第20話

「お疲れ様で~すッ」

 どうしてここに。二年と一年とでは、そもそも階が違う。と思ったのも束の間だった。

「良かった、まだ帰ってなくて。あっ、それに茉莉愛さんまで。お疲れ様です!」

 上下左右と揺れ踊るツインテール。歩く度に、頭上に咲いたオレンジの薔薇が窓越しの日差しとリンクし、ぐらりと目がくらんだ。

「奏汰センパイッ」

 思わせぶりなリフレイン。コイツめ。心の中では既に「コイツ」呼ばわりだった。

 さっきは余計な情報を吹き込みやがって、よくも。自分がした事を自覚していないのか? もう騙されない。

 一方当の本人は、昼休みの一件などまるで覚えてないかのように意気揚々とリュックを背負い、鼻歌交じりにじりじりと近づいて来た。

「なに?」

「う~ん、一緒に帰ろうと思って」

「は?」

 意味が分からなかった。「はいわかった」と、すんなり返事するわけがない。むしろあってたまるか。今度は何を企んでいる。思考が、本能が、彼女をひたすらに訝しんだ。

「ごめん。今日はちょっと急いでて」

「ええ~、ウソだぁ。だってセンパイ、どうせ帰宅部でしょ?」

 そう言って音羽は僕を舐め回すように見つめてきた。

「は? 違うわ!」「見た目だけで決めつけるな!」などと、できる事なら強く言及してやりたい。が……そこに関しては正直ご名答という他なかった。

 全てを見透かしたような発言を前に、あっけなく言葉に詰まってしまう。すると「それにー」と意味深な接続語を匂わせ、スキップを踏みながら音羽が摺り寄って来た。

 突然の至近距離。

 そして、僕にだけ聞こえるウィスパーボイスで。

(クレールのバンド練習は週末だけ、ですもんね。フフッ)

「がぁぁっ!?」

 感情の読めないアルカイックスマイルを浮かべながら、耳元で囁く。

「ってことで、行きましょ! センパイ!」

 貧弱な腕をもぎ取るかのように、音羽が強引に手を回す。

 なめらかに滑り込む肌。驚く程スベスベで、柔らかくて、ひんやりと冷たい。

 ――て、何を考えて……。

 こんな時にまでよこしまにドキッとしてしまう自分に心底嫌気が差し、慌ててかぶりを振った。

「すいません茉莉愛さん。今日はこれからセンパイと、大事な大事な用事がありまして」

「えっ……あ、はぁ」

 動揺を多分に含んだか細い声で、虚を衝かれた様子の聖女。

 音羽に向け「そう、ですか……」と答えると、ただただ小さく頷くだけだった。

「ちょ! ちょっと!」

 腕を引き、歩き出そうとする小悪魔。

 勝手な……頼むから、もう、やめてくれ。

 蠱惑的なその立ち回りから、特段喧嘩をしているわけでもないのに、ほんの少しだけ三者の間に言いようの無い独特な空気が漂っているような、異様な空気が立ち込めた。

 そんな事など露知らずといった様子で、音羽はグイグイと進み始める。

 そもそも、大事な用事って何なんだ? 聞いてないし、皆目見当もつかない。


「奏汰、くん」


 そして。


「――じゃあ」


 その一言を最後に。茉莉愛は僕たちから背を向け、教室へと戻っていってしまった。

 何の変哲もない挨拶。けれどもそれはこれまでとは違う、何か意図を秘めているようで。

 視界から遠ざかり消えていく彼女。「お願い、待ってくれ」だなんて、言えるはずも無かった。歯がゆくてむず痒くて、何故かモヤモヤとしこりだけが残る後味で。

 結果それがこの日の、茉莉愛との最後となってしまった。

 



「ちょ、ちょっと」

「待ってってば」

 一向に止まらない早足。校舎の門は既に通り過ぎている。

 茉莉愛はもういない。だけれど速度を落とす気配も無く、コツコツ、ぐいぐいと。

 これはもう単なる下校ではなかった。何か時間に追われているような、謎めいた足取りだった。

「ねえ。大事な用事って何? どうしてそんな急いで」

「ほらほらセンパイ、早く早く。行きますよ」

「だから、行くってどこに?」

「そ・れ・は~。着いてからのお楽しみですッ」

 もはや見慣れた微笑。何なんだ。揶揄うにも程がある。音羽はあさっての方向を向いたまま、それ以上多くを語ろうとしなかった。傲岸無礼、傲慢無礼とはまさにこの事。

 度重なる彼女のイレギュラーな振る舞い。

 その天真爛漫且つ予測不可能な行動は。

 いくら「影孤静遂」をモットーとする僕でも、ピキリときた。


 ――バサッッ、ッ!

