【第三幕 容疑者】

「——ここです」

グレースは細長い三階建ての建物の前で立ちどまった。酒場で賑わう夜の大通りから、暗い横辻に入って四軒目。三軒先は行き止まりになっている。

街灯もランプも何もない。掃除されていないらしい石畳は、すすがこびりついて全体的に黒くなっていた。

僕はこの建物の前の道だけが、周りより黒ずんでいることが気になった。

「看板も張り紙もねぇな」ジョルジアが言う。

「こりゃあ、あたしらの目をくぐり抜けるわけだ」

「中へどうぞ」グレースは僕とカーターを先に通した。

足を踏み出す度に、床板が大きな音でギイと鳴る。廊下は狭いが奥行きが深く右側の壁にたくさんのドアが並んでいた。

手前に簡素な受付けがある。

「エリーヌ、あなたはそのナリで来たらおかしいわ。ここで待ってなさい」

グレースは妹を店の外へとどめると、ジョルジアに自分の羽根つき帽を被せた。

「あなたはこれを被ってください」

「うおっ、おい!」

「ここの下男は怠慢なので、顔さえ隠せばなんとかなります」

「なんとかなるって……?」

「私とあなたで、あの殿方二人をお相手するということで通ります」至って真剣な表情のグレースに、ジョルジアは目をカッと見開き、謎の変顔をしてみせた。

「冗談でも二度と口にすんじゃねぇ……」

グレースの言う通り、受付けに座る下働きの少年は、ジョルジアについて何も言及しなかった。僕たちは少年から鍵を受け取ると、グレースに自室へ案内された。その途中、廊下で他の従業員たちに絡まれた。

「ねぇ旦那、その女やめて、私とどう?」

「あんた若いし、いい男。私にしときなよ」

「ちょっと……私のお客様よ……」グレースが僕たちを庇って弱弱しく言った。

「なによ不良品」「口裂け女」「いい気味だわ」

僕は心配になってグレースを見た。

心無いその言葉にも、グレースは顔色一つ変えていない。

「ねぇ。こんなのより、私たちと遊ばない?」

「——いいねぇ、遊ぼうぜ」

カーターがニヤリと嗤った。

「じゃあ、ポーカーかブラックジャックと洒落込むのはどうだぃ?あんたらの財布を骨抜きにするテクなら自信ある」

「なんなのこいつ……」

「あんたじゃないわよ!」

「行きましょ!」従業員たちは、僕とグレースから離れていった。

「お前のうざさも、たまには役に立つな」

ジョルジアの言葉に、カーターが何かを言いかける――が、ジョルジアは何も聞かぬ前に遮った。

「あ、いや、なんも言うな。どうせうぜぇ」

見事なフライングカットである。

ジョルジアが先に行くのを見ながら、カーターは肩をすくめた。

グレースの自室は、二階の一番奥にあった。

他の部屋とはドアの装飾からして、明らかに異なっている。内装も、壁紙から調度に至るまで、建物の外観からは想像できないほど贅沢なものだった。

グレースは僕たちにソファを勧め、自分はベッドに座ると、さっそく切り出した。

「問い詰めて欲しいというのは、ここのオーナーのことなんです。怪しいといいますか、挙動に不審な点が幾つかあって……どうやらオーナーは私より先に、四件の事件が連続殺人だということに気付いていたようなんです」

「なんで、そう思うの?」僕が訊いた。

「オーナーはお金のことしか頭にない人で、普段は従業員にもお客様に対しても、ひどく無関心で冷淡です。しかしそれが、被害者が四人とも亡くなる前から……タイミング的にいうと、一件目の殺人が起こったすぐ後から一変しました。それも、私と私のお客様に対してだけ」

「どんなふうに?」僕は続けて訊いた。

「急に優しくなったんです。私に夜道は気を付けろだとか、何か困ってることはないかとか。お客様のことも、しきりに心配して尋ねてきたりして……それまでは、そんなこと一度もなかったのに」

「ほぉん、そいつは妙だな」ジョルジアが思案顔で唸った。

—— (確かに。それが事実であれば、この店のオーナーは怪しい。怪しいけど、逆に犯人の可能性は低くなる。連続殺人であることが露見していない以上、これから被害者となる人物たちを心配したところで、無駄に自分への疑いを深めるだけだ。偽装工作にすらならない)

