第2話 薬師と山賊
市場から程近い船着場では人々が行き交い、島々を
秋風が心地よく吹き抜ける夕刻、薬師のガイは、渡し船を待つ人々に紛れて船着場にいた。
彼は、乗船する人達よりも頭ひとつ分大きな身長とがたいの良さ、そして、その身なりが目を引く男だった。
凛とした切れ長の目で、沖の風景を見ていた。
──秋になって、空気が澄んでいる。今日は遠くの島々まで、くっきりと見える。
爽やかな秋風が吹き抜け、ガイのさらりとした前髪を揺らした。美しい
その時、一艘の船が横の桟橋に寄せられた。
十数名の舟客とともに柄の悪そうな三人組が乗り込んだのを、ガイは横目に見ていた。
──山賊が町人に扮したような身なりをしている。
比較的がたいが良いその男達が大股で船に乗り込むと、小さな船は左右に揺れた。
この地域には山賊や海賊も多く、商売をしている者は被害に遭うことも少なくない。
ガイは気を放ち、三人の体格、履き物、会話の内容に耳を凝らした。
──もしも悪さをした場合、海に投げ込むしかないか。
考えている間に、その中で一番の大男が軽い調子で「隣、いいかい?」とガイに尋ね、「どうぞ」とガイは微笑んだ。
──目はギラついていない。……悪さをする事は無さそうだが。
ガイは金になる
賑わう人々の声が遠くなり、波音だけになった頃だった。穏やかな船内で突然、大きく二回、手を叩く音がした。
「兄貴ぃ、やめろよ。役人に見つかったら何て言われるか……。それに、みんな見てるだろ?」
「いいんだよ! お前達も、ほら、バチが当たったばっかりだろ! 手を合わせろ!」
「……わかったよ」
大男に並んで座っている、弟分のような男達も渋々手を合わせたようだった。
ガイは顔を上げ、男達が手を合わせている方向を見た。
──ああ、そうか……。
ガイは医術書を読むのをやめ、目の前の景色を見て、目を細めた。
男達が手を合わせたはるか先には、なだらかな山の形をした雲の塊があった。不思議な存在感の雲だった。
筋雲が幾重にも重なっており、夕暮れ時の太陽が優しい橙色で照らしていた。その彩りは、迫力さえも感じさせる美しさだった。
舟客達も目を輝かせた。
「今日は特別、綺麗やねぇ」
「ありがたいありがたい」
そう言って、数人が手を合わせた。
舟客の中の幼い少女が、手を合わせる母親の袖を引いた。
「ねぇ。どうしてみんな、雲に手を合わせるの?」
「あの雲の中には、アワのお山様があるの。火の神様が住んでいるお山なのよ」
「火の神様が!?」
「ええ。神様も、龍も住んでいるのよ」
「そっかぁ……。だから、あんなに綺麗なのね」
そう言って少女は母親の真似をして手を合わせた。
山賊風情の大男もしばらくの間、熱心に手を合わせていた。そして、ふと隣に座るガイを見た。
「なぁ。……あんた、
突然大男に話しかけられ、ガイは、戸惑いながら答えた。
「ああ。……そうだけど?」
大男は、
「あの雲の中にあるアワ
「まさか。霧が濃くて近付く事もできない場所だ。噂では、山に近付いて無事に戻って来られた人はいないとか」
「あんた、どこの
「三郷だ。アワ山のある島には、吊り橋一本で繋がってはいるが、霧が深くて近付く奴はいないよ」
「そうか……。アワの一族を見た事はあるかい?」
「昔は島々を行き来してたみたいだけど。今は、全く姿を見なくなったって聞くよ」
「そうだよなぁ……。アワ山の奴らも、報奨金がかけられてんのに、山から下りて来ることなんてないと思うよなぁ……。それが、いたんだよ、本物が。まぁ、……信じられないよな。こんな話」
ガイは、読んでいた医術書を閉じた。
「なぜ本物がいたと言い切れる?」
大男は、声を
「大きな声じゃ言えないが、報奨金目当てにとっ捕まえようと思ってな。商人の情報で後を追ったんだ。俺達とやり合った相手の顔を見てたまげたねぇ。見た事のないような、美しい男がいた。ありゃ、神の化身に違いねぇ」
「なるほど……。それで、返り討ちにされたってわけか。
ガイは
「ほら、ビワの葉やるから当てておいた方がいい。痛み止めだ。船に乗った時から気になってたんだ、首の後ろ」
大男の隣の二人がバツの悪そうな顔をしながら「すまねぇな」と声を顰めて葉を受け取った。
ガイは小さく笑うと、話を続けた。
「随分と腕の立つ奴とやり合ったな。一番気を失いやすい急所を一撃。ど真ん中だ。二人とも、綺麗に跡が残ってる」
「ご名答! さすが
「
「ああ……ありがとよ」
「ただ、腑に落ちないな。仮にやり合った奴がアワ山の一族だったとして、
「それは……」
大男は、思い出すように橙色の雲に囲まれたアワの山を見つめた。
「誰も信じちゃくれないだろうが、いたんだ……
ガイは目を見開いた。
「……
「……兄貴ぃ。さっきから、その話ばっかりじゃねぇか」
「いたもんはいたんだ。それに、そいつらは言ってた。痛かっただろう。すまなかったって。本当は手荒な真似はしたくないって」
「だからって、……あの女がなんで
大男は、まだ遠い目でアワの山を見つめていた。
「『ご加護がありますように……』」
そう呟いた大男の横顔を
「そんな事、今まで生きてきて、言われた事があるか?」
弟分の男達は、いつもと明らかに違う大男の様子に
「いや……ないけど……」
「あの女の子が額に触れた時な、俺の体の中にある黒い物がな……消えたんだよ。上手く言えないけど。なんかこう、キンキラしたもんが見えて……。気を失っている間、俺、ずっと、亡くなったお袋の夢を見てたよ」
「お袋さんの?」
「なんだよ、母ちゃんの夢かよ」
弟分の男達がからかうように笑う中、ガイは黙って大男の横顔を見ていた。
「俺、もう、山賊みたいな真似は、やめようと思う」
『山賊』という言葉に反応して、船頭が船を漕ぐ手が一瞬だけ止まった。
「兄貴ぃ、しっ」
慌てて仲間の男が人差し指を鼻に当て、合図を送ると、大男は「おお。すまん」と、ようやく目の焦点が合ったように我に返り、ガイを見た。
「なぁ、
「? 俺がわかる事であれば。何?」
「なぜ、アワ山の一族は追われているんだろう。俺達、ただ金になるならとっ捕まえたい……神官が昔、御所にいた頃に悪い事したんだろうって……それくらいしか思った事なかった」
「そうだな……。世間では、神官が権力欲しさに、
「げぇ!
