだった。
僕は、また、あのころのように勉強を好きになれるだろうか。
明日の試験、僕は勝つか負けるか分からない。
だけど、それよりももっと、僕は……。
と も る くん、だいじょうぶ!
と も る くん、すごい!すごい!
ありがとう。「とらさぶろう」。
……。
ピピピピピッ!
と も る くん、おはよう!あさだよ!
ピピピピピッ!
と も る くん、おはよう!あさだよ!
懐かしい目覚まし時計の電子音声が聞こえた。
ゆっくりと目を開けると、部屋はすっかり明るくなっていた。「とらさぶろう」はいない。
夢だったのだろう。
壁にかかった時計の針と文字盤が作る形は右上が尖った67.5度のおうぎ形。予定通りの午前6時45分に目覚めることが出来た。
ピピピピピッ!
と も る くん、おはよう!あさだよ!
ピピピピピッ!
と も る くん、おはよう!あさだよ!
「とらさぶろう」の電子音声が再び聞こえる。
聞き間違いでも、夢でもないようだ。
音のするクローゼットの奥、久しぶりに見たおもちゃ箱を開けてみると、「とらさぶろう」の目覚まし時計が出てきた。時計の本体の上で「とらさぶろう」のフィギュアが変わらない笑顔で元気よく両手を挙げている。僕がクレヨンで書き足した茶色いヒゲはかすれていた。
「とらさぶろう」の足元のボタンを押す。
と も る くん、
きょうもいちにち、がんばろうね!
「とらさぶろう」は僕を励まして鳴り止んだ。
ずっと存在も忘れていて、電池も切れていたはずなのに、どうして急に動いたのか。
ガチャリ。
部屋のドアを母さんが開く。
「ともる、おはよう。朝ごはんできてるわよ。」
母さんがあの頃と変わらない笑顔で声をかけてくれる。
僕は、きっと頑張れる。
ありがとう、「とらさぶろう」。
2月1日と僕の「とらさぶろう」 大崎 灯 @urotsunahiko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます