第2話 ただ一つだった想い
清次郎が去って、蒼緒はますます山に入り浸るようになった。
時折、遠慮がちに父が進める縁談を断って、家に居着いた。幸か不幸か蒼緒には、馬を育てる才能があったのだ。
早咲谷の
清次郎との仲を、口にするものはいなかった。蒼緒も全く口にしない。だがあの晩のことを、忘れたことはなかった。
もしもっと早く自分が、清次郎の気持ちに応えていたなら。今頃どうなっていたか。そんなことを、折に触れて、たびたび思いに耽った。
誘っておきながら、勝手に諦めて帰った清次郎を
鎌倉の勤番の様子は、全く聞こえてこない。
御所を守る若い
清次郎とはあれきりで、文をかわす約束すらしていない。蒼緒に出来るのはただ日々を故郷で費やすだけだった。いつか、清次郎は帰ってくるだろう。それまで変わらない蒼緒でいるのが、あの晩のことをやり直すためにすべきことだと、彼女は勝手に思っていた。
しかしやがて、清次郎の思わぬ評判が扇山の者たちの
扇山殿は密かに、清次郎を呼び戻すことにしたらしい。
表向きは急病、だが鎌倉からは沙汰を待つ身だ。首を送れといつ言われてもおかしくない。清次郎の武士としての前途は、完全に閉ざされてしまった。
そして事態はさらにとんでもない方向へ動いた。その清次郎が、さらなる大事件を起こして家を出たのだった。
あろうことか、あの
「御家の恥さらしめ」
長兄は、護送されてきた清次郎を庭で成敗しようとしたのだと言う。すらりと、長刀を抜いた瞬間だ。懐に
蒼緒も山狩りに、駆り出された。今や何もかもが、思いもよらぬことになってしまった。時の移ろいの残酷さを蒼緒は、思い知らされるばかりだった。
(本当はお互い変わらぬように、わたしたちは生きたかったのかも知れない)
と、蒼緒は思った。
しかし年月が押しつけてくる役割に抗うことは出来ない。何もかもが移ろう。なのに、なお自分たちは青い。いつまでも、青い。それは自分たちが置き去りにしてきたものがあるからだ。
山道を歩きながら、蒼緒は考え続けた。結局、自分たちはいつも、答えを出さずに生きてきてしまった。いつまでも青い自分にいらだちともどかしさを感じながらも、その居心地の良さに甘えて、その都度、出すべきだった結論を先送りにしてしまっていたのだ。
(わたしも、清次郎もあの夜だったんだ)
おのれの青さを、蒼緒は悔やんでも悔やみきれない。もしかしたら、清次郎も同じ気持ちでいたんだろうか。
もしあのとき、お互いが少しずつ、相手の気持ちを
少なくともお互いが、お互いで在りながら、心安らかに、暮らせたのではないか。
(わたしたちは本当に馬鹿だ)
何度思い返しても、あの夜のことが悔やまれた。
「蒼緒、お前の言う通りだな。長い刀も強い弓も様子のいい女も、おれには必要なかった」
と、清次郎は言った。そんな清次郎は、これまでで一番、蒼緒が出逢いたかった清次郎に戻っていた。
「よくここが分かったな」
「長兄どのの、馬を奪ったと聞いたから」
蒼緒は応えた。
扇山の長兄の黒鹿毛は、蒼緒が養っていたものだ。それを山に放てば、十中八九この辺りの水呑み場で足を停めるだろうと思ったのだ。心当たりの沢はいくつかあるが蒼緒の読みは、寸分の狂いもなかった。
「さすが蒼緒だな。馬のことは、何でも分かっている」
「わたしが他に何の役に立つ?」
と、蒼緒は聞き返したが、答えはなかった。
都へ行っていた清次郎は、知る由もないだろう。蒼緒が択んだ生き方を。
清次郎以外の男と添い遂げることも考えず、かといって清次郎を追うこともなく、大好きな馬を育てて売ることを生きる道と決め込んでいた、今の自分を。
「でも蒼緒らしい、生き方をしている。おれは今のお前が羨ましい」
「そんなことっ……!」
と、蒼緒は声を詰まらせた。
そんなことはない、と言おうとしたのか、そんなことはどうでもいいのだ、と言ってやろうと思ったのか。自分でも答えが出なかった。
続く清次郎の言葉に、蒼緒の声は呑み込まれてしまったからだ。
「おれは、何者にもなれなかった」
清次郎の力ない声が、何故かはっきりと蒼緒の胸へ響いた。
「鎌倉では三人張りの弓を引くものが、ざらにいた。馬でも刀でも組み打ちでも、競えば必ず一番強いものがいた。だが別に、蒼緒くらいの弓があれば食えるだけの獲物をとるには十分じゃないか」
「何者かに、なろうとするのは辛いよな」
