第2話 かなしいくらい似ている
翌日から、少女は同じ制服の群れの中から、誰よりも早く少年を見つけられるようになった。
のどかな昼下がり、小テストを書き終えて窓の外に向けた視線の先、校庭でランニングする男子生徒の一群の中から。春の終わりに行われる合唱祭のため、合同練習するそのパート別の群れの中から。帰宅してゆく生徒たちの背中の中から。
少年と周囲の男子たちの間には、いつも見えない距離があった。避けられているのでも、嫌われているのでもない。ただ、その短い距離には、いつも少年のまとう独特の静けさがあった。少女はその静けさを好ましいと思った。
高校では毎年合唱祭が行われていた。
合同練習は音楽の授業のほとんどと放課後をつぶして、広い講堂で行われる。木造の教会のようなこの学校の講堂は、縦長の窓からの採光が不十分なだけ、室内は木の香りと趣深い陰影に満ちていた。
その日はA組B組の合同練習だった。女子はブルガリア民謡、男子はグルジア聖歌と、少女には全くなじみのない選曲だ。両方とも総指導の音楽教師の趣味のようだったが、主旋律も副旋律もない地声の緊張感を伴った絡まりが美しく、聞いた途端に少女は魅せられた。
けれど、と少女は思った。全体に、声が弱い。感情を乗せようにも、意味が分からないブルガリア語であることに加え、声の響きを自信をもって前面に出すことが必要なのに、誰もが前に出るまいとしている。声が目立てば厳しい女教師にすぐ駄目出しされるせいだ。苛立った教師は声を張り上げた。
「いい? 軟口蓋に、つまり上あごの奥に、辛子かわさびを塗ったつもりになるのよ。がっと喉の奥を開けて、鼻から息を通すの、鼻からよ。天空まで届く声を出すつもりでやりなさい。思い切りやれば声が通らない人なんていないはず。わかるまでやりますからね!」
全員がうんざりした顔で声にならないため息をついた。教師が指揮の手を振り上げる。さっと手が下りたとたん、突き抜けるような声があたりを支配した。
アイデサンツェー、ザイーデ……メ・グヨードゥベープライ、デンツィナニモーニ……
「陽は沈む」という、哀愁を帯びたブルガリア民謡の旋律が、講堂の天井に反響してあたりに満ちた。
教師はすっと空中で手首を回して握り拳を作り、合唱を止めた。そして、少女を指さした。
「あなた」
「はい?」
「今の声、あなたね」
「あの……」
少女は戸惑った。言われたとおりにしただけで、自分でもこんな声が出るとは思わなかったのだ。周りの視線が一斉に美しい少女に降り注いだ。
「前に出てきて、パートの中心に立ちなさい」
「いやです!」
即座に切り替えした少女のその言葉に、教師は驚いた顔をした。
「いやですって?」
「ごめんなさい、でも、わたし、あの、こういうの、だめで……」
ただ、目立ちたくない。説明するのは難しい。語尾が消え入りそうになっていた。教師は威圧するような目で少女を見ていた。空気が重く固まった。そのとき、
「やればいい」
突然、凛とした声が、向かい側の男子パートから響いた。視線が一斉にそちらを向いた。
あの少年だった。
「一番いい声なんだから、やればいい」
少女はまっすぐに少年を見た。少年もまた、まっすぐにこちらを見ていた。木立を透かして細い高窓から差し込む、薄緑色の柔らかな日差しが、少年の短い髪をきらきらと光らせていた。
短い沈黙の後、少女は答えた。
「やります」
それを合図のように、そのときから少女は少年と一緒に帰るようになった。
雑談交じりに、少年はぽつぽつと自分の生い立ちを語った。
二歳のとき両親が離婚し、しばらく父方の祖母のもとに預けられていたこと。再婚した父に引き取られ、五年前からいっしょに暮らすようになったけれど、二歳下の妹がいて、居づらかったこと。家の中心にいるのは愛らしい妹と妹の可愛がっているカナリヤで、自分の入るすきはなかったこと。
継母は悪い人ではなかったが、ですますつきの他人口調でいつも話されるのでやりにくかったこと。離れて暮らす祖母のもとにばかり寄りつく自分を、父は叱り、継母は無視するようになったこと。
「ぼくには秘密があるんだ」