薬師は声を
「まぁ、表向きにはな。……風の噂では、天政院の中で神官の影響力が大きくなりすぎて邪魔になって、宮廷に住んでいた一族ごと弾圧されたって話もある。未だに報奨金を付けて追っているのは、アワ一族の力を恐れてるんじゃないかって」
「一族の力って、どんな力なんだ?」
「さぁ。どんな力だったとしても、俺ら平民には本当の事なんて一生わからないよ。あんた、弾圧される前のアワ山、どんなだったか覚えてるか?」
「ああ、ほんの十五、六年前の話だろ? よく覚えてるよ。今みたいに、雲に囲まれていなくて、青々とした綺麗な山だったよな……」
「そうだ。十六年前、弾圧されると同時に山は雲で覆われて、誰も近付けなくなった……。今じゃ、雲の塊みたいで、中に山があるかどうかもわからない」
「……そう考えると、アワ山の力って、おっかねぇな」
「雲さえも味方に付けるんだ。あんた達が本物のアワ山の奴らとやり合ったのなら、到底敵う相手じゃない。それは肝に銘じておいた方がいい」
「それは……本当にその通りだったな。神の山に住んでる奴らを捕えようなんて……、バチが当たったんだ」
大男はしばらく何か考えた後、船を漕いでいる船頭に突然声をかけた。
「なぁ、船頭さん! この船着場あたりで仕事はあるかい?」
船頭は笑って威勢よく答えた。
「沢山あるよ! とくに舟漕ぎは人手が足りなくて困ってる。腕っ節がよくて体力もあって、文句を言わねぇ奴を探してる」
「……俺にでもできる仕事か?」
「兄ちゃん、力はありそうだな。明日もう一度船着場へ来いよ。口聞いてやるよ。この仕事してる奴らは流れ者が多いからな。まさかこの船には乗っていないと思うが、山賊や海賊から足を洗ったような奴もいるよ」
船頭は大男をチラリと見ると、片目を瞑って見せた。
大男は声を小さくして言った。
「……恩に着るよ」
「……兄貴ぃ。どうしちまったんだよ」
「兄貴、気を失ってからおかしいんだ。頭を強くやられたとか」
「俺がやられたのは
「それは何度も聞いたけど……」
ガイは
「ん。転職祝い」
「へ? ……おお、……ありがとさん」
「はい。お連れさん達にもどうぞ。こっちは蒸し
「……なんで一人なのに、こんなに沢山食い物が?」
不思議そうに握り飯や饅頭を見つめる男達を横目に、ガイは飄々と答えた。
「歩いてたら、色々ともらったんだ」
大男は薬師の顔をまじまじと見つめた。
「顔がいい男ってのは歩いてるだけでなんか貰えるのか!? 得だなぁ!」
船を漕いでいる船頭が振り返り、大男達を見て笑った。
「知らないのか? こいつ、今日の武道大会で優勝してるんだ。ここらの島の中で一番強い男だよ」
「は!? こいつが!?」
「薬師のくせに力も強えってさ。天は二物を与えちまって、嫌になるよ」
大男は顔色を変えた。
「危ねぇ危ねぇ。
「兄貴、しー!!」
ガイは、「ははっ!」と大きな口を開けて笑うと、「いただきます」と握り飯を一口頬張り、アワ山を見つめた。そして、大男を見た。
「……いるんじゃないかな?」
「ん? なんだ?」
「俺は本当にいたんだと思うよ。
「そうか……。今のところ、そう言ってくれるのはあんただけだ」
「少なくとも、あんたが変わったのは紛れも無い事実みたいだから」
「……そうなんだ。俺も驚いてる」
「俺は、信じるよ。……
「……ありがとな」
「うまいぞ。握り飯」
「……おお」
肩を並べる事のないはずの山賊と薬師が、美しい橙色の雲を見つめて、もぐもぐと握り飯を頬張った。
いつの間にか、市場のあった東の海沿いは暗い影を落とし、一番星が輝いていた。
ガイは、
「会いたかったな……。俺も」
美味しそうに握り飯を頬張りながら、大男がガイを見た。
「……ん? 何か言ったか?」
ガイは残りの米を平らげると、ふっと笑った。
「……
火の神が住むというアワ
遠くの船でも、舟客達が山に向かって手を合わせていた。
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