「それで、その件についてオーナーに事情聴取をして頂きたいのです」

グレースはしとやかに言った。

「ヒヒヒ、『事情聴取』とくるかぃ。なるほどなァ、あんたはこの上なく親切で協力的な証人だ。そう……不自然なほどに」

カーターが平気で失礼なことを言うが、グレースは感心にも丁寧な口調で応じた。

「先ほども言ったはずです。私は知人である被害者たちのために、できる限りルチェルトラの役に立ちたいんです。ですから早く、うちのオーナーに事情聴取をお願いします」

「ま、どっちにしろ無許可営業の件で仲良くすることになるけどなァ」カーターは丸椅子を木馬のようにして遊んでいる。

「またお友達が増えそうだ」

「んで、その憐れなお友達は?」ジョルジアが訊いた。

「オーナーは三階の事務室にいます。名前はイライザ。イライザ・アームストロングです」

僕の脳内に、今日のレストランでの情景が浮かんだ。

—— (アームストロングって、婦人じゃ……)

「ヒヒヒ。おっと、もう親友だった」カーターは口角を吊り上げて笑った。

「お前はこの女を見張ってなァ」

「うっせーなニヘラ野郎!あたしに指図すんじゃねぇ!」

「おい所長行くぞ」

僕はグレースの部屋を出て、三階へ向かうカーターの後をついていった。

「なんで僕が所長だなんて嘘ついたんだよ」

カーターは立ちどまると、しばらく間を置いてから答えた。

「特に意味はねぇ。が、あえて言わせてもらうなら、あんたが自分の出自を偽っているから」

「は?なにを……」僕は普段ヘラヘラしているこいつの鋭敏さに、何か怖いものを感じた。

「あのレストランで履歴書を見たんだが」

—— (勝手に見るなよ……)

「あんたは田舎の村出身の、一度も教育を受けたことのねぇガキとは思えねぇ。なのに嘘の履歴書を書いた理由を、お得意のポエムで抒情的に教えてくれねぇかぃ?」

こいつの嫌みな口調にも慣れてきた。僕は俯き気味に、かすかな声で言った。

「実際のところ……僕にも、わからないんだ。ある時期より前の記憶がなくて……グレータウンの外の、どこかから来たことは覚えてる。だけどこの街に来る前の、そこでの記憶が、ごっそり抜け落ちてるんだよ。だからあの履歴書は適当なんだ」

それは本当のことだった。

想像していた答えとは違ったのか、カーターは渋い顔で眉根を寄せた。

「これで満足か?」僕はカーターを避けるように、追い抜いて階段を先に上がっていった。

 三階へ着くと、踊り場を挟んですぐに「Office」と書かれた扉があった。

——(うわ……)

僕はノックしようとして、その手を止めた。

全身の穴という穴から、汗がだらだらと流れる。

——(思わず追い抜いちゃったけど、普通に入りづらい。どんな顔して入ればいいんだ……?第一声は?相手からしたら、つい数時間前に逃亡の手助けした店員に詰問きつもんされるんだぞ……それって謎展開過ぎる……それも、同じくつい数時間前に現れた蜥蜴ルチェルトラのふざけた金髪と一緒に……)

僕が脳内で饒舌じょうぜつになっていると、カーターが後ろからやってきた。

歩いてきたそのままの勢いで、何のためらいもなく扉を蹴り破る。

僕は目を丸くした。

掛け金が壊れ、文字通り破壊的な音を立てて開いたあと、同じく破壊的な音を立てて扉が裏側の壁にぶつかった。

「……」僕は呆然としていた。

「んなっ!何ごと⁉」中から聞き覚えのある、あの甲高い悲鳴が聞こえた。

書類の散らかった事務テーブルの前で、アームストロング婦人が取り乱している。

「あ、貴方たちは、昼の……!」

「いやぁ昼は楽しく遊んでたのに、なんか変な奴に絡まれちゃって」

「……」—— (ほんとムカつくな)