「だから、待ってってば!」


 もう無理だ。限界だった。

「いい加減話してくれ。何なんだよ!」

 速度を失い、急停止した二人。僕は渾身の力を込め、音羽の腕を乱暴に振りほどいた。

「だってセンパイ」

「言ったら絶対に尻込みするから」

「尻込み? 何だよそれ」

「でも無理ですよ。既にもう、は入れてあるんで」

「予約っ……は? 意味が分からない。あのさ……いったい何のつもりだよ」

 こっちは真面目に話している。なのに音羽は「ンフフッ」とまたしても笑みを零した。

「センパイには、今日のを実行してもらおうかなって」

「はっ?」

「感謝してくださいね。お返しと言っても、結果的に得するのはセンパイなんですから」

「だから、さっきから何を言って……」

 お返しとは大方昼休みの件だろう。彼女には、僕が茉莉愛についてしまった嘘の「知人」になりすまし協力してもらった。だから十中八九、その見返りを指しているはず。

 言い分としてはわからなくもない。でもあの時、「この見返りは、また後で――ってことで」と音羽が一方的に言い放ち、会話はブツ切りのままで終わってしまっていた。

 もちろん感謝はしている。けど、だからといって正式な口約までは交わしてはない。

「センパイ。これは言っちゃえば――“逆シンデレラ”なんです」

「はい?」

 度重なる疑問符の連続。ここまで来てもまだ真相が見えてこなかった。

「奏汰センパイにはこれから、変身してもらいます」

 戦隊ヒーローかよと、のたまいたくなった。すると、言いながら音羽はようやく足を止める。

「先輩は、です」

 真面目な表情で、何を可笑しなことを。

 それにまただ。またそれだ。これで三度目。

 初対面のファミレス。続いて昼休み。そして今と、何度と聞かされた謎のセリフ。

「いいですかセンパイ。アタシは別に、センパイがそういう人柄なのは否定しませんが」

「お兄ちゃんのバンドの、さらにヴォーカルってなると……話は別です」

「センパイは中身がヨレヨレ過ぎます。そんなんでこの先のバンド活動、うまくやっていけるのか……どうしても不安になっちゃう」

「こう見えて、心配してるんですよ。アタシは」

 まるで「感謝してください」と言わんばかりの、清々しいほどのドヤ顔だった。


「だから先輩には」

を与えないと」


 言うと音羽は人差し指をピンと突き立て、ウインク交じりの熱視線を放って見せた。

「っ……へんかく、だと?」

「はいッ!」

 満面の小悪魔スマイル。と同時に、不意にこちらへと伸びてくる白く細い手。

「――ぃしょ」と言いながら背伸びをした音羽は、突然クイっと僕の前髪を持ち上げた。

「ちょ、何をしてっ」

 あれ、何だろう。この流れるような一幕は。確かどこかで、以前にもあったような。

 瞬間いつかのワンシーンを想起させる光景が、無意識に脳裏全体へと広がった。

 ………………そうだ、樹だ。

 あの時、初めて出会ったカラオケ店で。樹も僕に同じことを。音羽が放つ手の動きと滑らかな指さばきが、樹が見せたそれと寸分の狂いも無く見事なまでにシンクロした。

 久留米樹と久留米音羽。あの兄にして、この妹あり。

 やはり血の繋がった「兄妹」なのだと、心底痛感させられた。

「センパイは素材自体は別に……というか、全然悪くないんだし」

「せめてこの伸びっぱなしの髪、これだけでも変えるべきです」

 今度は何だ。僕をどうしようと。もしかして今、誉めてくれているのか? 

 ていうかそれよりも、近い。距離と顔が近すぎる。堪らず僕は苦悶を浮かべた。

 確かにクレールの「奏」の時と比べると、外見に関してかなりのギャップがあるかもしれない。だけれどあれは、僕の中のもう一つの人格だ。日常の学校生活における自分とは全くの別モノ。でも、特段不満はない。一切なかった。むしろ二種類の人格の使い分けをすることで現状安定は保てている。満足と言ってもいい。

