【第六幕 溶解】

 ムアが玄関を出ようとすると、カーターが腕を掴んで止めた。

「ちょっと待ちなぁ」ヒューはそれを目撃したが、見なかったことにして外へ出た。

「なに?」ムアが振り返る。

「報酬が未払いだ」

「報酬って……本のこと言ってるの? そんなの後でもいいでしょ」

「——いや、今だ」カーターは語気を強めて言った。

「ふざけないで」

「俺がふざけたことあったかぃ?」

ふざけている。

「どうして……?」ムアが解せずにいると、ギルバートが二人の様子を見に戻ってきた。

「おい、何してる」

「今行くわ」ムアが向かおうとするが、カーターは腕を離さない。

「ちょっと、何のつもり?」

「俺とこの女は後で行く。場所は知ってるから先に行け」

カーターが言うと、ギルバートは無言で二階を降りて玄関を出た。外ですれ違いざま、ヒューに命令する。

「お前もあいつらと後で来い」

「へへ、心配してんの?」馬鹿にして言うと、みぞおちに肘が飛んだ。

「はい……喜んで残ります」

「だろうな」

「兄貴、どうかしたの?」先頭を行っていたジョルジアが立ち止まる。

「いや。何でもない」

「姉貴と馬鹿どもは?」

「後で来るらしい」

「ふぅーん」ギルバート、ジョルジア、ハイトの三人は、先にグレースの元へと向かった。

 グレータウンの夜はガス灯も虚しく真っ暗で、霧も一段と濃く不気味だ。蝙蝠が飛び交い、人の気配はなく、ただただ身体の芯まで凍るように寒い。ツンと鼻腔を刺すのは冷気だけではなく、下水と路上の腐敗したゴミの悪臭だった。

アームストロングの娼館に着くと、ギルバートが下働きの少年に事情を話した。ギルバートの堂々とした態度と目つきに、半ば気圧される形で少年は怠そうに三人を通した。

「ここがグレースの部屋です」

ギルバートが軽く頷くと、ジョルジアは強めに扉をノックした。

「グレース、あたしだ。ルチェルトラの美人さ……」

そのとき、女のただならぬ怒号が部屋の中から聞こえた。

「殺してやるっ!今度こそ殺してやるわ‼」

「この声は……‼」ジョルジアが目を見開く。

「——エリーヌだ!」ハイトは予想外という顔をした。

ジョルジアがドアノブを強引にガチャガチャ回す。「くそっ、開かねぇ!」

「どいてろ!」ギルバートが体当たりして扉を破った。

酷く顔色の悪いエリーヌが、グレースに包丁を向けている。ソファに追い詰められ、横たわるグレースの着衣は大きくはだけていた。

 ——《俯瞰》

一瞬、青白く透き通った鷲のようなものがハイトの頭上を飛び越え、部屋の中へ入った――かに見えたが、すぐに消えた。

ギルバートが目を瞑る。すると、瞼の裏は闇に閉ざされず、新たな視界が啓いた。

その視界は、真上からグレースとエリーヌを見下ろしている。焦点を刃物に近づけると、切っ先は、グレースの身体の上に被っていた。

——(ダメだ。撃ち落としても、グレースに被害が及ぶ)

ギルバートは何かを断念した。

「エリーヌ……ダメよ。やめて……」グレースは泣いていた。

「おいエリーヌ!」ジョルジアが叫ぶと、エリーヌはゆらりとジョルジアを睨んだ。その狂気的な表情に、ジョルジアは思わずひるむ。

「落ち着けよ。は、話し合おう……?な?」

「どうやらお前の話を聞く前に、星は割れたようだな」ギルバートはハイトに声を落として言った。「あいつが刃物を捨てなければ殺す。お前は目を瞑っていろ」

「ちょっとまって」エリーヌに悟られないよう、ハイトは小声でギルを止めた。「エリーヌは犯人じゃない。僕に考えがあるんだけど……どうする?信じる?」

ギルバートはハイトの目を、きつい眼光で見返した。それから一度目を閉じると、ハイトからエリーヌに視線を戻す。ハイトはそれを肯定と受け取った。

一つ深呼吸をしてから、エリーヌに話しかける。

「エリーヌ、わかったよ。君が一連の事件の犯人なんだね。現場を見てしまったから、僕たちは君を連行せざるを得ない。その前に話があるんだけど、いいかな。君たちの弟さんが見つかった」


——❁——


「で、どんな本を貸して欲しいのよ」

自分の部屋のドアにもたれ、ムアはカーターに尋ねた。

「ダン・ドゥルイットの著作」

ムアはそれを聞いて、一瞬ハッとした表情になった。戸惑いを隠すかのように、余裕そうな笑みを浮かべる。

「あら。残念だけど、そんなの持ってないわね」

「まあ、そう言うだろうな。ダン・ドゥルイットの著作はこの国じゃ禁書になってる。ギルバートに知られたら、どうなるか……」

「ダン・ドゥルイットって……ちょっと前までこの街に住んでて、死んだっていう、イカれた学者の?」

二階に戻ったヒューが言った。

「ああ。自称科学者であり、自称文化人類学者、自称アフリカと中国と南米で古代の呪術を習得し、この国で初めて交霊会を主催した、ブロンド美少女愛好家連盟初代代表であり、心霊体験を綴った自称ノンフィクション作家兼、エログロナンセンスの詩人でもある」

「何その経歴……」

「あんたの書棚にあんのはわかってんだ。なぜなら、ダン・ドゥルイットは俺たちと同じ霊力者。あんたは、この街を覆う『白昼夢』という現象に、ダン・ドゥルイットの霊力が関係していると踏んでいる。密かに白昼夢を研究してるあんたが、奴の本を一冊も持っていないってのァ考えにくい」

