ゆずるひと
水森 凪
第1話 転校生
電車のドアが開くと同時に、青いブレザーの集団がなだれ込んできた。
少年たちは先を争って座席を占める。向かいに座っていた少女は手元の本から顔を上げて、瞬く間に埋まった向かいの席を見た。
……同じ高校の制服。
今日、自分が転校する先の、Y高校生だ。
少女は目線を落として真新しい自分のスカートを見た。
新調した学校指定の鞄も靴も、恥ずかしいぐらいにピカピカに光っている。
はじけたような笑い声が少女の周りの空気を揺らし、次に彼らは顔をあげて、まばらに立っている乗客の間から少女に視線を集中させた。
ああ、あの、いつもの視線だ……
少年たちのひそひそ声が聞こえる。
……めっちゃ可愛いじゃん。あんな子、うちにいたっけ。
あのまま芸能界に入ってもトップレベルじゃん。
制服も真新しいし、転校生じゃね?
やべー、何年だろ。俺たちのクラスに来るかなあ。
少年たちに続いてよろよろと乗り込んだ、七十代後半と見える青灰色のコートの女性が、彼らの脇のポールにひしとつかまっていた。電車ががたんと発車したとたん、大きく体が傾く。
足が悪いのかな、と少女は思った。
立ち上がる勇気は出なかった。声をかけて席を譲ったら、また彼らに注目される。もしかしたら今日、同じ教室の彼らの前で、転校生として紹介されるかもしれないのに。
少女は自分の美しさを知っていた。
その容貌はどこに行ってもいつも注目の的だった。怪しいスカウトマンが、君モデルの仕事に興味ない、といいながら名刺を渡してきたのも一度や二度ではない。
けれど何気ない親切、ちょっとした気遣いが、誇張して受け取られ誤解され、別の形で帰ってくる。そして口さがない連中はその「おつり」が常に少女の軽率さからくるもののように言いたてた。特に同性が、彼女にいつも厳しかった。
可愛い上にいい人に見られたいって、あの子いつも偽善的だけど、あからさまで嫌味よねえ。
少女はいつの間にか本音を胸にしまい、目立たぬようにふるまう術を身につけていた。
少年たちは話題を変えた。
「おい、昨日のレポートやった?」
「びょーうびょうびょうびょう」
「それ、犬だっけ。ありえないよな」
「雷は?」
「ぴっかりぴっかり、ごーろりごろおり」
ひときわけたたましい笑い声が上がる。
そのとき、少年たちの左端の少年がゆっくりと立ち上がった。つんつんとした短髪に、涼しげな細い目をしている。
「どうぞ」
老婦人のそばまで来ると、少年はちいさな声で言った。女性は驚いたように顔を上げ、あら、といった。
「どうぞ、席、よかったら」
集団はおしゃべりをぴたりとやめて二人を見つめている。老婦人はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうね。でも次の駅で降りるし、立ったり座ったりするよりこのほうが楽なのよ。せっかくだけど」
「でも……」
「ほんとうに、遠慮してるんじゃないのよ。ごめんなさいね」
少年は黙って元の席に戻り、ばつが悪そうに腰かけた。少年たちは互いにつつきあい、くすくすと笑っている。俯いたままの少年の頬が紅潮してゆく。
座ればいいのに、と少女は思った。
譲られたなら、多少都合が悪くても、座ればいいのに。彼が今味わっている居心地の悪さは、もし勇気を出していれば、自分が味わったものかもしれない。それはとても理不尽なことに思われた。
次はM駅、M駅、お降りの方は、と車内アナウンスが流れ、電車が減速し始める。老婦人はポールから離れ、ちょっとごめんなさいよ、と隣の客に声をかけながらよろよろと少年の前に進んだ。その気配に、少年がふと顔を上げた。
「あのね。さっきは、ありがとうね。座れなくてごめんなさいね」
はっきりした大きな声だった。老婦人はおしゃれな水色のベレー帽に手をやって被りなおした。
「腰が悪いとね、立ったり座ったりする動作がほんとうにつらいのよ。でもね、声をかけてもらって、本当におばちゃん、うれしかった。これからもその勇気、大事にしてね。きっとあなたのお顔を思い出すたびに、おばちゃんこれからいやなことがあっても幸せな気持ちになれる。何度でもきっと、今日のこと思い出すわ。いいご両親に育てられたんでしょうね。本当に、ありがとうね」
少年は口の中で「いえ」と小さな声でつぶやき、恥ずかしそうに下を向いた。老婦人はその頭にそっと手を置いて、それからゆっくりと降りて行った。
ドアが閉まると、少年たちはまたてんでにさざめき始める。