 だからそう言ってくれるのはありがたいが、正直お節介だし、何なら余計なお世話とすら思えた。

「言っておきますがセンパイ。学校でもバイト先でもアタシ、かなりモテるんですよ」

「それなのに。こーんなどんよりした男子が、常にそばに居られたら……アタシ」

 ちょっと待った。僕が暗いってのは認める。だがあたかも普段から、且つ自分の方から近づいていっているような、そんな口振りだった。

 さりげなく自慢話を挟みつつ、都合の良いように話が脚色されている。

 違うだろ。むしろ逆じゃないのか? この冴えないオトメン白メガネをつかまえて、おもちゃのようにあの手この手で弄び楽しんでいる。そういう印象しかない。

「普段はバンドとも関係ないんだし。だから別にいいだろ」

「学校での、日常の枚方奏汰は……クレールとは何ら関係が無いんだから」

 秘めていた思いを淡々と、理路整然と言葉を紡ぐ。


「いいや、ダメです」


 が、言った傍からキッパリ。

 そして、バッサリと。

 華麗なる一太刀でものの見事に、一刀両断されてしまった。

「センパイは甘いです。こういうのは、外から変えていくのが一番なんです」

「それはクレールに入って、ステージに立って、あの日温かい声援を浴びて」

「事実、センパイも実感してますよね?」

「『奏』にできたのなら――『枚方奏汰』にだって、きっとできます」

「センパイは使だなんて言いますけど。あの時視界をごまかして、ビビって歌ってたくせに。知ってるんですよアタシは。お兄ちゃんから全部聞きました」

「や、いや! それは、だな」

「今まで沢山のルーキーバンドを目にしてきたからわかる。クレールがより高みへ、中でも、フロントマンであるヴォーカルをより輝かせるには――。日頃の、普段のセンパイ自身に対しても変革を与えてあげないと」

「なので、お兄ちゃんがセンパイにしたように」

「アタシも、センパイの背中を押してあげます」

 何だよ……それ。一方的にも程がある。

 それに未だ、発言の真意が見えてこない。肝心な「核」となる部分を絶妙にぼやかされているような、そんな気がした。

「だから」

「行きますよ、先輩」

 先程までと異なり、外連味の中に真剣味を含んだ神妙なトーンで。すると音羽は「着きました」と言わんばかりに大きく右手をかざし、僕の視線をある場所へと促した。

「っ……ここは?」

「美容室です」

「びようしつ?」

「はい」

「そして。アタシの実家です」

「えっ、じっか?」

「じつはアタシの家、美容室をやってるんです。ンフフッ」

 小悪魔の計画。それが今この時、推測から確証へと変わった。

 眼前に映るヴィンテージ風の外観。その手前、チョコレート色の板面にオフホワイトなフォントで書かれた漢字と英文字のロゴ。

 そこには「美容室 KURUME」と書かれた立派な看板が設置され、照明を浴びつつも無表情で、僕を出迎えていた。


「ほら、行きますよセンパイ」

「い、いや……そんなっ! いいってば」

 冗談だろ? 何を勝手な。いくら何でも唐突すぎる。

 年下の後輩少女に向け、僕はワガママな駄々っ子のごとく抵抗を試みた。

 カランカラン――。

 と、ちょうどそのタイミングで。まるで示しを合わせたかのように入り口の扉が開き、取り付けられていた鐘のが高らかに鳴り響いた。

「ああ音羽、おかえり」

「あっママ、ただいま!」

 現れたのは、モデルのようにスタイルの良い大人びた女性だった。

 ファッション雑誌で見かけるようなデニムのワイドパンツにボリューム袖でふんわりとした白のトップス。さらにグレーのベレー帽から覗くモカブラウンのショートボブにピンクのインナーカラーが、若々しさと上品さを絶妙に兼備している。  

 ハイセンスなその出で立ちは、「美容師」と知って納得してしまう程様になっていた。

「ちょうど良かった!」

「ねえママ。さっき電話した予約の件だけど。話してたセンパイ、連れて来たよ」

「あらそう。そっか、この子が」

 娘とはまた違う、穏やかで優しい眼差しが僕を捉える。親だと知った瞬間、全身が脱力し怯んでしまった。これは、もう。

「どうもこんにちは。音羽の母の、美海(みうな)です」

「ええっと……奏汰くん、だよね? どうぞどうぞ。ささっ、入って」

 親切な対応。どうやら音羽は、きちんと名前まで伝えていたらしい。随所に見せる娘とどこか類似した笑顔。だがそこには、娘のようなダークな裏の顔までは見当たらない。結果僕が名乗るまでもなく、久留米ママは即座に「認知」と「歓迎」の意を示した。

 従業員の母親が登場するという、まさかまさかの展開。ああもう、どうして。

 僕には既に「逃避」を実行するだけの勇気など、もはやひと欠片も無くなっていた。

「っ……は、い」

 脱力と虚無。茫然と自失。決して望んではない心境をカタコトな言葉にして返す。

 鉛のように重い足取り。そんな僕の牛歩を「ほらほらセンパイ、行きますよ」と言いながら、背中を押し誘導する音羽。


「変革」

 正直それは、クレールだけでもう十分だった。

 日常生活においてまで、僕は変革など望んではいない。

 なのに。それじゃあダメなのか? 足りないのか?


 最終的に言われるがまま、されるがまま。

 僕は、僕にとっての未知なる迷宮へと、足を踏み入れていくことに。



 ◆ ◆ ◆

 


 花言葉:薔薇(オレンジ)

 意味:「無邪気」「愛嬌」「魅惑」


 さらに、それらに加え。

「絆」「信頼」という意味が含まれることも――。


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