第5話 譲る人
終業の日が祖母の告別式と重なったということで、少年は三学期の最終日にも教室に姿を見せなかった。
まだ転入先が見つからないようで、少年が学校をやめるという話はどこからも出て来ないまま、春休みに入った。
校内の桜並木も川沿いの桜並木も、その年は例年より早く開き、行きかう人々の頭の上を薄紅色に染めた。
大きな紙袋の中のチェック模様のパジャマの上に花びらを見つけ、少女は施設の入り口でつまんで地面に放った。
「きょう母が午前中伺ったとき、汚れほつれでパジャマが足りなくなっているといわれたとかで、追加を持ってきたんですけど」
受付で説明すると、いつもの受付嬢がにこやかに答えた。
「今日は桜見物とかで、車いすを押してもらって川沿いにお散歩にでかけてますよ。お部屋で待っていたらどうかしら」そういうと、受付嬢は少女の頭からひとひらの桜の花びらをつまんで、少女に見せて笑った。
少女はパジャマを抱えて居室に向かい、日当たりのいい部屋のたんすの引き出しを開けた。
母が刺繍した名前を確かめて、ひとつひとつ引き出しに入れる。
この部屋を少年と訪れたのは、ちょうどひと月前のこと。
少年はまだこの町にいる。いつ引っ越しになるのか、詳しいことは教えてもらっていない。今週は確か、埼玉にある全寮制の中学を下見に行くと言っていた。
どうして彼だけが、先に大人にならなければいけないのだろう。一緒に桜の下を歩きたかった。わたしも、彼の髪に絡まった桜の花びらをつまみたかった。
スライドドアが静かに開いて、車椅子の車輪の音と、年配の女性の声がした。
「あら、かわいいお客さんだわ」
少女は振り向いた。
水色のベレーに青灰色のコートを着た上品な老婦人が、祖父の車いすの後ろから微笑んでいた。
瞬間、少女の中で記憶の琴線が震えた。そして眼前に、あの朝の光景がよみがえった。
「ちょうどよかった。これがけさお話した、孫娘です」
ポールにつかまって、半回転していた小柄な体。
「はじめまして。おじいちゃんのお友だちなのよ。俳句の同人誌でずっとご一緒してたの。自慢のお孫さんにお会いできてうれしいわ」
……どうぞ、ここ、よかったら。
「すみません、あの、以前朝の電車で、あの、M駅で降りられる前に、わたしの前で、席を……」
勢い込んで問いかけた少女は、ひと呼吸おいて、
「席を、男子中学生に譲られましたよね?」
じっと、老婦人の顔を見た。
怪訝な顔をする老婦人に、祖父が隣から話しかけた。
「だいぶ前、話してくれたあのことじゃないかね。ほら、かわいい少年が席を譲ってくれて、嬉しかったとか」
いわれたとたん、彼女の目が大きく見開かれた。
「ええ、あのこと。じゃあ、あの……」
「それ、その譲った子、わたしの友だちなんです!」
「あら、まあ!」
老婦人は大きな声を上げた。
「この間ここに連れてきたでしょ、あの子。あの子よ。おじいちゃん、覚えてる?」少女は祖父に顔を向けた。
「最近のことを覚えられんでどうする。そうか、あの少年か。驚いた偶然があったものだな」
「信じられないわ。わたしももう一度、会いたいと思っていたのよ。あのかわいいぼっちゃんがお孫さんのお友だち。まあ、こんなことがあるんですねえ、まあ」
老婦人はベレーを脱ぐと、顔中に笑みを浮かべた。
「ぜひ今度お会いしたいわ。これも何かの縁だわ。おふたりに何か甘いものでもおごって差し上げたいわ」
少女は表情を曇らせた。
「それが、……だめなんです」
「だめ?」
「全寮制の学校に、移ることになったらしくて」
そのさきはうまく説明できなかった。祖父が不思議そうに問いかけた。
「今の学校だって十分いいところじゃないか。ご家族と同居しているのに、なぜわざわざ全寮制の学校にかわる必要があるんだ」
少女は泣きそうになった。せめて、この人たちには本当のことを知ってもらいたい。わかってもらえないのを覚悟で、少女は少年のこれまでの事情を話すことにした。
「すごく、デリケートな話なんですけど……」
話しながら、自分に国語能力というものがあるのなら、この機会にすべて生かさせてください神様、と少女は祈り続けた。