ある日、T川の河原の堤防に並んで座って、少年は言った。
「家族にずっと話していない秘密。それが今いちばん、後ろめたいんだ」
少女はポットに入った熱い紅茶を紙コップに入れて、少年に差し出した。少年は受け取って両手で持ち、ふうっと吹いて一口飲むと、また川面を見つめた。
「うちは二年になってから、昼は学食で食えってことになってて、それ用に親から金ももらってる。でも、実はほとんど買ってない」
「じゃあ、お昼はどうしてるの?」
「ばあちゃんちでもらうんだ」
少年は川面を見ながら紅茶をすすった。流れのほとんどない川に二、三のカップルがボートを浮かべていた。
「ばあちゃんが淋しがっててさ。ぼくのためにまだまだ弁当を作りたいっていうから、途中ばあちゃんとこに寄って、弁当をもらってる」
「へえ。で、おひる代は」
「当然、小遣い」
少年は笑った。当然よね、と言って少女も笑った。
「でもお弁当箱持って帰って家で洗ったりしてたら、ばれちゃうでしょ」
「だから帰りも、ばあちゃんとこに届けるんだ。空っぽの弁当箱を見るのが、一日で一番うれしいときだって」
「おばあちゃん孝行よね、それって」
「ま、おいしいしね。煮物ばっかりだけど」
少年の照れくさそうな横顔を見ながら、少女は電車の中でのことを思い出していた。
あの老女に礼を言われたのち、天井を見上げていた少年の眼元が潤んでいたこと、それを見て自分もなんだか泣きそうになっていたこと。
「家族は嫌いじゃない。妹もかわいいんだよ、なついてくれてるし。でも、あの中ではなんていうか、ぼくだけお客って感じで」
「今もカナリヤは元気?」
少年は下を向いて、
「窓から入ってきた野良猫に食われた」素っ気なく答えた。
少女は話題を別のほうへ向けた。
「お母さんと一緒に暮らす、って話は出なかったの?」
「おふくろが浮気した、ってのが離婚の原因だっておやじに後から聞いた。親の資格なんてないって。ほんとうのところはわからない。でも、できれば、あまり聞きたくなかったかな」
少年は淡々と言って川面を見つめた。
「ばあちゃんところでうさぎを飼っててね。ぼくになついてたから、おやじの家に行くとき、連れて行ったんだ。それまではペレットで育ててた。おやじに、わざわざ餌を買う必要はないと言われて、その日から餌は残り物の野菜になった。でも食べないんだ。ペレット買ってって何度か頼んだんだけど、康子さん、あ、いまのハハオヤね。が、うさぎなんだからお腹がすいたら必ず野菜を食べるから大丈夫って。お父さんの言うとおりにしなさいって。
それで野菜だけにしてた。ある朝、うさぎは死んでた。やっと野菜を食べた形跡はあった。でも、死んでた」
そこまで言うと少年は黙った。黙って、手の中の蓋を握りしめた。
「知らなかったんだ、ペレットだけで育てたらもう、他のものは受け付けなくなることがあるって。あれだけいやな野菜を食べたんだ。きっとものすごくお腹がすいてたんだと思う。そして、優しかったぼくが、どうしていつものご飯をくれないのか、きっとずっと考えてたんだ。何がいけなくてご飯をもらえないのか、小さな頭でいっしょうけんめい、死ぬまで、考えてたかもしれない」
「やめて」
少女は小声で言った。少年は少女の顔を見た。透明な涙が眼もとにたまっていた。 少年は黙って手元の紅茶を飲み、そして掌で目元を拭いた。そうしてふたり並んで、ただボートの客から聞こえてくる笑い声にしばらく耳を傾けていた。
「あの合唱のとき、ね」少年は唐突に口を開いた。
「怖かった」
「怖い?」
少女は少年の顔を見た。二人とも赤い目をしていた。
「きみの声が講堂中に響き渡ったとき、なんていうか、感動して寒気がした。そして、きみが鳥になって、いきなり羽ばたいて飛んでいきそうな、そんな気がして。
……とても、怖かった」
日が傾いて、川面は黄金の宝石をこまかく散らしたようにさざめいていた。
美しい転校生と地味な少年が、堂々と並んで帰るようになり、そして仲良くうさぎに餌をやり始めたことに周囲は驚いたようだった。が、何一つ隠そうとしない様子に毒気を抜かれたようで、ことさらに噂にされることもなく、そのまま公認のカップルへと静かに移行していった。それでも少女の靴箱には、ちらほらとラブレターが入り続けていた。