おばちゃん? おばちゃんじゃないよなあ、どうみてもおばあちゃんだろ、という声が少女の耳に届いた。おいご感想は、と聞かれ、少年はやめろよと呟いて反対方向を見た。頬は赤いままだった。
少年が何度か眼を瞬くのを少女は見た。指で鼻の横をこすると、今度は上を向く。尖った鼻さきが、冬の小動物のそれのように赤らんでいた。
……あの女性の手の感覚が知りたい、と少女は思った。
藁でできた針のような細い優しい感覚が掌に残っただろう。
手の下の頭は温かかっただろうか、それとも冷たかったんだろうか。少年の頭は湿っていたのか、それとも乾いていただろうか……
敷地の広い高校の案内役として、その日一日、少女にはクラス委員の女子生徒がついてまわった。
学校は小さな山ひとつを抱えるほどの敷地があり、森や池や警備員さんが勝手に耕して始めたというサトイモ畑まであった。小鳥があちこちで鳴き交わすこの学校の環境を、少女は気に入った。
「広くて学校とは思えないでしょ。冬になると凍る防火用水に、犬神家の祟りみたいに兎が頭突っ込んだまま足をつき出して固まってたりするのよ」
イチョウ並木を歩きながら、女子生徒は言った。
「そうなんだ。でも、こういう自然いっぱいのところ、私は好き」
「なんで転校してきたの? てか、わたしがあなただったら、高校なんか行かないで芸能界入りするけどな」
最後の方の言葉は無視して、少女は答えた。
「父は転勤族でね、引っ越しと同時におじいちゃんがここの近くの老人ホームに入ったの。わたしの学校のこともあるから、もう引っ越しはしないっておかあさんは言ってる。もしおとうさんが転勤になったらその時は単身赴任してもらうって」
そのとき森のほうから、チョットコイ、チョットコイ、と聞こえる不思議な鳴き声が聞こえた。
「あれ、何?」少女は尋ねた。
「コジュケイ。ウズラに似ててかわいい鳥。ずんぐりして、まだらで。時々講堂前の芝生で遊んでる」
「いいなあ、一度見たい」
「鳥が好きなの?」
「うん、好き」
答えてから、自分は本当に鳥が好きだったっけ、と少女は考えて、言い直した。
「鳥の頭が好き」
「なんで?」
少女は首をかしげて少し考えてから、答えた。
「小さくて、いつも一所懸命で、……丸いから」
担任に促されて簡単な自己紹介を終えると、ちらちらと、クラス中の視線が、あちこちに鏡を置いて乱反射させた午後の日差しのように、彼女に集中した。
ホームルームの時間、狂言の校外授業の内容をレポートにまとめるようにと担任から話があった。
ネットからの引用は禁止、やってもすぐばれると覚悟しておけ。教室内はうええーという嘆息とざわめきに占領された。
電車の中で聞いた擬音が狂言のものであることは、本読みの少女にはわかっていた。同じ学年なら少年と近く会えるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら窓の外のミモザを眺める少女の、隣の席の男子がころりと消しゴムを落とした。
少女が拾ってはい、と白い指で男子生徒に手渡すと、男子生徒はニキビ面を耳まで赤くして受け取った。
そうして、そのときは、意外と早く訪れた。
「だから、今ちゃんと生野菜も食べさせておいたほうが……」
「心配ないよ、一生食物はペレット、完全栄養食だから」
ともに帰る相手もなく一人校門に向かっていたとき、少女の耳に、職員棟とペット小屋の間の通路から聞き覚えのある声が聞こえた。
赤茶けた長髪の男性教師と男子生徒が話し合っている。生徒があの少年だとわかるのに数秒と掛からなかった。
「地震とか災害とかでここで飼えなくなった場合、ペレットが手に入らないと……」少年が言う。
「その時はうさぎよりも自分の家族の心配したほうがいいぞ」教師が笑いながら答える。少年はもの言いたげに唇をかんだが、次の一言を待たずに教師は言い切った。
「先生忙しいんだ、悪いな。とにかく春休みの間の餌やりは飼育係に任せてあるから」
がらがらぴしゃんと職員棟の出入り口を閉めた教師の背中をにらみ、少年はこちらに向き直った。
少女はまっすぐに少年を見つめたままだった。少年は、不意を突かれたような顔つきでこちらを見ていたが、曖昧に視線を下げると、うさぎ小屋を覗き込んだ。そして、鞄から野菜の入ったビニール袋を出し、キャベツの葉を取出した。
少女はそっと近づいて、少年とうさぎを背後から見つめた。
金網の隙間から少年が突っ込むキャベツを、うさぎが白い歯を見せて咥え込み、せわしなく咀嚼する。しゃくしゃく、しゃくしゃく。水っぽい音に、隣の小さな池の噴水の音がかぶさった。しゃらしゃら、しゃらしゃら。
