橋本ちかげ短篇集【歴史、時代物】

橋本ちかげ

第1話 青すぎる二人

 その朝、自分の仕掛け矢で、狸が死んでいるのを見た。


 蒼緒あおはしばらく、目を見張っていた。


 狸は藪の中を巧みに移動する生き物だ。人里でも平気で隠れ住む。稲田の青穂を動いて、音もなく人目を盗んで餌を探すのだ。こんな罠にかかるような獲物ではない。


(もうけた)


 と、思いながらも蒼緒は、狸を仕留めた幸運をどこか喜べなかった。いつも起きないことは異変で、異変には、望ましからぬ理由が必ずあるからだ。


 そう言えば先日も、山すその動物たちがこちらへ多く紛れ込んできた。


 焼き討ちがあったのである。


 下界を支配する坂東武者ばんどうむしゃたちの気性は荒く、その所業はえげつない。今年の作物の物成りが悪いと言えば腹いせに他人の荘園へ押し入り、農家へ火を放ち、容赦なく青田を焼くのである。


 蒼緒の好きな野蒜のびるが生える丘も、丸焼けになってしまった。


 夏の湿る雨が降ると野蒜は一面鮮やかな若草色を艶めかせて、甘辛い匂いを漂わせる。


 朝露に濡れたまま蒼緒はそれを摘んでおき、酢味噌をつけてかじったり、栗鼠や兎と言った動物の肉と煮て食べるのが大好きだったのだが、無粋な侍たちのお陰で楽しみが台無しになってしまった。


(侍はきらい)


 と、蒼緒は常々思っていたが、うかつには口に出せない。


 侍が嫌いな蒼緒が、侍をきらい、と言い切れないのは、一人の友を待っているからだ。扇山の清次郎だけは、蒼緒の唯一の友だった。


 扇山は陽当たりの良い山あいの土地で、蒼緒の家が領する早咲谷ささきだにとは、そこへ代々屋敷を構える清次郎の家は『扇山殿おうぎやまどの』と呼ばれ敬われていた。


 地頭の息である清次郎は、それは美々しい出で立ちで、狩倉に現れた。蒼緒の父はいつも、扇山殿が催す鷹野たかのの案内を任されていたのだ。


 青い狩衣かりぎぬに腹巻き、むかばきをつけ、藍の柄巻をしめた太刀を佩いている清次郎は、誰からみても清げな若武者に見えた。腰のえびらから矢を引き抜き、馬上、長弓につがえる立ち姿は美々しかった。


 それは明け方の空を見上げて、すっくと葦原に立つときの朱色あけいろ鶴首つるくびを思わせた。


 権高な印象がある他の兄弟たちと比べ、清次郎は蒼緒にすぐ慣れ親しんだ。清次郎は身分にこだわらない素直な性格で、自分に嘘をつかない蒼緒の振る舞いが清々しいようだった。


 ある秋口の鷹野で、扇山の長兄の流れ矢が蒼緒を射損なった。獲物を探して深入りした猟犬を探して、蒼緒はまだ猪が忍ぶかも知れぬ藪に入り込んでいたのである。


 征矢に首筋をかすられて傷は浅いものの、娘の肌は破れ、首は血まみれになった。


「小娘がしゃしゃり出るからよ」


 扇山の長兄は鼻を鳴らした。この若い領主の嫡男はとにかく、謝りたくなかったのだ。


 何につけ、人の風下に立てば、武士として侮られる。たとえおのれに非があろうとそれと認めないのが坂東武者の本懐だと言うのが、その言い分だった。


「おれもあの兄はきらいだ」

 きっぱりと言って、蒼緒の傷を見舞いに来たのが、清次郎と話す馴れ初めだった。

「長兄は何かにつけて、人の頭を押さえつけようとする」


 長兄が威張るのにも、理由がある。


 嫡男として扇山殿の名を継ぎたい長兄には、いずれ同格の力を持つことになる弟たちを今のうちに、家来同然にしつけなくてはならないと思い込んでいるようなのだ。


 またそれだけではない。とにかく何かにつけて、人を屈服させようと考える兄は、扇山の者たちすべてに、あのように上から振る舞うのだと言う。


「おれはさむらいがいやだ、蒼緒」

 清次郎はいつも、それだけは、はっきりと言うのだった。

「少なくとも、おれは兄のようにはなりたくない。だが、そのためにはどうやって生きたら、いいんだろう。それがいつも分からないんだ……」


 出だしは語気強く、兄を罵るものの、最後には決まって清次郎は、気弱にそうつぶやくのだった。


「おれはどうやって生きよう?」


 同じ年の蒼緒に、その問いかけの答えを与える術はない。だから蒼緒は、常々思っていることを言った。


「清次郎は、清次郎で良いではないのか」


 田畔に立つ鶴が見惚れるほど美しくても、鳥は鳥であるように。清次郎は清次郎であればいいのではないか。


「そうか。……やはり、そうなのだろうな」


 蒼緒のなんの企みのない答えに、清次郎は素直にうなずくものの、いつもどこか心残りのある顔になるのだった。



 それが蒼緒にとっては不思議だった。清次郎が清次郎でいることになんの疑問があるのだろうか。


 侍になると言うのは、今の清次郎のままではどうして無理なのだろうか。


 矢を射る清次郎が、蒼緒は好きだった。鷹羽の矢をつがえ、大人の猟師も引けぬような剛弓を、清次郎は軽々とその胸前むねまえで引ききる。


 ほっそりとした身体つきに見えるのに、足腰や腕の力はやはり、女の蒼緒とは違うのだ。自作した狩猟用の半弓を使う蒼緒のそれとは、弓勢ゆんぜい矢頃やごろ (威力と飛距離のこと)も違った。


