第4話 猫と小鳥
「直接、……殺した、っていうこと?」
少女は水面に波紋を広めまいとするように、できるだけ静かに尋ねた。少年は床を見つめたまま、棒読みのような調子でしゃべりだした。
「うさぎが死んでひと月後だった。
一人で留守番をしていたある日、少しあいていた窓の外に、猫の影が見えた。ぼくは猫も好きだったけど、家の中心には妹が可愛がってる黄色いカナリヤがいて、飼えなかった。
ぼくは窓を開けて、猫を入れてやった。黒い猫だった。はいったとたん、飾り棚の上のカナリヤを狙ってるってことが分かった。ぼくは動かなかった。猫は影絵みたいにゆっくりした動きで、鳥かごに近づいて行った。見ていると眠くなるぐらい、ゆっくり、ゆっくりとした動きで。籠の中のカナリヤがキイキイ騒ぎ始めた。
次の瞬間、目にも止まらない速さで、猫は籠に飛びかかった。籠は床に落ちた。
どうなるか、最初からわかってた。わかってて、ぼくは入れたんだ」
少年は黙った。少女も黙った。二つの影が、麦飯石の上で、寄り添って黙っていた。
「猫がカナリヤを咥えて窓から飛び出していったあと、床中に黄色い羽根が散らばってた。とにかく、何も考えないようにしたことだけ覚えてる」
少女は俯くと、そっと少年の顔を覗き見た。何の表情も浮かんではいなかった。
「猫は悪くない。ぼくが殺したんだ。家の中心から、あいつをおいだしたかった。あの黄色い鳥を。それしか考えてなかった」
「妹さんは泣いた?」
少女の質問に一瞬戸惑ったあと、少年は言った。
「すごく泣いてた。何日もまともにご飯を食べなかった。そして世界中の猫が大嫌いになったと言った」
「わたし、猫は好きよ」
答えかねて、少年は少女の顔を見た。少女は前を向いたまま続けた。
「缶詰じゃなく、生きている鳥を食べられるような猫は、家で飼い殺しにされるより、きっとずうっと幸せな猫だわ。どう?」
少年は拍子抜けしたような笑顔を浮かべた。
「どうって、……ひどいね」
「ひどいでしょ」
少女はこちらを見て笑った。
「ひどいのよ、わたし」
少年も笑った。
そしてふうっと息を吐くと、言った。
「言ったら、何もかもが終わりになるような、そんな気がしてた。
……何もかもが」
握り合わせた両手が、まだ震えているようだった。少女は、弁当箱を包むうすもも色のちりめんの結び目を、指でもてあそびながら、言った。
「人生って、そうかんたんに終わりになるようなものじゃないと思う。
たとえば、わたしたちよりよっぽど終りに近いようなわたしのおじいちゃんが、ちゃんと現役でガールフレンドがいて、わたしより周りの人より、幸せに見えるときがあるもの」そういうと、声を低くして、
「己の不遇を嘆いても始まらん。元手無しで手にできる人生の幸福は、恋愛、ただそれだけだ! モットー、生涯現役!」
少年は噴出した。
「たいしたもんだよね、きみのおじいちゃん」
「うん、たいしたもんでしょ」少女もふんわりと笑い返して言った。
「人生ってきっと、そう捨てたもんじゃないのよ」
少年の祖母が倒れたのは、その夜だった。
「小さいころから親代わりだったお祖母さんが心臓の発作で倒れられたとのことで、しばらく登校できないそうです」
朝のホームルームで担任から簡単に説明があったきり、少年の姿は唐突に教室から消えた。
昼食の場での出来事を見ていた誰もが、あの時のやり取りと祖母の身に起きたことをつなげてひそひそと語っていた。
真っ赤な顔をしてぺこぺこ謝っていた気の毒な姿。いつも物静かで優しげな孫に怒られて、きっとショックだったのだろう。もしかしたらそれがきっかけで……
だれよりもそれを感じているのが彼自身であろうことを、少女は知っていた。
少年の携帯に恐る恐る電話をかけてみても、応答はない。メールも帰ってこない。