「わたしも、それ、やっていい?」
少女は小声で、でもはっきりとした歯切れのいい発音で、凛と話しかけた。
少年は振り返らなかった。まるでわかっていたことのように、前を向いたまま「いいよ」と答えた。
少女はスカートの膝の裏のプリーツを手できちんとそろえると、少年の隣にしゃがみ込んだ。
小屋の金網の中には、薄汚れた白いうさぎと黒いうさぎが一匹ずつ入っていた。金網の破れ目から突っ込むためにはキャベツをかなり小さく千切らなければならない。 少年が一枚葉を差し入れるたび、うさぎたちはその一枚をせっかちに両側から引っ張り合った。
「ずいぶん、おなかがすいてるみたい」
少女はキャベツの葉を小さく千切りながら、独り言のようにつぶやいた。
「いつもペレットだから。この味に慣れさせるまで相当かかった」
「ペレットって?」
「うさぎの餌。ドライフード」
少年は前を向いたまま答えた。
「さっき言ってたこと? 生野菜を食べさせないと、って」
「ここの連中はペレットしかやらないから」
怒ったように少年は言う。
「栄養はそれでよくても、そればかりだと、ほかの餌の味を受け付けなくなる。成長しても生野菜さえ拒絶するようになる。それでしか生きられなくなるんだ」
「うさぎなのにね。それってへんよね」
少女が差し入れるキャベツを、我先に引き込もうと二つの鼻づらがひしめき合った。少女は思わず微笑を浮かべた。
「そういえばね、うちの猫もそうだった」
二人の後ろを通り過ぎる生徒たちの視線を背中に感じながら、少女は続けた。
「夏の盛りに、うちの前の道路でよろよろしていた子猫がいてね。アスファルトでやけどしそうだったから、拾ってあげたの。わたしが五歳ぐらいのときかな。
その子は、散り始めた百日紅の花を食べていたの。最初は遊んでいるのかと思ってたんだけど、食べてたのよ。むしゃむしゃって」
「花を?」
「うん、花を」
少年は初めて少女の顔をまともに見た。少女も目線を合わせた。細い綺麗な目だと少女は思った。少年は頬を染めてすぐに視線を外した。
「家に連れてきてから、いろんなものをやってみたの。まずミルク。それから、かにかま、鰹節。お母さんはささみを刻んでくれたの。でもどれもダメでね、口元に持って行っても後ずさりするだけで」
「ふうん」
「もしかしたら、と思って道路に出て、百日紅の花を集めてお皿に入れたら、食べたのよ。ピンク色の小さな花に小さな顔を突っ込んで、嬉しそうに。わたしそれ見て、小さなころやったおままごとを思い出したの。人間でもお花のご飯は見るだけなのに、この子は美味しそうに食べてる、って。もしかしたらおいしいのかなと思って、それで一緒に……」
「食べた?」
「うん」
「へえ」
視線をうさぎに向けたまま、少年は小さく笑った。
「ちっともおいしくなかった。それから、花でもいいならと思って、野菜をあげてみたの。野良で生きてきたのなら雑草かなって、まず庭の夏草。ハコベとかオオバコとかタンポポとか。タンポポ以外は予想通り、食べたの。それで、でもそれじゃこの先大きくなれないだろうと思って、栄養のありそうな野菜に変えていったの。ホウレンソウとか、にんじんとか……」
「それも食べた?」
「すごくよく食べた。それからだましだましでそれに魚やお肉を加えていったの。だから今、雑食。狸みたいに、なんでも食べる猫」
「純菜食主義者のなかには、ペットにも菜食フードで通す人もいるらしいよ。その話を聞いたら怒られるかもね」
少年は空っぽになったキャベツの袋をくしゃくしゃと丸めた。
「わたしも少し、そのままでもいいかなと思ったけど、でも長生きしてほしかったから。両方食べて、おいしいほうを選んでほしかったし。捨てられて、食べるものがなくて、それで花や雑草の味しか知らなかったんだと思う」
「まだ元気?」
少年は立ち上がりながら聞いた。少女も野菜くずを拾うと立ち上がった。
「すごく元気。家の中でもヤモリとか虫とか見つけるととびかかって、勝手におやつにしてる」
「きっと長生きするよ」
瞳を上げた少年の口元が柔らかく微笑んでいた。
少女はなんだか泣きそうになった。誰かと会話することを、こんなに楽しいと思ったのは久しぶりだった。
少年は下をむいたまま、地面に散らばるミモザの花屑を靴の先で蹴った。頭上からちらちらとミモザが散って、短い髪に絡まった。
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