3. 悪の灰

「いやぁ、悪いね。なんだか突然に」

「いえ……」


 エリュカと烏は、テーブルに向かい合って座っていた。

 路地裏に倒れ込んだ烏は、声を掛けると返事をしたものの、どこか意識が曖昧としているようだった。そして、近くに知っている店があるからそこまで連れていって、とたどたどしい声で頼んできた。


 エリュカは素直に応じ、そして、いまの状況となった。

 店はレトロと評することも不可能なほどに古く、セキュリティというものは皆無のようだった。さきほどの路地裏もそうだけれど、このあたりは想像以上に治安が悪いようだ。


「さきほどは、どうされたんですか?」

「トリップした」

「トリップ……」

「ライブのあとはね、宇宙を想像するのが一番なんだよ。夜空も一緒に眺めると、より効く」

「なんですか、それ」


 エリュカは小さく笑った。

 店に来る途中、意識をしっかりさせる意図も込めて、たわいのない雑談を交わした。

 烏もあのライブの観客で、しかも、相当なライブ好きのようだった。バンドの好みも合い、夜道で足取りの覚束ない二人というおかしな状況ではあったものの、会話は弾んだ。不思議なほどに。


 烏の名はモリィといった。女性だと思うけれど、自信はない。最近、男女の区別はつきにくくなってきている。年齢も。

「仕事は何してるの?」

「いまは求職中なんです」

「あらら」

「以前は、研究所のアシスタントをしていて……」

「凄い」

「いえ、被験者のようなものです」

「ああ。最近多いね。なんかもう、人間であることが条件、みたいな」

「そうですそうです」

「それで?」

「それで……特に問題があったわけではなかったんですけど、なんだか、つまらないというか……」

「虚しく?」

「そういう感じです。それで辞めたんです」

「なるほどねぇ」

「いまは抽選待ちで、上手くいけば老人ホームで働けます」

「ふぅん。選ばれるといいね」

「いえ……べつに……」

「べつに?」

「なんというか……どうでもいい? そういう感じです」

「もっとやりがいのある仕事が欲しい」

「そういうのではなくて……上手く言えないんですけど、何をしても実感がないというか」

「変化?」

「変化なのかな……手応えというか……自分が何をしても、流れが変わらない……」


 そこで、店員が飲み物を持ってきた。会話が中断される。

 モリィはポケットに手を入れると、そこから煙草を取り出した。一瞬驚いたけれど、まさか本物ではないだろう。

 モリィはライターのように見える小さな筒状の機器も取り出すと、それを口元の煙草に近づけた。

 ゆるやかに持ち上がる肩。

 その動きに合わせて、ほのかに灯る煙草の先端。

 暗い赤色……。


「害のないやつだから、安心して」

「あ、はい」

 モリィは横を向いて息を吐いた。

 煙くはない。匂いも。

「考えてる?」

「え?」

「なんで煙草を吸ってるんだろうって」

「いえ……」

「いまは訊いたけどさ、いつもは黙って吸うわけで、初対面の人がいたときは、帰ったあとによく考えるんだよね。煙草を吸っている姿、どう見えたかな、とか」

「はい……」

「お互い、心の中で考えるわけだ。相手のことを」

「そうですね」

 モリィは灰皿の上で煙草を小さく弾いた。

 柔らかく崩れる灰。

「流れが変わらないって言ったけど、流れの変化を感じとるにはまず自分が異物にならないといけないんだよね」

「そう……ですね」

「いまの社会って、どこもかしこも、摩擦が起きないように調整されてる。もちろん、事件や事故、悪いハプニングが起きないのは良いことだと思う。けれど、皆が皆、同じ一つの流れになったら、異物がいなくなったら、どうなると思う?」

「……何も起きなくなる。何も起こらない」

「そう。だからさ、相手について推測する。不思議に思う。お互いがそれくらいの異物であるほうが、自然だし、いいと思うんだよね」


 モリィは最後に大きく一服すると、灰皿に煙草を軽く押し付けた。

 やや伏し目になったその眼差しを眺めていると、ある考えがちらりと浮かんだ。

「あの」

「うん?」

「もしかして、モリィさんはレジスタンス?」

「……都市の外に一般市民を誘うっていう?」

「はい……」

 モリィは小さな笑みを示した。

 柔らかな唇の形。

「レジスタンスかどうかは置いといて……まぁ、あの人たちの理念には頷けることが多いかな」

「なるほど……」

「やば、とか思ってる?」

「え? あ、いえ、べつに……」


 会話はその後もしばらく続いた。

 そして、そろそろ帰るか、とモリィが言い出し、その場はお開きとなった。

 店の外に出ると、モリィはポケットから何かの紙を取り出し、手渡してきた。連絡先が書いてある。

「なんか、人生つまらないなぁってまた思ったら、呼んで」

「はい……あの」

「ん?」

「紙っていうのは、凄いですね」

「アナクロなんだよね」

 モリィは軽く手を上げると、くるりと振り返り、路地裏へ向かっていった。

 闇に溶けていく黒いレインコート。

 さようなら、とエリュカは小さな声で言った。



 家に帰ると、母からの荷物が既に届いていた。

 エリュカはそれを放置し、ソファに体を預けた。

 モリィとのやり取りを思い返す。

 かなり長いあいだ、そうしていた。


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