「ちょっと、なんなのよ!どういうことなの!?どうしてここがわかったのよ!」間髪入れず、婦人は僕をビシッと指さして言った。「あなたはなんで一緒にいるの!!」

「……」——(いや、ごもっとも)

「ヒヒヒ、遊びに来てやったんだ、かまえ」

「誰が扉を蹴破ってきた奴にかまいますか!治安維持組織に駆け込むわよ?……って、あなたがそうだったわ。これって不法侵入なんじゃなくて?」

「いいんだよ。てめぇが自白後に立て籠もったことにすんだから」

「この悪党!!」

「……」——(どうしよう。婦人の方がマトモに思えてきた)

「ところで悪党から質問です」カーターは懐から自動式拳銃を取り出すと、慣れた手つきで弄び、銃口を婦人へ向けた。

同時に安全セーフ装置ティを解除する。

「あんた、この街で連続殺人が起こってることを知ってたなァ。なぜ情報提供せずに黙ってた?」

「ふん、連続殺人?知らないわよそんなもの。あなたが自白しない容疑者たちを、その拳銃えもので殺ったんじゃなくて?」

「あり得るが、残念ながら違う」

 ——(あり得るなよ)

「ほらね!だから治安維持組織ってのは信用がなくって、領民からも嫌われるのよ」

「俺の質問に答えなァ」

「拒否すると言ったら?」婦人には、カーターの脅しに屈する様子が一ミリたりともない。

「こちとら忙しいんでね。認めねぇんなら、四件とも殺ったのもお前ってことにする。そうすりゃあ、面倒な裁判所を通す必要もねぇ。余罪を含め、あんたは確実に死刑だ。あんたもグレータウンの法は知ってるよなァ?罪状から死刑が確定している重罪人は、治安維持組織の判断で、その場の処刑を容認する——じゃ、そういうことで」

カーターの指先から、徐々に引き金へと力を込められていく。

——(こいつ、まさか本気で……)

「お、おい、待て!」僕が叫ぶのと同時に、婦人は金切り声を上げた。

「まままま、まってちょうだい!!わかったわよ、そうよ!」

その瞬間、銃声がボロい建物内に響き渡った。薬莢が落ちる。

寸でのところで、カーターは銃口を上に向けていた。穴の空いた天井から、木くずやホコリが落ちてくる。

「ヒヒヒ、いい子だ。グッドババア」

「まったく、どっちが犯罪者だか分かったもんじゃない……」

——(ほんとにな)

婦人は大きなため息をつき、胸をで下ろしてから続けた。

「違法営業までバレて、挙句の果てに知らない殺人の容疑までかけられたら、たまったもんじゃないから黙ってたのよ。確かに、これが連続殺人になるかもしれないってことには、一件目の時から薄々感づいていたわ。もちろん、確証はなかったけどね。だって、あんな気持ちの悪い手紙が来たら、誰だってそういう発想になるじゃありません?」

「手紙?」僕は思わず食いついた。

「ええ、そう。今出すわ」

婦人はそう言って、箪笥たんすの引き出しを探り始めた。

「それに私は、もしかしたらグレースが犯人なんじゃないかとも、少し疑っていた節があるのよ。犯人が外部の人間だろうがグレースだろうが、正直どうだっていいけど、彼女が死んだり捕まったりしたら、利益が減って困るのは私。だから優しくしてやったのに……あの子ったらチクったようね……ああ、あったわ!」