同居しているわけでもないおばあちゃんが病気だからと言って、どうして登校できないのだろう。彼にいったい何が起きているのか。
なにもわからないままに、日にちが過ぎた。
春休みまで三日に迫ったある日、少年から突然、自宅にいる少女に電話があった。
『ばあちゃんね、死んだんだ』
温かい春の雨が降った夜だった。窓の外には何かの花の香りが満ちていた。
洗ったまままだ返せていない、南天の実が描かれた塗のお弁当箱と、蕗の味噌
漬けが入っていたタッパーが手元にあった。
「いつ」
『おととい』
少女は電話口を押さえた。
「お葬式は……」
『身内だけでやるって』
少女はそのまま黙った。あの日の蕗の味が、口内に広がった。
『で、ぼくね。転校することになると思う』
「うそ」
『きみにはいろいろと、世話になって……』
「どうして転校するの。亡くなったのは別居してるお祖母ちゃんでしょ。お父さんじゃないでしょ」少女はたたみかけた。
『あれからいろいろあって、全寮制の高校を親が探してるんだ。春休み中に変わるだろうから、君とは……』
「どうしてよ。今どこなの、どこにいるの。塗の箱を返すから、会って、お願い」
風呂から出たばかりの母が背後にいた。あわただしく濃紺のジャケットを羽織る少女に、どうしたのと短く声をかける。
「ちょっと出てくる。この間お弁当を作ってくれたおばあちゃんが亡くなったって。すぐに引っ越すっていうから、お弁当箱、返さなきゃ」
「ちょっと、ね、ちょっと待って。あのまま返すわけにはいかないわ」
数分後、少女は背の低い門扉を開けると、四角い包みを抱えて、花の香りのする夜の道に飛び出していった。
児童公園のほの白いの灯りの下で、少女は久しぶりに少年と会った。少年は背を心持ち丸めるようにして、デニムのジャケットのポケットに手を突っ込み、鉄棒に寄り掛かっていた。
少女が差し出した箱を包みごと受け取ると、少年はぽつりと言った。
「受け取っても、もう返す先がないんだけどな」
「中に、押し花のしおりが何枚か入ってるの」
「しおり?」
「母が趣味で作ってるの。お返しするお料理が、急には用意できないからって。おいしいお寿司を、ありがとうございましたって」
少年は包みをほどこうとしてやめ、ありがとう、と小声で言った。
「ね、どうして転校するのか教えて。なにがあったの」
少年は鉄棒を靴の先でこんこんと蹴った。そして、言った。
「ばあちゃんが入院したあと、家族に、みんな話したんだ」
「みんな?」
「どうしてカナリヤが死んだか」
少女は片手で口元を覆った。
「……いまさら、どうして……」
「顔をそむけて仲良しごっこするよりは、ちゃんと知ってもらったほうがいいし、ちゃんと話さないと、謝れない」
「それで……」
少年はうすぐもりの夜空を見上げた。
「おやじは、勇気をもって打ち明けたのはいいことだと他人事みたいに言ったよ。鳥なんてもともと好きじゃなかったからね。でも、妹は、お兄ちゃんが怖いって言った。謝ってもらっても、あの子は戻らない。今さら謝るなんて、卑怯だって。
康子さんは視線そらして、やっぱりおばあちゃんと暮らしてたほうがよかったのかもしれないわねって、さらっといった。それでいいんだ。よくわかった。
全部打ち明けて許してもらおうなんて、自分のもやもやを解消しようなんて、虫が良すぎた」
少女は絶句した。
話したら何もかもが終わりになると思ったと、彼は言った。自分はそれに対して、めったに人生なんて終わりにならないと言って、彼の側に立った。それほど大変なことではないと思ってほしかった。あのときはただ、彼を傷つけたくなかった。
あんなことさえしなければ、彼は余計な希望なんて持たずに済んだのかもしれない。話しさえすれば、気もちをうちあければもしかしたら、ほんものの家族になれるかもしれないという希望を……
