第16話
「そっか。奏汰にはまだ紹介してなかったな」
「コイツは妹の音羽だ。音羽は俺以上にV系ロックが大好きで、ライブハウスにもよく通ってるんだ。で、この間のライブにも来てくれて。な?」
笑顔で頷く妹。樹曰く前回のライブ、彼女は最前列で一番盛り上がってくれていたらしい。
なるほど。思い出した。確かに歌唱中、人一倍に「手扇子」と時に「ヘドバン」をしてクレールを応援してくれた子がいて、裸眼越しでも何となく実感はしていた。
それが……この子だったのか。白薔薇の彼女が「隠れ系バンギャ」だとしたら、こっちの妹のほうはまさに「陽気系バンギャ」と言っていいのかもしれない。
「で、用事ってのはじつは」
「“ヘルブラッド”っていうロックバンドのライブに、これから妹と見に行く予定でさ」
「えっ、ヘルブラッド? 知ってる知ってる! 先月出た新曲、オレもよく聴いてるよ!」
「ほお……有名なのか」
「何だ、集は知らないのか。じつは二か月前くらいにメジャーデビューしたバンドでさ。どの曲もすっごくエッジが聴いてて結構良いんだよ。何て言うか、中毒性がある感じで」
熱弁する樹。すると話題の中心は、新進気鋭なロックバンドの話で盛り上がり始める。
「ソウ、タ?」
そんな中、一人だけ。突如含みを持たせた少女の呟きが不意に耳元を通り過ぎた。
樹たちが話をしている最中。妹の音羽は謎に僕の「奏汰」の名を復唱していた。
うん? 何だ? 何を、そこまで。
「やばっ! そろそろ行かないと! みんな悪い、俺たちはここで失礼するわ」
「じゃあ音羽、行くぞ」
「あっ、うん」
慌てて席を立った樹は財布から千円札三枚を抜きテーブルの上に重ねた。樹自身千円分すら食べていない。こういうリーダーらしいさり気ない優しさには本当感謝しかない。
「んじゃ、またな」とラフな挨拶を最後に、樹は店外へ颯爽と歩き出した。
「それじゃあアタシも、行ってきま~す」
「ああ」
「おう、行ってらっしゃい音羽ちゃん。楽しんで!」
そんな兄に続くようにして、仔猫のようにペコッと会釈をする妹。
「あっ、そうだ――言い忘れてた」
だが歩き始めた直後。思い出したように踵を返し、彼女はこちらに謎の視線を向けた。
「奏さん」
「え? あぁっ、はい」
返事をするや否や、突然迫り来る小顔。至近距離。静止した僕の耳元に届く微かな吐息。囁き声と共に、一気に甘い香りが濃度を増しカラダ全体を飲み込んだ。
「この前のライブ……」
「すごく、カッコよかったですッ」
「ええっ!?」
「ンフフッ。それじゃあ、またですッ」
ASMRだった。可愛らしさとあどけなさをふんだんに織り交ぜ、少しデレたような小悪魔ボイス。思わせぶりな言葉と妖艶なウインクを置き土産に、彼女は去って行った。
ゴクリ。喉が鳴った。震えた。砂漠の真ん中から生還した直後のように、僕は慌てて目の前にあったコップの水を流し込んだ。
何なんだ、今の……。免疫の無い僕にとって刺激があまりに強すぎる、そんなやりとりだった。
自身で勝手に定義づけしていた、ロリータ系女子。大人しめで人見知りで、少しダウナー気質で。けれども彼女は、それらのイメージとは大きく異なっていた。
にしても……凶器的だ。魔性が過ぎる。明るくて元気で人懐っこくて――なんてもんじゃない。決してそれだけには留まらないと、胸の鼓動が訴えていた。
間違いない。彼女は物語に登場するような、小悪魔なる素質を多分に秘めている。一度堕ちてしまったら最後、その沼からはもう這い上がることなどできないというほどに。
ファミレスでのひょんな一幕。それが久留米音羽との出会いで、強烈に残る僕の第一印象だった。でもまあ「人たらし」という点においては、あの「聖女」ともどこか、通ずる所があるようにも思えたり……。
ふと、あの日放課後に見せた屈託のない彼女の笑顔を想起した。
「お待たせ致しました。バニラアイスに、チョコバナナパフェになります」
そうこうしている間に、すっかり忘れていたバニラアイスが到着。
スタジオ練習の時とは違って、ジトっとへばりつく生ぬるい脂汗。
ありがとう優達。頼んでおいて正解だった。
ひとまず身と心を雲散霧消させるべく、ロボットのように金属音を鳴らし続ける。
それから暫しの間。僕は一人黙々と、ただひたすらにスプーンを走らせていた。
◆ ◆ ◆
翌日。体育祭を終えてからの、新たな週の始まり。
休日を挟んでも尚、月曜朝の教室は後夜祭のように早々から騒がしくしていた。
はぁぁ。溜息交じりに一呼吸置き、いつものごとく着席する。初夏の蒸し暑さと騒音にいささか煩わしさを感じながらも、何だろう。じつは内心、安心している自分がいた。
何と、自席に着いた僕に対し……一切の鋭利な視線や言葉が何一つ飛んで来なかった。
特に男子、体育祭であれだけの事をしでかしたのに。例の借り物競走で、大失態をやらかしたにもかかわらずだ。教室内はただやかましいだけでいつもとさほど変わらない。想像していたのとは違っていた。
何だよ……。不思議な脱力感を覚え、筋肉痛以上に凝固していた心の凝りがじんわりと溶解していく。でも多分、これはきっと。
徐々に整理されていく思考。僕は確信していた。
