第18話 愛の言葉

 東の塔でもため息が漏れる。


「お元気ありませんね、エルナさん」


 ラミィを部屋に送り届け、塔へ戻って来たエルナは、ローテーブルに置かれた燭台の炎を見つめ、どこか暗い顔でため息を吐いていた。

 自分でもよく分からないけれど、胸のあたりがもやもやして落ち着かない。


 この気持ちは一体、なんだろうか。


「ん……。いや、大丈夫だ。ラミィ姫と遊びすぎて疲れたのだろう」

「ならば心を休めるようなハーブティでも頂いて参りましょうか? ちょうど陛下のご公務もひと段落つく時間ですし、こちらへ参られるかもしれません。ティーセットを……」

「……」


 前傾姿勢でローテーブルに頬杖をつき、じっと炎を見つめるエルナに、アーリャは気遣いを込め問いかける。


 彼女の落ち込みようはおそらく、オルリアの書斎に用意されていた深紅ドレスだろう。

 あれが自分宛てだなどと微塵も思っていない彼女は、オルリアが誰か女性に贈るのだと思い、無意識に落ち込んでいる。

 憂う姿は珍しいが、主人に怒られた猫のようで愛らしいと、アーリャは秘かに微笑んだ。


(まったく陛下ったら、勿体ぶっていないで早くお贈りすればよろしいのに。エルナさんが落ち込んでいますわよって言ってしまいたいわ)


