京この頃

於人

京この頃

 京都で学生生活をしていると、「京都で学生生活だなんて、羨ましいですね」なんてことを言われることがある。友人が京都を訪ねて来ると、有無を言わさず案内を任されたりするわけだが、これが困りものだ。僕が少し不案内であると「府民なんでしょう」と不平を言われてしまう。京都に住んでいても、使わない系統のバスや降りたことのない駅だってある。路線図には自然と濃淡ができてくるから、仕方ないといえばそれで元も子もない話だ。


 彼らはこぞって観光名所や祇園祭といった「いかにも京都らしいもの」が目的であったりすることが多いのだが──実際に住んでいる身からすれば──意外に観光地らしい場所に足を運ぶことが少ないのも、その濃淡ができる原因の一つかもしれない。


 意識して京都らしい場所に行き、「やはり京都はいいな」と感じるよりは、ふとした時にささやかな所で「京都らしさ」を感じる。些細な日常の中に京都らしい趣深さは組み込まれているように思う。


京都というと歴史ある寺社仏閣、古い街並みが注目されがちだが、銭湯の数が多いことはあまり注目されない。今では昔に比べて随分と数が減ってしまったようだけれど、それでもその数の多さは暮らしている中で実感することができる。 

実際、僕の家の近くには三つも銭湯がある。そのおかげで「今日は大浴場で一風呂浴びたいな」というとき、気分によって風呂場を選ぶことができるわけだ。これだけ銭湯の数があると、それぞれに個性も出ていて心楽しい。


 サウナにこだわっている銭湯だと、冷凍サウナが備え付けてあって、氷点下、つまりマイナス五度の冷室に入る事ができる。僕は入って三分もしないうちに、頭皮がひりひりしてきて、すぐに檜風呂に駆け込んでしまった。まあ、これは好きな人には最高の施設なのだろうけど。


 もう少し変わったところだと、インコと一緒に入浴を楽しめるところもある。浴槽の向こうにガラス張りの飼育スペースがあって、そこでインコたちは人間が風呂に入るのを見物している。僕らはインコの鮮やかな羽色に目をやりながら、入浴することができるのだ。

「逃してしまいました」。時々、脱走したインコの捜索依頼のポスターが入り口に貼られていたりするのが可笑しかった。まぁ、インコたちも毎日人間の裸なんか見ているよりは、京都の四季を眺めたりしたいのだろう。


 番台からも京都らしさを感じることがある。週3回の風呂掃除をすれば、家賃と光熱費が無料の学生寮を構えた銭湯。学生の街、京都ならではの銭湯の形だ。番台に座っているのが、同じ大学の大学院生だったりすることがあって、「こんばんは、いらっしゃいませ」という挨拶が、「いらっしゃい、お疲れ様」に変わる頃が、常連になった証だった。


 太鼓の音で目が覚める朝があった。土曜日の朝。ちょうど二月三日の節分であった。節分というと、人々は「鬼は外」と豆をまき、恵方巻きを食べる。そんなささやかな年中行事として済まされがちだが、京都の神社ではわりと大々的にこの節分の行事を執り行う。


 近くにある大将軍たいしょうぐん神社だと、節分星祭を開催して、そこでお焚き上げをやったりする。方除厄除を祈願して、正月飾りや古いお札なんかを燃やしに燃やす。これがなかなかの見ものだ。勢いよく火の手が上がって、煙は気持ちよく晴天の空に吸い込まれていく。

近くのスーパー・マーケットで恵方巻きを買った帰りに、この節分星祭に立ち寄ってみた。僕が恵方巻きを差し入れに持って行くと、神主さんが恵方巻きを人数分に切り分けてくれ、そこに居合わせた人たちと一緒に食べた。一本丸々を一人で食べ切れる自信がなかったから助かった。それに、ちょうど甘酒が無料で振舞われていて、地域の人達でお焚き上げの炎を囲みながら飲むお酒ってなかなかいいものだ。


 へん平に続いているように見えるの中にある京に、かけがえの無さを感じるだ。

 

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京この頃 於人 @ohito0148

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