【第九幕 襲撃】
その頃、ヒューは婦人と監獄へ向かって歩いていた。
辺りは真っ暗で、霧に包まれている。
ぽつぽつ点る街灯の薄明りを除いては、街路を照らすものは何もない。
「物騒なんだから、ちゃんと護ってよね!」
「うーん、たぶんね」ヒューは頭の後ろに腕を組み、テキトウに答える。
「たぶんじゃ駄目よ!」婦人は血相を変えて叫んだ。
「なんで?更年期障害?ヒステリー?そんなに怯えることないでしょ」
「奴らが口封じのために、私を殺すかも知れない……」
「奴らって?」
「奴らは、奴らよ」
——《怪力ゴリラ》
「えっ、なに……⁉」
婦人が力を入れたかと思うと、全身の筋肉がラグビーボールのように膨らんだ。
「ふんぬっ!」
次の瞬間、鋼鉄の手錠が砂クズのように割れて崩れる。
「えええええええええ‼」
ヒューが驚いて気を許した隙に、婦人はダッシュで逃げ出した。
「今のうち!」
「なっ!逃がすかよっ!」
——《
ヒューはフリスビーのような、青白い斬撃を飛ばした。
しかし、婦人の硬すぎる筋肉は切れない。
——《シルバー・バック》
今度はどんな霊力なのかと、ヒューは身構えた。
すると婦人は、丸みと張りを失った、しぼんだ尻をヒューに突き出す。
「えっ、なに?」
「お尻ペンペン!」
「ただのババアのケツじゃねぇかッ‼」
「捕まえるもんなら、捕まえてみなぁ!」
アームストロングはとても七十代とは思えない驚異的なスピードで走り去って行った。
「あっ!待てゴリラババア‼」
ヒューはすぐに後を追うが、アームストロングはすでに遥か遠く、霧の向こうへ消えてしまった。
「マジなんなの……あのババア速すぎ……」
――(ギルに怒られちゃう)
すると、霧の向こうから悲鳴のような風の音が聞こえた。
「……?」
だが、何か胸騒ぎがする。
ヒューは不審に思って、闇夜に耳を澄ませた。すると、それは風の音ではない。
アームストロングの絶叫のような断末魔の悲鳴だった。
――と、突然、首筋を殴り飛ばされる。
「クソ……」
ヒューは倒れたが、意識はあった。
暗闇と霧で、相手の顔が見えない。
——弾丸を充填する音。
——かすかな足音……男の靴が見えた時、ヒューは身体を寝かしたまま思い切り蹴りかかって、相手を仰向きに倒した。
すかさず立ち上がると、刀帯から鞘を抜き、腹の辺りを真上から突く。
「ぐっ……!」
臓器の押し潰れる柔らかい感触とともに、男が唸った。
「どちらさん?」
ヒューが馬乗りになって尋ねたとき、今度は頭部に鈍い痛みが走った。 とっさに頭を抑えると、その隙に下の男は逃げた。
視界の端を、血の付いたクリケットバットが通る。
——(なるほど……)
頭皮が破れ、血が額を伝って目に入る。
——(『奴ら』ってことは、複数ね……)
視界が悪い上に、目を開けづらい。
バットがもう一度振り下ろされるのを、ヒューは振り返って鞘で受け止めた。それは何とか跳ね返したが、頭がクラクラしはじめる。
どこからか太い鎖が飛んできて、ヒューの手元を打ち、鞘が落ちた。その隙に大鎌がヒューの首の前を横切る。背を沿ってギリギリ避けたが、その動きが頭の傷にズキンと響いた。
——(やべ、意識が……)
ヒューは後ろへ二、三歩よろめいたのち、その場にばたりと倒れてしまった。
静まり返る夜道に、銃声が二発鳴った。
——❁——
「まだ少し早いですが、今から出ようと思います。劇場のチケットは市場で買うと安いですが、当日は早く売り切れてしまうので。それにグレータウンは、バンカレッラ通りに、サクラ通りに、まわる所がたくさんありますから」ボストンバックを持ったグレースが、同じく大きな荷物を背負うエリーヌと並んで言った。
「劇場で何を観るの?」
「ハムレット」
——(えっ……)
ハイトは一瞬、言葉を失った。
シェイクスピアの悲劇、ハムレットは登場人物が全員死んでしまう。ハイトは少し嫌な予感がしたが、努めて明るい表情をつくった。
「楽しんできてね」ハイトの言葉に、姉妹が微笑む。
「あの、皆さん。本当にありがとうございました」
グレースとエリーヌは同時に頭を下げた。
「うん、気を付けて」それに頷くと、姉妹は娼館を後にした。
グレースのものだった部屋の扉を閉めるとき、二人は互いに微笑み合って、幸せそうだった。癒えない傷跡は残っても、しがらみの取れたグレースの笑顔は、それまでのグレース・カステルと別れを告げるかのように、ハイトには映った。