「これよ」婦人は僕に手紙の束を渡した。

分厚さからいって、おそらく二十枚以上あるだろう。僕は丁寧に手紙を束ねている麻ひもを解いた。

「——この手紙、宛先が全部グレースになってる」

僕が呟いたとき、カーターは事務テーブルの上に胡坐あぐらをかいていた。

婦人のしなびた頬肉に、ぐいぐいと銃口を突きつけている。

「なぜグレース宛の手紙をあんたが持ってんだぃ」

婦人は頬肉で遊ばれながら、喋りにくそうに語った。

「馬鹿ねぇ……稼ぎ頭に駆け落ちでもされたら困るでしょ?グレースに届いた手紙は全部チェックさせてもらってるのよ。そこにあるのは全部、四件目の被害者からの手紙」

僕は送り主の名前を確認した。

「本当だ。封筒の裏に書いてある。『グレースへ愛を籠めて サカシマ・リュウ』……」

「確かに、サカシマ・リュウは四件目の被害者の名だ」カーターが言う。

「グレースも怪しいけど、私はサカシマが犯人じゃないかと思ってるの。彼が誰になんで殺されたのかは知らないけど、前の三件については絶対そう」

「というと?」僕が尋ねると、婦人はいまいましそうに答えた。

「その手紙よ!数より何より、内容がイカレててね。とても正気の頭じゃないわ」

「どんな内容だい」カーターが訊いた。

「自分たちで読んでちょうだい、思い出しただけで寒気がするんだから」

婦人はそう言って身震いしてみせた。

「……」僕は一番上の手紙を開けて読んだ。 途端に血の気が引き、自分の顔色がみるみる青ざめていくように感じた。

「パス」僕は吐き気を催し、手紙の束をカーターに投げて渡した。

カーターは興味津々な顔をして受け取った。

読んでいるうちに、表情が卑屈に歪んでいく。

「ヒヒヒ、こりゃあ……うちの出版社に起用したい逸材だね」

「二十六枚すべてそう。異常というか、不気味というか、なんだか気持ちの悪い詩が書いてあるの。きっとサカシマがグレースのストーカーで、他の三人の客に嫉妬して殺したのよ」婦人は決めつけるように言った。

「グレースの客の名簿は?」僕が婦人に向き直って訊いた。

「もちろんあるわ。必要なら持っていって」

婦人はデスクの上のバインダーを僕に渡した。名簿には四人の被害者を含め、十数人の客の名前と住所が連ねられていた。

——(客の中にH・Cのイニシャルはいないな)

「イニシャルがH・Cの人物に心当たりは?」

僕は訊くと、婦人は少し考えてから言った。

「ないわ。あ、でも……H・C……H・C……ああ。そういえば、グレースの弟の名前がアンリ・カステルっていうんだけど、アンリの頭文字はHだったわね」

——(弟……?)

「グレースには弟がいるの?」

「ええ、うちの書類上は。本当かどうかは知らないけど。ここで働くときには、形だけの書類に家族のことも書いてもらってるのよ。形だけだから、何人食い扶持のない兄弟がいようが、手当なんてつかないんだけどね。見る?」

「あるなら」僕が頼むと、婦人はグレースの書いた書類を見せてくれた。確かに扶養家族の欄には、妹のエリーヌの他に、アンリの名前がある。

——(あの姉妹は弟の存在を隠していた。「H・C」のイニシャルから、彼女たちなら一番最初に思いつくはずの、アンリ・カステルの存在を……)

「イライザ・アームストロング、この手紙は押収させてもらう」カーターは、まだサカシマ・リュウの手紙を熱心に読みながら言った。

「ええ、もちろん喜んで。あなたと一緒に燃やしてちょうだい」

「考えておく」カーターは婦人の言葉にニヤリと笑うと、手紙を麻ひもで縛り、コートのポケットへしまった。

「行くぞ所長。ところで、二十六枚の手紙には消印のあるやつが一つもない。あんたはどう思う?」


       ——❁——


僕とカーターはグレースの部屋に戻ってジョルジアと合流すると、その場はとりあえず『Old lump』へと帰った。

なんでも今夜は、本物の所長——ギルバートと言っていた——から、ルチェルトラの幹部に話があるらしい。

所長に報告するのにも丁度良いタイミングということで、姉妹にはグレースの要望通り今夜二十一時、また話を聞きに行くと言って別れた。そのときに、グレースには護衛を付ける。