体育祭から今日まで、土日の猶予があったこと。また、結果的に白組が優勝したこと。そして何より、神宮寺茉莉愛という絶対的女神の存在。借り物競走で僕を指名したのは彼女だ。僕がみんなから追及でもされれば、聖女心を持つ温厚篤実な茉莉愛はきっと心苦しく思うだろう。何なら自責の念すら抱き兼ねない。さらに先週の保健室での又聞きによれば、借り物競走後に行われた学年混合の「組対抗リレー」において、出場した茉莉愛は後位からトップまで順位を底上げさせるという大活躍を見せていたらしかった。だからかなのか、全クラスメイトは疾うに忘れた出来事のように各々で雑談を繰り広げていた。
「とにかく……何も無くて良かった」
机上に突っ伏し、無意識に言葉が零れる。あらゆる条件が総合的に作用し、去年の二の舞にはならずに済んだ。
いつもと変わらない日常。変わらない無関心。でも、それで良かった。だってこうしてまた、「影孤静遂」を続行することができるんだから。
「あっ、神宮寺さん! おはよう!」
待て。全然違う。終わりなんかじゃない。
彼女の登場により、即座に変わる心情。変わる景色。
と同時に瞬く間に思い返される、あの日の出来事。安堵の奥で僕はまた忘れていた。
いや違う、忘れてたんじゃない。ずっと考えないようにしていた、というのが正解か。
「おはようございます」
その声はこの日の青空のように澄んだ声だった。清流のせせらぎのようにむさ苦しい空気は一変。入室した茉莉愛はそこに居るだけで充満した湿度をみるみると浄化させていく。自席にカバンを置き、一人一人丁寧に挨拶を交わす彼女。メガネ越しに映るその後ろ姿を見つめながら、僕は先日の放課後でのやりとりを再び思い出していた。
体育祭が終われど、もう一つ。
重大なミッションがまだ残っているということを。
改めて自覚した途端。胸騒ぎからか自然と背筋がピキンと伸びてしまう。
「あっ……」
猫背から姿勢を正した、ちょうど同じタイミングで。起き上がった動作に反応するように、予期せぬ視線と微細なさえずりのような一言が真正面から僕を射抜いた。
近づく足音。速度が早い。けれどもそれは、先日の時と同じ耳馴染みのあるリズムで。
「おはようございます、奏汰くん」
周りの目など一切気にも留めず、彼女はスカートを閃かせ自席へと駆けて来た。
「あ、ああ……おはよう」
これでも精一杯平静を装ったつもりだったが、あえなく玉砕。ほぼゼロ距離から放たれた純粋無垢なその笑顔に、僕は挙動不審全開で言葉を返すに終わった。
「それでその、奏汰くん」
「先日の件、なのですが……」
間髪入れず、早速だった。
つぶらな瞳の奥に灯った期待の炎。その矛先は僕「個人」に対してではなく、あくまで放課後に交わした「あの約束」に向けて。
「ああ……。ええっと……じつはまだ、聞けてなくて」
「そう、ですか」
「ごめん……」
「いえ、そんな気にしないで下さい。こちらも突然すぎたというか……」
互いに表情が曇り、思いがけず沈黙が生まれる。ただただ逡巡するばかりの僕に対し、机の前で立ち尽くしたままの茉莉愛。見上げた彼女の頬は微かに赤みを帯びていた。
「ねえねえ神宮寺さん。って……」
「ん、あれ?」
「神宮寺さん?」
遠巻きから連続で放たれる友の声。どうやら話の途中だったらしい。茉莉愛と仲の良い佳奈たち女子三人が「あれ?」「どうしたの?」「何でヒラカタの所に?」といった含みを持たせる呼び声を、彼女に向け絶えず繰り返しているのが聞こえてきた。
「奏汰くん――」
「え?」
「それじゃあ、またね」
わかるかわからないかの絶妙な塩梅で小さく右手を振り、思わず目を閉じ深呼吸したくなるほどのシャンプーの残り香を置いて茉莉愛は自席から遠ざかっていった。
相変わらずの聖女ムーブ。「またね」って……。
短いその三文字に込められた意味は、彼女との交流がこの先も約束されているということ。強まる焦燥と共に、どこか終わりが来てほしくない……なんて。そう思ってしまっている自分もいて。少し照れ臭そうに戻っていくその横顔が、ずっと焼き付いて離れない。
――あれは。
真っ赤な嘘、なのに。
「ソウタ……くん?」
だが、物思いにふける間も無く。
「奏汰くんだと?」
「おい、聞いたか?」
「先日の件って何だ?」
事態は一変。つい今しがた彼女が発したのと同じセリフが鈍く図太い声色へ姿形を変え、後方から大合唱のごとくこだまし始めた。
まずい。突如として怪しくなる雲行き。暗転する視界に映る、無数の影の気配。
茉莉愛とのやりとり、その一部始終を目にしていたであろう男子たちの視線を
外は快晴。けれど僕の半径二メートルの広範囲には黒々とした積乱雲が堆積し始める。単なる恐怖とは違い、それは沸々とした嫉妬に塗れた、狂気のような。
「キーンコーン、カーンコーン」
助かった。グッドタイミングだった。
始まりを告げるチャイムが暗雲を切り裂き、日誌を持った担任教師が入室して来た。
あと三秒……いや、一秒でも遅かったらヤバかった。危機一髪。どうにか難を逃れた。
トラウマである体育祭が終わったはいいが……新たな試練が早くも。もう、帰りたい。
結果、その日からの学校生活――僕は既に予感していた。
あの校訓はきっと、水泡に帰す。
これまでみたく、学校ではもう。
凪のように過ごす事は叶わなくなる、ということを。
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