聞き終えた老婦人は、深いため息をついた。そして、ハンドバッグからハンカチを取出し、目元をそっと拭った。
「かわいそうに。どんなに傷ついていることでしょうね。誰に言われなくても、おばあちゃんまで自分が、と、そのことを、ずっと考えていると思うわ」
「そうなんです。だから、自分から寮に入ると言い出したと思うんです。自分が悪かったと、そればかり考えてると思うんです」
そういうと、もう泣かないと決めたじゃない、と自分に言い聞かせて、少女は目元の涙をぐっと押し戻した。いちばん哀しいのは彼で、自分じゃない。
祖父は腕組みしてじっと黙ったままだった。
老婦人はしばらく考えたあと、ためらいがちに、祖父の名を呼んだ。初めて聞く、愛称のような名だった。
「ねえ、笑わないでくださいね。こんな考えは、非現実的かしら。
たとえばわたしは、土地持ちで一人暮らしで、しかも、十分なお金があるでしょ? お手伝いさんを雇う余裕だってあるわ。今の住まいだって、広すぎるくらいだし。恵まれていると言えば言えるけど、それはそれでさびしいものよ。
でもそこに、たとえばあの風流な離れに、誰か一人ぐらい下宿させてあげるとか、高校卒業まで仮住まいを提供するとかなら、簡単なことだわ。
うちはここから近いし、お嬢さんの学校からもそう遠くないし、十分通える距離よね。
知った人が誰もいない土地に行くより、今のお友達とか、このかわいらしいお嬢さんと一緒の学校にいられるほうが、ずっといいんじゃないかしらね」
「それは、まったくその通りだな」
祖父は腕組みしたまま答えた。
少女は胸がどきどきと高鳴り始めるのを感じていた。
「本気にしていらっしゃるわよね。わたしのいうこと、変じゃないですよね」
「至極まっとうで、そして、あんたらしい考えだ」
「あとは、ご本人と、それからご両親のお考え次第ですよね」
「うむ」
老婦人はにっこりと笑って少女を見た。
「ということだそうよ」
少女は両手を落ち着きなく握り合わせると、言葉を探した。自分が今どんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。そしてやっとひとこと言った。
「電話、……してきていいですか」
「ああ、電話なら電話室でも談話室でも一階のホールでも」
祖父の言葉をみなまで聞かず部屋を走り出た。
眼下に桜並木の見える談話室で、少女は携帯の呼び出し音を聞いていた。
どうか出て。いまだけは、どうか出て。でも出たら、どういえばいいんだろう? 何から、何を、どういえば?
『はい』
少年の声がした。少女は息をのんで、それから、ひとこといった。
「わたし」
『うん』
短い沈黙。
「寮、決まった?」
『まだ。どこも欠員がない』
少女はまた言葉を切った。少年のほうから問いかけてきた。
『どうしたの』
次の瞬間、自分でも予期しない言葉を、いっていた。
「電車の中で、席を譲ったでしょ」
少年は一瞬沈黙した。
『え、ああ、あのこと。それは、譲ったけど……』
「断られちゃったけど、できれば断らずに、座ってほしかったでしょ」
『そりゃあ、……だけど、なんでその話を、今……』
「答えて」
『まあ、座ってほしかったよ』
「なら、譲られたら自分は座る?」
『……それは、歳をとったらね』
電話の向こうで、少年が戸惑っているのがわかる。
「歳をとってなくても、今でも、疲れててさびしくて立っていられないぐらいむちゃくちゃ辛かったら?」
少年は笑った。
『疲れててさびしくて立っていられないぐらいむちゃくちゃ辛いの? じゃあ、しょうがないから座るかも』
「本当に、座る?」少女の声が涙声になった。
『……ねえ、どうしたの』
少年はささやくように、本当に心配そうに、言った。
「ほんとうに、座ってくれる?」
『だから、何の話をしてるの』
少女は頬の涙を指で拭いて、そっと言った。
「あなたの席が、あるの」
<了>
ゆずるひと 水森 凪 @nekotoyoru
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