捜査を連続殺人に切り替える件も、護衛の件も、まずは所長である兄貴に話を通してからだとジョルジアは言った。

別れる直前、カーターはグレースに何かを耳打ちした。

グレースはそれを聞いて「え……」と頬を赤く染め、戸惑った顔をした。

エリーヌが怪訝を表情でそれを見つめる。

「だからさぁ、書いてくれねぇかぃ?あんたの気持ちを。俺が渡しといてやるからさ」

カーターがそう言うと、グレースは机に向かった。一つしかない引き出しを開け、中から便箋を取り出すと、何かを書きはじめる。それを申し訳なさそうにカーターに渡した。

「はい、どうも」

カーターはニヤリと笑って、ポケットに便箋をポケットに忍ばせた。

「ところで」

ジョルジアは『Old lump』へ着くと、カウンターに座って頬杖をついた。

「おめぇらが三階に行ったあと、妙なデカい音と銃声がしたんだが……ニヘラ野郎、お前なんかやらかしてねぇだろうな」ジョルジアがカーターに疑いの目を向ける。

「ああ、あの音——」言いながら、カーターは僕の肩に腕を回した。

「こいつが階段からすっ転んだ」

——(お前がドアを蹴破ったんだろ……)

「あっそ。んで、銃声は?」ジョルジアの表情はカーターをまったく信用していない。

灰色街ここじゃあ、銃声なんざしょっちゅうだ。どっかのヒッピーが下手な改造銃でもぶっ放したんだろ?なあ、所長」

カーターの顔が、『Restaurant Blue stars』のオーナーと重なった。

また、底暗い闇の一端が見えた気がした。何か恐ろしい、暗い灰色をした魔の手のようなものが、勢いよく這い迫る。それに急き立てられるように、僕は口を開いた。

「う、うん……そうだった」

気づいたら、無意識にそう言っていた。

「ほらな」カーターはニヤニヤしながら肩をすくめた。

「マジかよ」ジョルジアは少し不安そうな顔をした。「また仕事が増えてないといいけどな。ただでさえ忙しいってのに、兄貴の身体がもたねぇや」

「それより、グレースの様子はどうだったんだぃ」カーターが尋ねる。

「そのことなんだが……妙なことになってんだ」

ジョルジアはグレースと二人きりのときに聞いた内容を、僕たちに話しはじめた。


——一時間半前——

 

「正直なところ、私を襲ったのはエリーヌじゃないかと思っているんです」

ハイトとカーターが部屋を出ると、グレースはいきなりこう切り出した。

「おう。マジか」突然のことで、ジョルジアは理解するのが遅れた。

「だから四件の殺人と私の顔の傷は、切り離して考えて頂いて結構です」

「なぜエリーヌがお前を襲ったと?」

「それは、脅迫状のイニシャルがH・Cだからです」

「H・Cのイニシャルが何かあんのか?」

「あのときはエリーヌの前だから言いませんでしたが、私はH・Cのイニシャルに心当たりがあります。アンリ・カステル、私たちの弟です」

「弟がいんのか……でも。イニシャルが弟だと、なんでエリーヌが書いたことになんだよ」

「弟は二年前に失踪したんです。実家の農場から、ここ—灰色街へ出稼ぎに行ったきり、行方不明になっています。それ以来、一度も音沙汰はありません……」

「もしもお前の言う通り、仮にエリーヌが弟のイニシャルを使って強迫状を書いてたとして、それにどんな意味があるんだ?」

「エリーヌはアンリが死んだと思っています。ですから、私のせいで弟は死んだと……長女の私が病弱なせいで、弟が先に出稼ぎに出る羽目になった。これは弟の復讐でもある。そういうことじゃないでしょうか」

「それじゃあ、強迫状の内容はフェイク?」

「ええ。きっとイニシャルこそが、私にしか解らない憎悪のメッセージなんです」

「妹が脅迫状を書いたっていう証拠は?」

「ありません。強いて言うなら、姉としての勘です」

「あーはいはい。勘ねぇ……」ジョルジアは勘を信じない女である。

「エリーヌは昔から、私に対して強い敵対心を抱いていました。それに妹はドの付く真面目ですから、仕事柄多くの男性と関係をもっている私のことを快く思っていません。それなのに私からの仕送りが無ければ生きていけないことに、はらわたの煮えくり返る思いでしょう。エリーヌが継いでいる実家の農場は、廃業寸前なんです」