二人は確実に、前に進もうとしていた。
「それにしても、ハイトの推理は見事だったわね」姉妹を見送ってから、ムアが言った。
「ねぇ、ギル?」思案顔だったギルバートが、考えるのをやめて返事をする。
「ああ。そうだな」
「ありがとう」
ハイトが言うと、ギルバートがため息をついた。
「これから、ここの従業員を全員取り締まらなきゃならないと思うと、気が重いな。グレースは例外だが、多くは金も行き場もないだろうに」
「仕方ないわ」ムアはギルバートの肩に手を置いて、励ますように言った。
「手分けしてあたるぞ。保釈金を払える奴は自由にしていい。建物は取り押さえだ」
——そのとき、ジョルジアが血相を変えて戻ってきた。
「大変だ!大変だ兄貴っ!」息を切らし、汗ばんでいる。
「どうした」ギルバートが落ち着いて尋ねる。
「ヒューが!ヒューが気絶してる!」
「イライザ・アームストロングは」
「それが……誰かに撃たれて、死んでる!」
ハイトは驚愕した。
——(婦人が、死んだ……?)
「行きましょ!ジア、案内して」ハイトたちはジョルジアに続き、急いで現場へ向かった。
途中の路地で、ジョルジアとムアは何かにつまずき、ハイトも誤って踏みつけてしまった。
ぐちゃり……と嫌な音がする。
恐るおそる足をどけると、粘着質な何かが靴裏から取れた。それを見たハイトは、軽く嘔吐を催しそうになった。
「これは……」ムアが冷静さを保ちつつ言った。「グレースとエリーヌ……どうして」
新しく一歩を踏み出そうとしていた姉妹は、無慚にもバラバラに中身を引きずり出され、血みどろになって死んでいた。
余りの残酷な光景に、ギルバートとカーターも思わず表情をこわばらせる。
「クソっ!どうなってんだ!あたしが通ったときには、こんなこと……」
「みんな、ごめん!」そこへヒューがよろけながらも、走ってやってきた。
「俺、アームストロングに逃げられて……」
「知ってる」とギルバート。
「殴られて気絶して……」
「知ってる」とカーター。
「起きたら!アームストロングが死んでて!」
「知ってる」とジョルジア。
「ギル、ほんとごめん!」ヒューはギルバートの前で両手を合わせた。
「終わったことを言ってもしょうがないだろ。たかがアームストロングと思って一人で行かせた、俺も悪かった」
「誰にやられたのか、顔は見たの?」ムアが尋ねる。
「ほぼ見えなかったけど、少なくとも三人はいた!アームストロングは『口封じ』とかなんとか言ってたから、犯罪組織でも絡んでんじゃないかなぁ」ヒューはふいに下を向いて、足元に散らばる死体に気が付いた。
「これって……もしかしてあの姉妹?どうなってんの!?」
「——ギャングだ」一人だけ座り込み、死体を鑑賞しているカーターが言った。
「恐らくアームストロングは、裏で店の売り上げの一部を流していた。奴らにとって、ババアとグレースはちくられたらマズいことでも知ってたんだろ」
「確かに。それが一番考えられるな」ギルバートが同意する。
「行きずりの犯行なら金目当てだ。わざわざお縄になった老婆を狙わない。それに、この馬鹿を生かしておいた理由が、俺たちをおびき出すためだとしたら合点がいく」
ギルバートは、誰もいない後方の横辻を睨んだ。
「馬鹿って、俺……?」と、ヒューが納得いかなそうに自分を指さす。
「ジト目、大丈夫か?」
ジョルジアがハイトを心配して訊いた。
「うん。なんとか……」
ハイトは吐き気が止まらず、みんなの輪から少し離れてうずくまっていた。すると横辻の角で、何かの影が動くのを見た。
「誰……?」
「ん?どうかしたか?」ジョルジアは横辻に入って、通りを覗いた。しかし、ゴミの溜まった側溝をネズミが走っていくだけで、どこにも人らしい気配はない。
「誰もいねぇぞ?」
ジョルジアがハイトを振り返った、そのとき——ギルバートが心の中で念じた。
——《狩り《ハント》》
ジョルジアの背後の建物に、上空から透明な針のようなものが降り注ぐ。
すると四つの人影が飛び降り、ハイトたちのいる通りへ出てきた。
一人の男と、三人の女。
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