 あの夜会用の礼装ローブ・デコルテは、オルリアがエルナのために特注したものだ。

 今までも日中用のドレスは何着か贈っていたはずだが、夜会服は初めてで。


 なんだかんだ一緒にいるくせに一向に想いが通じ合わない二人をもどかしく思っていたアーリャは、これを機に早く進展してくれたらいいなと思う。


 エイムストン王国は珍しく自由恋愛が主体で、婚姻に身分は関係ないお国柄だった。

 もちろんレオッカのような血統主義もいるし、タングリーが言っていたエルナの過去も気にはなるけれど、互いの了承さえあれば結婚ができる。


 もっとも、貴族令嬢の大半はデビュタントをした後、親に言われるがまま殿方とダンスを踊り、一番多く踊った相手と結婚するのが一般的だ。


 それでも最近は、親の意思に関係なく運命の相手と結ばれるご令嬢もいると聞いた。

 アーリャの父であるベリトリス団長が、タングリーを気に入っていながらも家の名で縁談を申し込まないのは、秘かに自由恋愛に憧れている娘を想ってのことだ。


 しかしこの恋も、エルナとオルリアが進展しない限りどうにもならなくて……。



 そう思い、こちらも秘かにため息を吐いたときだった。

 誰かが塔にやって来たのか、コツコツと靴を鳴らす音が聞こえてくる。

 アーリャが近寄って間もなく、コンコンと優しくノックが響き、扉を開けて立っていたのはオルリア。


 彼は、例のドレスを手に覚悟を決めた顔をしていた。

 二人きりにしてほしいと願うと、アーリャは意思を酌んで部屋を出て行く。

 憂いていたエルナは、弾かれたように顔を上げた。


「その、ドレス……」

「エルナ。再来週、私の友人たちが集まって談笑を交わすだけの親睦会が催される。その場に、私のパートナーとして出席してくれまいか」


 ソファに腰かける彼女の傍に歩み寄ったオルリアは、片膝をつくとまずはドレスを差し出した。

 優美な赤にフリルとレース、そして銀糸の刺繍が施された柔らかなドレスは、改めて見ても美しくて。

 だが、見合い相手に贈るものだと認識していたエルナは、薬師としてではなく、パートナーとしてという彼の言葉含め、表情が怪訝になる。


 しばらく間を開けた彼女は、言葉を選ぶように絞り出した。


「愛らしいドレスだ。だが、誘う相手を間違えているのではないか? 私は薬師だぞ」

「間違えてなどいない。あの見合い写真は届いていただけで受ける気など毛頭ないものだった。私はお前が好きだ。愛しい。どうか特別な存在になってくれ」


 明らかに表情を曇らせるエルナを見つめ、オルリアは着飾っても洒落てもいないまっすぐな言葉で一気に告げる。

 途端エルナの瞳が大きく見開かれ、戸惑うように逸らされた。

 それでも構わず隣に座ったオルリアは、


「愛している。エルナ。私はお前が欲しい」

「……て、くれ……」

「お前の過去に何があろうと、どんな血筋だろうと構わない。私は……」

「やめてくれ! 私は、私には応えられないんだ! 絶対にダメなんだ。だから、それ以上言わないでくれ……」


 ぎゅっと手を握り、愛を語るオルリアの言葉を強引に打ち切った瞳は、濡れていた。

 真珠のようにぽろぽろと零れ落ちるそれは、初めて見る彼女の涙で。


「エルナ。なぜお前は、そうも受け入れたがらない?」


 苦しげな姿に、思わず彼女を抱きしめる。


「言えない」

「私が嫌いか?」

「そんなことはない。だが、受け入れられない……っ、きっと悲劇になる。私は異端だ。非魔法族の国で、魔女が迎え入れられていいわけが、ないんだ……!」


 濃藍色をした彼のジャケットをぎゅうと握り、エルナは声を絞り出す。

 ぽろぽろと流れる涙、そして言葉の裏にあるのは、両親が辿った残酷な最期。

 加えてオルリアには、水晶が視せた不穏な未来がある。


 だから抵抗しなくては。

 たとえ気持ちがどう揺らいでいようとも、受け入れることで訪れるかもしれない未来を回避するためには、今の立場を、貫かなくては。


「頼む、オルリア。最初にダメだと言っただろう。私はきみが思うよりも、はるかに厄介な血筋だ。その血故に、ずっと隠れて生きて来た。生存が知られたらきっと、あの国から追手がかかる。迷惑になる」


 声を震わせ、必死に、エルナは彼の言葉を拒絶する。

 自分の気持ちではなく、血筋やオルリアのことを気遣うような言葉に、我慢できなくなる。


「……!」


 単純にオルリアのことを好きになれないというなら、諦めるしかないだろう。

 無理強いの末手に入れても、嬉しくはない。それは国益を優先した政略結婚で、心を晒さぬ花嫁を迎えるも同然だ。

 オルリアは血筋でも立場でもなく、何より彼女の心が欲しい。


 拒絶を繰り返す唇を優しく塞ぐと、ピクリと震えて彼女が大人しくなる。

 頬に手を当て、慈しむようにもう一度。

 ほら、体は受け入れているのに。


 どうして、心は……。


「エルナ、お前が何を抱えていようと構わない。たとえ何者でも、どんな血筋でも、私はお前自身を愛している。何があっても守り抜く。だから……」

「うぅ……。ダメだ。お母様だってきっと、そうやって父を受け入れたんだ。母が魔女の立場を重んじ、父が適切な判断をしていれば、不幸なんて起きなかったんだ!」

「……!」

「だから、だからダメだ……っ」


 押し殺すような声音から始まり、ついに悲痛な叫びを漏らしたエルナは、オルリアを押しのけると勢いよく立ち上がった。

 そして、涙を零す瞳で彼を睨みつけ、止める間もなく部屋を飛び出してしまう。


 残されたオルリアは追おうと腰をあげ、しかし迷うようにまたソファへと身を預けた。

 今ここで彼女を追ったところで何になると言うのだろう。

 たとえ追いつき、言葉をかけたところで、頑なになった彼女の心が変わるとは思えない。


 だが、諦めることも出来るわけが、なくて……。


「エルナ……」





 バタンと勢いよく扉を開け、エルナは部屋を飛び出した。

 自分を支配するこの感情は、悲しみか怒りか、それとも憂いに似た何かなのか。

 胸の中がぐちゃぐちゃになって、正しい思考ができなくなる。

 今飛び出したところで、何の解決にもならないことくらい、分かって、いたのに。


「うぅ……」


 だけど、あの場に留まることも出来ず飛び出したエルナは、塔の入り口に佇む人影を見つけ、不意に足を止めた。

 ストーングレイの軍服に、冬用の長いブーツ。押し殺したような表情で腕を組んでいるのは……。


「タングリー……。来て、いたのか」


 そこにいたのは、タングリーだった。

 涙に濡れた目で、嗚咽を我慢しながらエルナが声を掛けると、彼は複雑なその顔を上げる。

 途端、エルナが泣いていることに気付いたタングリーは、数歩こちらに歩み寄って来た。

 カツカツと足音が響き、石の床に木霊する。


「大丈夫か、エルナ」

「うぅ……ん」


 彼の声音は優しくて、いつもと変わらない穏やかさを湛えていた。

 何も言わないけれど、もしかしたらタングリーは、中で起きた出来事を悟っていたのかもしれない。そう思うと縋りたくなって、エルナは不意に手を伸ばそうとした。


 いつだって優しい彼に、胸の内を聞いてほしくなる。


「……っ。いや」


 だが、伸ばしかけた手を下ろし、エルナは大丈夫だと首を振った。

 今ここでタングリーに寄りかかれば、また彼を傷つけることになるかもしれない。

 彼だって、自分を好きだと傍にいてくれる存在なのだ。応えられないと突き放しておきながら優しさに甘えてしまうのは、いけないことのような気がした。


「心配をかけてすまない。少し、頭を冷やしてくるよ」

「……そうか。外は雪だ。風邪引かないようにな」

「ああ」


 タングリーの顔を見ることも出来ず、俯きがちに呟いたエルナは東の塔を出て行った。

 軋む音と共に扉が閉まり、静寂が落ちる。


 まるで、すべての生き物が死滅したような静けさだけが、その場を支配していた――。

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