少年の祖母の家に二人で寄ったことがある。
川沿いの古びた平屋で、門の脇に大きなキンカンの木があった。庭には蕗が群生していて、その家だけ時間が何年も止まっているかのような風情だった。でも玄関を入ると、冴え冴えとした漆器の壁とこげ茶の柱が品のいい空間を作り出していた。古い木の床は磨きあげられてあめ色に輝き、小さな花器に、水仙の花が品よく活けられていた。
「まあまあ、かわいらしいお嬢さん。まあまあ、女優さんでも見たことがないわ、こんなきれいなお顔」
灰色の髪を後ろで束ねた、小太りで元気そうな少年の祖母は、顔をくしゃくしゃにしてはしゃいでいた。こんにちは、といったあと、少女は居心地の悪さに俯いた。
「ばあちゃん、ぼくすぐ帰るから。弁当箱返しに来ただけだから」少年は少女の気分を察して、言った。
「そんなに急いで帰ってすることがあるの。じゃあ待ってて、ばあちゃんが漬けた蕗、お嬢さんに持って帰ってもらうから」
結局その蕗の味噌漬けを、ほうじ茶とともにふたりは玄関先に座って賞味することになった。苦くて優しい、春の味がした。少女は祖母の問いかけに素直に答えて、身内のことを語り始めた。
「祖父は今、この川の向こうのユウリョウカイゴシセツにはいっているんです」
「あそこなら知ってるわ、いいところよね。お母さんもご安心よね。ご苦労なすったんでしょうね、いろいろと」
「ええ、でもぶつぶつ文句ばかり言ってます。結構バリバリやってた仕事を……ネイルアーティストなんですけど……祖父の介護のためとか父の転勤のためにやめて、もう家にこもるしかないのは前世が悪いせいよとか、口癖みたいに」
「能力のあるかたは大変ねえ。あたしなんか漬物とか裁縫ぐらいでしかほめられたことはなかったから」
「この間、深夜に目が覚めて水を飲みに階下に降りたら、母がダイニングで丼に顔を突っ込んだまま寝てました」
初めて聞く話に少年はぎょっとした。
「あらま、熟睡なさってても、お丼は倒れないものなの」祖母は呑気に尋ねた。
「倒れません。声をかけて揺さぶったら、顔を上げたんですけど、顔をぐるりと赤い丼の跡が囲ってました」
祖母は声を上げて笑った。つられて少年も笑った。
「丼の中には何かおそうめんを茹でて野菜を入れたようなお料理が入ってました。夜食を作ろうとしたんだと思いますけど、あまり覚えていないって。目を開けたら視界がそうめんだらけで驚いた、といってました」
「あれ、ほんとの話なの」
帰り道で、少年は尋ねた。
少女は短い沈黙の後、答えた。
「うそは言ってない。でも少し、話し過ぎちゃった。母はこの頃、お酒を飲みすぎるの。それさえなければ、まあ、いいんだけど」
少年は、目線を空に向けて言った。
「こんど、川向うの施設、いってみたいな。そういうところの中ってみたことないから」
「いいよ。なんていうか」
少女は同じに上を向いて小声で言った。
「お年寄り孝行、老人ツァーって感じね、わたしたち」
空の高みではひばりが絶えずおしゃべりしていた。少年はひっそりと笑った。
その日、少年は雑談の中で、少女もまた転校してから弁当を一度も持たず、昼をずっと菓子パンで過ごしていたことを知った。
自分のことを、飛んでいきそうだと言った少年が、なぜか少女の中では小鳥のイメージだった。
ホオジロ、十姉妹、ヒヨドリ、雀……。 冬の日に体を膨らませ、風に溶け込むような鳴き声で、枝に止まって歌っている小鳥。
少女は小鳥を見るといつもその頭を撫でたいという衝動に駆られた。それとあまり違わない感情が芽生えて、少年の頭を撫でたい、その髪に触りたい、その気持ちが心を支配し、どうしたらそれをさせてもらえるのかともうそればかり考えるようになっていた。
どうしてそう思うのか、わからない。
でも彼の頭は、小鳥に似ている。
かなしいくらい、似ている。
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