「なんのことか、さっぱりだわ」

「へぇーえ?」カーターがわざとらしく感嘆する。

「じゃあ、このこと奴に話してもいいのかぃ」

「誰に、何を?」

「ギルバートに、禁書の件と、あんたが変なもん食うようになったのは、白昼夢の研究で……」

カーターが言い終わるのを待たず、ムアは慌てて遮った。

「ダメダメダメダメダメダメダメダメ、絶対、ダメっ!」

「必死かよ」とヒュー。

カーターは眉根を寄せ、肩をすくめて続ける。

「白昼夢の研究でヘマやらかして、自分が白昼夢にかかっちまったってことを」

「言い直さなくていいわよ!」ムアは涙目で訴えた。

「そもそも!ギルは私が白昼夢を研究していることだって、今こうなってることだって、知らないんだから!」


 ――一週間前。

ムアは灰色街の人々から採取した血液をスポイトで試験管に分けていた。

 その日採血したのは、中央河川付近でうずくまっていた若い女性だった。女性は、しきりに側溝に溜まった泥に湧いた虫を口の中に入れていた。

「ねぇ」ムアは女性に話しかけた。

「どうして、そんなものを食べてるの?」

女性は答えた。

「普通の愛なんていらない……そこには必ず嘘があるから……私は、人が顔を背けて嫌がるような汚い、醜く暗い闇に、好奇心があるの……」

女性の青い瞳は、ところどころ灰色に濁っていた。灰色の濁りは、曇天の雲のように瞳の中で蠢く。

ムアは彼女に簡易宿泊所を探してやり、当面泊まれる金額を支払うと、唾液と血液の採取を依頼した。

——(白昼夢。原因不明の、この街をむしばむ病。覚醒しながら、夢をみる。普通に起きているようで、現実に薄暗い霧のかかったような夢をみている状態。人によって、みえる夢は違うみたい。私たちの霊力と、何か関係があるのかしら……)

ムアは採取した血液を十数本の試験管に分け、試験管たてに並べた。

ひと段落つくと、ふいに部屋の窓から外を歩く男女が目に入った。その男が一瞬ギルバートに見えて、ムアは思わずガタン!と立ち上がった。

あまりにも勢いよく立ち上がったので、ささくれだった机に手の甲を傷つけてしまった。

「あ、やだ……!」手をぶつけた振動で、机の上の顕微鏡や試験管立てが一斉に倒れる。

そのとき運悪く、割れた試験管の中から、女性の血液が手の甲にかかってしまった。

そこへ、窓から一匹の蝿が入ってきた。

——(おいしそう……)

それからというもの、ムアは急にゲテモノを食べたいという抑えがたい欲求に取り憑かれるようになった。

一概にゲテモノといっても、見境なく生で食べたくなるなど度を越えていた。

それが異常なことだと頭ではわかっているので、危険なものは口に入れても噛まずに出したり、口に入れるフリをして、同時に他のものを咀嚼したり、どうしても衝動を抑えられない場合は、食べては吐いてを繰り返している。

皮肉なことに、白昼夢が血を介して伝染することを自ら証明したのだった。

「私、これでも抑えてるつもりなの……」

「まあ、最初より減ったよね。でもさ、なんで俺たちにまで振舞っちゃうわけ?」

ヒューが言った。ムアは恥ずかしそうにモジモジする。

「それは、みんなの反応がちょっと面白いから……」

「確信犯じゃん!」

「私、あの人に嫌われたら死んじゃう……彼の寝室で彼の記憶から一生消えないような意味深な死体になって、シーツに長文のメッセージ残しちゃう……‼」

「めんっどっくせ」ヒューは真顔で笑った。「ギルは最近忙しくて、みんなと食事できないから気づいてないけど。時間の問題だよ?」

「知られたくないわ」ムアは思いつめたように、伏目がちに睫毛を揺らした。

「大好きなのに、どこかに嫌悪感があるなんて……」

「ああ、そっか。白昼夢にかかると、俺たちに嫌悪感を持つんだっけ」

ヒューが思いだしたように呟く。

「ええ。夢みたいに漠然としてるけどね」

「じゃあ、ハイトも俺たちのこと、なんとなく嫌悪感を持って見てるのかなぁ」

ヒューはハイトの瞳の中に動く、曇天の雲ような靄を思いだしながら言った。

「きっと、そうだと思うわ」ムアが俯き加減に、眼に入れたコンタクトを片方だけ外す。

美しいルビー色の瞳は、ところどころ灰色に陰り、その灰色は流動的に動いていた。

「嫌悪感というより、帳がかかったように感じるの。暗い、灰色の帳が」

そう言って、コンタクトを付け直す。

「さっさと持ってきなァ」

カーターに促され、ムアは貧血のようにふらふらと部屋の中へ入っていった。

「彼にはこのこと言わないでよ⁉」部屋から出てきたムアは、涙目でカーターに本を押し付けて忠告した。「言ったらあなたたち二人とも殺して、私も死ぬから‼」

「やめてよ……そんなことしたら泥沼恋愛の末の心中みたいじゃん」

「へいへい、どうも」カーターは服の中から手紙の束を取り出すと、本のページを繰り始めた。「俺はやることあるから、あんたらは先に行ってな」

カーターは丸めた紙をヒューに投げつけた。「場所はここだ」

「ほんっと勝手だよな……」

「放っときましょ!」ムアは頬を林檎のように膨らませて、ぷいとそっぽを向いた。

ヒューとムアは、カーターの書いた地図を頼りにハイトたちを追った。



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