第3話
外に出たアトリは大きく息を吸って、新鮮な山の空気を目一杯に吸い込んだ。
澄んだ空気であることに満足感を覚え、それからゆっくりと息を吐く。それだけで自然と肩の力が抜けた。
バッグから地図を取り出して位置を確認すると、アトリは前を見据えて歩きだす。
木々の隙間から差し込む陽射しを浴びていると、アトリは思わずこれが調査であることを忘れそうになってしまった。
それだけこの山は手付かずの自然に溢れ、エネルギーに満ちているのである。
これだけ自然に溢れていればモンスターの類も多く生息していそうだが、不思議と彼らがアトリの前に姿を現すことはなかった。
暫く歩いていると、アトリの目の前に大きな湖が現れた。
山々に取り囲まれた湖は、広がる青空を映したように青く澄んでいる。
陽の光を反射して煌めく水面に思わず見入っていたアトリだが、ふいに下げた視線に何かの塊が映り込む。
「……モッチ?」
遠目でも分かる特徴的な毛は、モッチの毛に酷似していた。
また襲われてはたまらないとしばらく様子を見ていたが、動く気配が無い。
どうかしたのかと、砂利を踏みしめながら近づいたアトリはモッチの前で足を止めた。
「……え」
アトリからひきつった声が上がる。
足元に転がるのは、血まみれのモッチだった。
(……ッ! まだ生きてる!)
横たわったモッチの体が微かに上下している事に気が付き、アトリは慌ててモッチを拾い上げる。
モンスターとは関わるべきではない。しかし目の前で死にかけている命を放っておくことは、アトリには出来なかった。
血でべっとりと濡れたモッチの毛をかき分けると、大きな切り傷が目に付いてアトリは息をのむ。
まだ傷口から血の流れているのが見て取れて、アトリはポケットから取り出したタオルで傷口を圧迫した。
(どうしよう……。そ、そういえばレグルスさんならもしかして……!)
先刻レグルスに助けられたとき、レグルスがモッチに何やら親し気に話しかけていたことを思い出す。
もしかしたらレグルスはモッチの生態に詳しいのかもしれない。
そう思い至ったアトリは踵を返し、急ぎ元来た道を戻ろうとした。
しかし振り向いてアトリは言葉を失った。
正面には、二足歩行で立つモンスターがいたのだ。
一つの大きな肉塊にも見えるそれは、確かに頭部と手足を備えていた。
顔面と思わしき場所に、ぎょろりとした大きな眼玉と大きく突き出た鼻。それと頭頂部には鋭く尖った耳が二つ。
胴体はたるみ切った醜悪な贅肉で膨れ上がり、平均的な成人男性よりも一回り大きいだけのサイズ感を倍に見せている。
悍ましい見た目と手に持つ血まみれの斧が、生理的な嫌悪感を誘っていた。
「ブゥア……!?」
アトリは震える声を上げ、モッチをぎゅっと抱きしめた。
斧から滴る血を目にして、アトリの本能が警鐘を鳴らす。
思わず一歩後退ると、ブゥアと呼ばれたモンスターは一歩前へ足を出した。
「え゛も゛の゛ォ……く゛う゛、く゛う゛ぅぅうぅううヅ!」
「ひぃっ!」
人語を発したブゥアが斧を振り上げ走り出す。
短い悲鳴を上げたアトリは水際をなぞる様に駆けだした。
立ち止まれば殺される。
確信めいた恐怖がアトリの中で渦を巻く。しかし慣れない砂利に足を取られ、上手く走ることが出来ない。
「え゛も゛の゛ぉぉおおぉっ゛!」
「あぁっ!」
自分のすぐ真後ろに響く声、頭上に掲げられた斧の刃の煌めきを視界の端に捉え、アトリは死の予感に震え上がる。
胸元に抱いたモッチをひときわ強く抱きしめ、思わず目を閉じた――瞬間。
アトリの頭上でガンッ! と、鈍く重たい音が響いた。
「何でも食おうとすンじゃァ……ねェッ!」
次いで聞こえた声に、アトリは目を大きく見開いた。
「レグルスさん!?」
どこからともなく現れたレグルスが、アトリに向けて振り下ろされていた斧ごとブゥアを弾き飛ばしたのだ。
その手には一本の細い鉄の棒が握られていた。とてもではないが斧とブゥアの重量を弾けるようには思えず、アトリは状況に目を白黒させる。
一方、レグルスは顔色一つ変えないで落ち着いた様子でアトリに視線を落とした。
「立てるかい? ……ン、そいつは……」
アトリの腕の中のモッチを見て、レグルスは眉間に皺を寄せる。
「……なるほど。ちょっと待ってな。すぐに終わらせる」
「危ないですよ! そんな棒一本じゃあっ」
吹っ飛んだブゥアに向き直ったレグルスの背中に、アトリは焦りを隠せぬ声を投げつけた。
しかしレグルスは意にも介さずブゥアに向かって進んでいく。
「おう、お前。今すぐ帰るなら見逃すぞ」
「お゛ぉお゛お゛……! え゛も゛、の゛ぉォオッ!」
「まぁ、そうなるか」
対話が不可能である事を察し、レグルスは呆れたように肩を竦めた。
雄叫びを上げながら、ブゥアがレグルスに向かい突進する。
手にした斧を手当たり次第に振り回しながら迫る様は暴力の権化のようであり、アトリは恐ろしさに身が竦む思いがした。
「く゛う゛ッ、く゛う゛ぅゥウぅうッ!」
レグルスの目の前に、ブゥアと血濡れの斧が迫る。
全体重を乗せたタックルで相手を転がして、斧で滅多切りにする。それがブゥアが最も得意とする戦い方であった。
その目論見通り、立ちっ放しのレグルスに転がる様に体をぶつけた。
「……ッ!? ォ、オォオ……ッ!?」
しかし手応えがまるでないことにブゥアは声を上げていた。
同族であれ人間であれ、このタックルで転がし続けてきたのだ。ブゥアには絶対の自信があった。
しかし、レグルスは立っている。
微動だにせず、何事も無かったかのように。
倒すどころか逆に跳ね返され、ブゥアはよろめきながら後退る。
固く大きな岩に、或いは大地に根を張った大木にぶつっかったのではないかと錯覚させた。
「駄目だな。そんなンじゃあ殺せんと、教えた筈だぞ」
「ゴッ、ゴアァアァアッ!!」
ブゥアは両手で斧を握り締めて、頭上高くに振り上げた。
陽光を反射して煌めく刃が振り下ろされる瞬間、レグルスはやれやれといった様子で溜息を吐き出した。
「もう見逃してやれん。じゃあな」
レグルスの額に斧の刃が触れるか触れないかの刹那、黒い光が一閃。斧が弾け飛んだ。
くるくると宙を舞い、ザンッと音を立てて斧の刃が地面に突き刺さる。
斧の握り手にはブゥアの手が付いていた。肘から先が切断されていたのだ。
「お゛……? お゛、ォ……ガァアァッーー!!」
自身の腕が切られたことに気が付いたブゥアは絶叫を上げながらよろよろと後退る。
何か鋭利な刃物で切断されたような傷口からは、不思議と鮮血が飛び出すことはなかった。
おもむろに、レグルスが鉄の棒を握り締めている手を大きく振った。
ヒュッンッと風を切るような音がして、その直後、ブゥアの体が上半身と下半身で真っ二つに分かたれたのだった。
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