「あれから妹は口をきいてくれなくなった。夜中にダイニングで康子さんがおやじに、あの子の目が怖い、何を考えてるのか昔からわからない、と言ってた。怖くてペットも飼えやしないって。
ばあちゃんが元気なら元通りにいっしょに暮らさせるほうがいいのかもしれないがもう遅いしな、とおやじは淡々と言ってたよ。全寮制の学校はどうだろうって、二人で話し合ってた。その翌日、ばあちゃんは死んだ」
少年は俯いた。
「ぜんぶ、ぼくのせいなんだ。発見が遅れたのも。
あの日、なんだか気まずくて、弁当箱を返しに行くのが遅れた。返しに行ったら、暗い台所で、一人で倒れてた。もともと、心臓が弱かったんだ。
最後に病室で、うわごとみたいにいってたよ。
綺麗な声だったねえって。
それで、お弁当の幻を見てたようだった。きみの歌の効果かな。ごぼうとか、にんじんとか、はすとかつぶやいて。おいしかい、おいしかいって何度もぼくに聞くんだ。
ぼくはおいしいよ、おいしいよって言った。それから、ありがとう、ばあちゃん、ごめんばあちゃん、ばあちゃん、ごめん、ばあちゃん……」
少年の瞳から涙が零れ落ちた。
少女は少年に抱きついた。
少年は両手を上げて、無意識に少女の背に手を添わせた。
少女は少年の首に回した両手を、ゆるりとほどいてそのまま、上にあげていった。
短い、ちくちくとした固い髪が手に触った。頭皮の温かさと、青臭い汗のにおい。ああ、こうしたかった。ずっとこうしたかった。まるくていとしい、わたしの、いっしょうけんめいなあたま。
あなたは小鳥。小鳥を襲った猫じゃなくて、襲われた小鳥に似ている。
猫は、わたし。
「ぼくが殺した」
「あなたは悪くない」
叫ぶように、少女は言った。
「なんにも悪くない。行かないで。ひとりぼっちに、ならないで」
涙に声がうずもれていた。ひとこと声を発すると、あとからあとから涙が出てきた。
このさびしい世界で、彼はまた譲るんだ。あの電車で席を譲ったときみたいに、どうぞ、ここ、よかったら。どうぞ、この家庭のこの席も、よかったら。そうして、黙って世界の片隅に追いやられる。黙って細い目をして、いっしょうけんめいな頭をして。
少女は思った。こんな理不尽なことはない。どこからこんなことになったんだろう。わたしがあのとき、歌ったから? 歌ってしまったから?
少年の手が少女の頬にふれた。細くてかたい指だった。
両頬が少年の手でしっかりと包まれ、その体温と脈を少女の薄い皮膚が受け止めた。
少年の吐息が唇にかかったとき、少女は静かに目を閉じた。小さな嗚咽が漏れていた唇が、柔らかな感触によってふさがれた。少年の頬も、濡れていた。
しばらくふたりは、ただお互いの唇に唇でにふれあい、その初めての感触に胸を震わせ、そして最後にひたと重ねたまま互いの指先に力を込めた。
「ぼくには、きみがいる」
少女の鼻先で、少年の唇がささやくように話し出した。
「日本じゅうどこへいっても、ぼくにはきみがいる」
声は、かすかに震えていた。
「これからさき、いやなことがあるたびに、ぼくはきっときみを思い出す。何度でもきっと、きょうのことを思い出すよ。
そしてそのたびに誰よりも、幸せな気分になれる。
いままで、ほんとうに、ありがとう」
「……それ……」
見上げた目の先で、少年がどこかいたずらっぽく笑っていた。
少女はあのとき、少年の視界に自分が入っていたのを、はじめて知った。
全身を少年の胸に預けて目を閉じると、あの朝の電車のように、少年の心地いい鼓動と振動が、少女の体を揺らした。
閉じた目の向こうに、一本の、夜の線路が見えた。線路には、赤い百日紅の花びらが際限なく舞い降りていた。
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