「蒼緒は、狸や野鴨を射るのだ。だからそれで十分だろう。おれを羨ましがることなんて何もないじゃないか。それより狙いが正確だ。おれにとってはそちらのが羨ましい」

 と、清次郎はよく、山歩きをしながら蒼緒に言ったものだった。

「それに侍の矢は、堅物かたもの (鎧や兜)を射抜くものだ。遺体の矢傷を勘定して、武功を稼ぐ。蒼緒のように、山歩きをしていた方が気楽でいい」

 清次郎は、蒼緒にいつまでも、そうしていて欲しいと言うようなことをたまに口にする。つまりはお互いがお互い、ありのままでいて欲しいと言い合っているのだった。


(でもわたしだって、どうやって生きていけばいいか分からないのだ)


 蒼緒も清次郎にありのままで良いと言われる度に、戸惑いを覚える。だが蒼緒のそれは、ちくりと胸が痛む何か嫌な感じであった。



「蒼緒には想う人はいないのか」


 清次郎に真っ向、尋ねられたことがある。蒼緒は返事をしなかった。わざと顔を背けた。


 もしそのとき。蒼緒がそれは清次郎お前だと言ったのなら。それで二人の人生は変わったかも知れない。


 しかしそのとき蒼緒が聞かぬふりをしたのは、何よりそれで、にわかに気持ちが色づいた自分が恥ずかしかったからである。


 それでなくても清次郎といると、何だか息苦しくなる瞬間が増えていたのだ。


 誰であれ、身も心も、子供のままでいられるはずがない。乳母から教わらずとも、蒼緒は自分が変わっていくことに気づいていた。今やもう清次郎とすれ違うだけで、顔に血の気が上ってくる。


 薄くてしなやかな筋肉で出来ていた子供の頃と違い、熟してきた身体の女の部分は腫れぼったく重たい。蒼緒はうっとうしささえ感じていた。


 このもやもやした、甘ったるい重さが、これまでの清次郎との関係を脅かしているのだと。


 早咲谷の父も、年頃になってきた二人が連れ立って山へ行くのを好まぬ風を乳母に漏らしている。扇山殿と、それぞれの思惑があるのだろう。


 蒼緒は次第に、一人で山へ入るようになった。清次郎といない方が、夏の青山は澄み、早瀬の水は冴えて沁みるように清らかに感じられると思った。


 早鐘を打つような胸のときめきや、山の空が荒れる前の薄曇りに似た不穏なもやもやは、蒼緒の山の生業には、足手まといだったのだ。



「少し話がある。たまには二人で、尾根を歩かぬか」


 清次郎が思い切った口調で迫ってきたときも、蒼緒は浮かぬ顔で応えてしまった。


 清次郎は鎌倉へ行くのだ。里の侍衆は幕府から、勤番役の出仕を命じられているらしい。長い都暮らしになる出張は、嫡男ではない兄弟に行かせるのが、扇山殿の考えだった。


「鎌倉へ行くのか」

 と、突き放した口調で蒼緒は問うてしまった。


 清次郎は戸惑った顔をした。しかし、心に決めたことがあるのか、冷たい態度を取られたくらいでは、怯まなかった。


「今宵、明月めいげついおで。……ずっとお前を待っている」


 蒼緒の粗末な麻袖をつかみ、清次郎は耳打ちをした。懸命な声音だった。年頃の男の決意の正体はすぐ判った。要は、この扇山の里を立つ記念に、蒼緒と一夜の契りを結びたいのだった。


 蒼緒は一日中、樹の上で考えていた。その日はずっと、雲がなくて月が蒼く冴えていた。清次郎はもういなくなってしまう。あれは、とても真剣な誘いだった。


 だが勤番に行く武士たちと関係し、不幸になったものもいる。例えば父親のいない子供を託されて、泣いている娘のことも知っている。


 だが、清次郎の想いに応えれば、この身に降り積もった重たいもやもやをどうにかする道も、どうにか見つかるのではないか。


 迷った末に、明け方ごろ、約束した猟師小屋へ蒼緒は足を運んだ。


 この場所で死ぬ想いで引き戸を開けて忍んだが、そこは寝乱れた床が敷かれているだけだった。


 蒼緒に袖にされたと思い込んで、とっくに彼は庵を立ち去って行ったのだった。




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