とだけしか、蒼緒は言えなかった。
「ああ、辛かったな」
冴えきった星空を見上げながら、清次郎は素直に応えた。
「でも蒼緒だって、この里で自分のままを貫いて生きていこうとするのは、大変だったんじゃないのか?」
蒼緒は思わず、息を呑んだ。そう問うた清次郎が、優しく微笑んでいたからだ。
「わたしも、辛いよ」
と、蒼緒は答えた。ようやく、声を出していた。泣きそうになってしまった。
こんなに離れていても、自分たちはとっくに、お互いのことなど、よく分かり合っていたじゃないか。だったらどうして、あの時、最後の一歩を歩み寄れなかったのだろう。今、互いに寄り添って幸せに生きていられないのだろう。
いや、今からでもなにがしかのやり直しは聞くのではないか。様々な気持ちが蒼緒の中を一気に駆け巡った。
「清次郎……わたしは」
お前と今、一緒に逃げてもいい。清次郎を殺す追手になるなんて真っ平だ。今の暮らしのすべてを捨ててもいい。このまま、どこまでも添い遂げたい。あの夜の契りを、今度こそ乗り越えて。その言葉が、あと一歩。もう少しの勇気で出たはずだった。
「蒼緒、おれはお前を殺して逃げるぞ」
しかし、その前に返ってきた清次郎の答えは、無慈悲なものだった。
「もう、ここにおれの居場所はない。蒼緒、お前と違ってな。こうなったらこのまま、どこまでも落ちきって生き延びてやる。野盗でもなんでもしてな。ここでお前を殺しちまえば、そのふんぎりもつく」
馬上、清次郎は矢をつがえた。ぐるぐる輪乗りして、追手の蒼緒の馬に絡みつく。その矢じりは紛れもなく、蒼緒を狙っていた。
「やめよう、清次郎」
そこで蒼緒も、半弓を構えるしかなかった。清次郎を止めなくては。
二つの馬体が交錯する速度を上げていく。お互いがお互いの矢頃を計りながら、急所をはずし合う。冷たい川瀬に硬い蹄の音と、
「せめておれの手でっ……死ね蒼緒っ!」
清次郎が矢を放つ瞬間、蒼緒もまた、放っていた。清次郎は、こちらの左胸に放ってきた。蒼緒はそれに呼応しただけだ。自分がどこを狙ったのか分からなかった。
ただ自分は、死んだと思った。
清次郎の矢が、心臓を刺し貫いて背まで矢じりが抜ける感触まで想像できた。
しかしだ。
痛みも、出血の熱さも、死の揺らぎも、蒼緒を待ってはいなかったのだ。
「見事だ、蒼緒っ」
叫ぶなり、清次郎が落馬した。蒼緒は急いで駆け寄った。今の一合、完全に負けたと思ったのに。胸を射抜かれたのは、清次郎だったのだ。
清次郎は具足をつけていなかった。矢は見事に左胸を貫通し、矢じりが背に抜けていたのだった。
「何故だ清次郎っ!」
抱き起こした蒼緒の顔は、涙で濡れていた。駆け寄ってみて、愕然とした。
そこへ放り出された清次郎の弓。弦が外されていた。射るふりをしたのだ。清次郎は蒼緒を殺すと脅しておいて、騎射の瞬間、自ら弓弦を外していたのだった。蒼緒が勝つはずだ。清次郎の思惑は、口にしていたことと真逆だったのだ。
「今の、お前を、
と、清次郎は言った。
「達者で暮らせ蒼緒……」
息を引く、終わりの言葉は長くはなかった。
「清次郎……」
一人、川瀬に取り残された蒼緒の涙を止める術を、何物も持たなかった。
また、取り残されてしまった。清次郎に語るはずだったこれまでの自分。言い残した言葉。話すはずだった気持ち。何も言葉にならない。
色とりどりの感情が、抑えても抑えてもこみ上げてくる想いが、この胸へぶつかってきては、なす術もなく駆けすぎていく。
(まだ、わたしは青いんだ)
と蒼緒は思った。青いからだ。清次郎はもう、何者かになって死んだ。自分は、どうする。もしいつか、迷いなく生きていく何者かになれたのなら、この感情も言葉も不自由ではなくなると言うのだろうか。そんな日が本当に、やって来るんだろうか。
蒼緒はひとり、泣き続けた。それしか今、出来ることはなかった。入り乱れる感情の色を、無数に乱れる想いの色を、蒼緒は捉えようとすることをやめた。もう何もかも、泣くことで一色に塗りつぶしてしまいたかった。
すっかり血の気を喪った清次郎の顔を、冴え渡った月明かりが青々と照らし続けていた。
(初出:ひだまり童話館4『あおい話』2022.11.20)
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