「お前を切りつけたのがエリーヌだと思うんなら、なんで手紙で呼んだりしたんだよ」

「確証がないからです。それに、近くに呼んであなたたちに紹介してしまった方が、彼女も私に手を出しにくいでしょ?これでしばらくは、私がエリーヌに襲われる心配はありません。このタイミングで私を殺したら、四件の殺人を含め、犯人は彼女しかいませんから——とは言っても、護衛にはなるべく早くつけて欲しいと思います。これから今日の最後のお客様が来られますから、そうですね。今夜九時以降に」

「まあうちも準備とかあるしな。だけど、その客は大丈夫な奴なのか?」

「はい。互いによく見知っていますから」

「わかった。善処する」ジョルジアが言うと、グレースは愛想のいい笑みを浮かべた。

「よろしくお願いします」そのとき、部屋のドアがノックされた。

「誰?」グレースが尋ねる。

「姉さん、私よ」

「エリーヌ……?」

「入っていいかしら」

「え……ええ」グレースは驚きと困惑を隠しきれず、ぎこちない返事をした。

「エリーヌ、どうして入って来たのよ。それより、あなた受付けを通れたの?」

「外は寒いから中に。受付けの人は寝ていたわ」エリーヌは至極平然としている。

グレースは急に、心もとない表情となった。

「彼、自分の仕事がなんなのか解ってるのかしら……いつだってああいう態度だけど」グレースは立ち上がると、ジョルジアの方を向いた。少年に何か言いにいくつもりだろう。

「ごめんなさい、ルチェルトラの美人さん。少し席を外します」

そう言って、グレースは自室を後にした。

「美人……」ジョルジアは意外とまんざらでもないご様子である。

「ま、ムアの姉貴の次にな」うんうん。目を瞑って頷いていると、エリーヌが肩を叩いた。

しきりにドアの方を気にしながら、声を潜めて話しだす。

「姉が顔を切りつけられた件ですが……正直なところ、私は姉さんの自作自演じゃないかと思ってるんです」

——(お前ら。いい加減にしろよ……)

「じゃあ、四件の殺しもあんたの姉さんが犯人だっていうのか?」

「いいえ。姉さんは人を殺せるような度胸のある人じゃありません。連続殺人については、きっと別の人が犯人でしょう。でも、顔の傷はどうせ自分でやったんです」

「なんでそう思うんだよ」

「姉さんには虚言癖があるんです。そうやって他人に構ってもらいたいんですよ。今度のはちょっと酷くて驚きましたけど。だって、考えてみてください。もしも誰かが姉を殺すつもりだったのなら、顔を切りつけたときに殺せたはずです。あの傷はかなり深いので、痛みですぐには逃げられなかったでしょう。わざわざ見逃して、生かしておく理由がありますか?」

——(情の欠片もねぇな妹……)

妹気質のジョルジアは呆れた。

「さあな。強迫状には今度会ったときに殺すと書いてあった。デザートは後にとっておくタイプだったとか?」

「見ていてください。姉の護衛について頂いたところで、誰かが姉さんを襲うなんてことは絶対に起こりませんから」

「それはまだわかんねぇな」

「あれが姉さんの自作自演でないのなら、姉さんを襲った人物こそが、連続殺人犯で間違いありません。きっと四件の殺人は、姉に強い恨みがある人物の犯行なんです。取り巻き客の四人を殺してから、今度は姉の顔を傷つけてプライドをズタズタにし、最後に殺すって魂胆でしょう。姉は、生きてるだけで恨みを買いやすい人ですから」

ジョルジアは半ば睨むようにしてエリーヌを見つめた。

——(どうやらグレースの言う通り、姉妹仲は険悪のようだな)

「ところで。お前の弟は強迫状のイニシャルと同じ、H・Cらしいけど」

「ああ。そういえば確かにそうね。そのときは思いつきませんでした。だって弟は、二年前に失踪したんですもの」

「らしいな」

「きっと姉さんは、脅迫状を書くときに適当なイニシャルを思いつかなかったのよ。だって676通りもあるんだもの。自作自演なんだから、本当に存在する人のイニシャルを使ったらマズいでしょ?それで死んだかどうかわからない弟のものにしたんだわ。そんなんだったら、最初から強迫状にイニシャルなんてつけなければ良かったのにね」

「……」グレースはドアの外にはりついて、その会話を聞いていた。

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