ANIMA CHAIN

@RaONe

第1話 記憶喪失の少女

 ──ふわふわする。

 体が浮いたり沈んだり、どこか深い海の底にいるみたい。

 水面から差し込む光が揺らぎ、その光が肌に触れるたび、冷たいはずなのに胸の奥だけがじんわり温かくなる。

 もし、このまま沈んでいけるなら……それも悪くない。

 そんな甘い誘惑に体を預けかけた瞬間──。


『まだ眠るには早いぞ。』


 声がした。

 男でも女でもない、不思議な響き。

 耳ではなく“心”の奥底に直接触れてくるような声。懐かしいようで、でも知らない音色。

 誰……?


『お主の片割れのようなものじゃよ。近いうちに、また会うじゃろうて。』


 片割れ──。

 その言葉の響きに、胸の奥で何かが跳ねた。

 心臓よりももっと深いところ、“魂”が触れられたみたいにざわめく。


 その正体に手を伸ばした瞬間、声はふっと遠ざかる。


『今はお主を呼んでおる者が居る様なのでな。行ってやれ。』


 呼ばれてる……?

 ──誰が?


「──目を開けて! 大丈夫!? お願い、目を開けて!!」


 聞こえる。

 必死で、震えてて、だけどとても温かい声。

 あ……ほんとだ。呼ばれてる……。


『この縁がお主にとって良いものとなることを祈ろう。』


 うん……ありがとう。


『あぁ、また会おうぞ。』


 その声を最後に、私は光の中へ堕ちていった。


───────────────────


 視界がぼやける。

 輪郭がにじみ、世界がゆっくり現実の形に戻っていく。

 湿った空気。

 錆びた金属の匂い。

 頬には、冷たいコンクリートの硬さ。

 ──ここは、どこ?


「あ、気が付いた!? よかったぁ!!」


 耳に飛び込んできたのは、さっきとは違う、明るく弾む声。

 顔を向けると、猫耳を生やした少女が覗き込んでいた。


 黒髪に黄色のメッシュ。

 琥珀色の瞳がきらきらしていて、夜明け前の街灯が彼女をふわっと照らしている。


「……ここどこ?」

「ここは“人間界”だよ!って言っても、今のルカにはわからないかもだけど!」


 人間界?

 私、人間……のはず。

 そう思った瞬間、頭の奥で何かが軋む。


 ギギギ……ッ


 記憶の扉を無理やり開けようとするような痛み。

 世界が割れ、足場が崩れる。


「大丈夫!? ちょっと! しっかりして!!」

根古叉ねこまた! さっきの奴は!?」

「気が付いたけど、様子がヤバいって!」


 喧噪が遠い。

 視界がゆらぎ、音が水に沈んでいくみたいにぼやける。


 ……ルカ。


 その名前だけが、暗い霧の中でぽつんと浮かんだ。


「ルカ……? 名前なのかな?」

「なら、ひとまずお前のことをルカと呼ばせてもらう。それでいいか?」


 声の主──藍色の髪の青年。

 義手の金属が光を反射し、冷静な瞳は氷みたいに澄んでいた。


「よろしくねルカ! 私は根古叉月葉つきは! 月葉って呼んで!」

「イソトマだ。」


 二人とも不思議で、奇妙で──でも、不思議と温かい。

 闇の中に差す灯りみたいに思えた。


「よろしくね、ルカ。」

「うん。こちらこそ。」


 一歩踏み出した瞬間──。


 背筋を焼く悪寒が走った。

 空気が腐り、世界が歪む。


 反射的に振り返る。


 路地裏から、“黒い瘴気”が吹き出していた。

 煙のようで煙じゃない。

 生き物の気配を持つ、怨念の嵐。


「走れ!!」

「ルカ、こっち!!」


 声に引かれ、私は物陰に飛び込む。


 ──そしてそれは姿を現した。


 黒光りする装甲。

 爛々と光る紅い眼。

 牙から滴る黒い液体が、じゅう……と音を立てて地面を溶かす。


 形をしているのは狼。

 けれど、その“静けさ”が異常だった。

 生物というより、“怨念の塊”が獣の形を取ったみたいな。


───────────────────


「ルカは逃したけど……どうする?」

「やるしかないだろ。」


 イソトマの義肢が蒸気を噴き上げる。

 ギアが回転し、彼の身体が一瞬で加速した。


「──【ギアスチーム・一速】!」


 地面が爆ぜる。

 彼の拳が黒い獣の顎を打ち抜き、衝撃波が広場を裂く。

 装甲が砕け、黒い液体が飛び散った。


「根古叉、今だ!」

「了解っ!──【ホーク・ショット】!」


 月葉のスナイパーライフルが夜空で紅く閃く。

 弾丸が獣の心臓を貫き、内部で炸裂。


「これで終わり!」

「いや、まだだ!」


 イソトマの追撃が入る。

 月葉の弾丸がその動きを補うように背後を狙い続ける。

 戦場なのに、ふたりの呼吸はまるで踊っているみたいにぴったりだ。


 やがて、イソトマの拳が顎を砕き、月葉の狙撃が心臓を撃ち抜いた。


 黒い獣は沈んだ。


「……すごい。」


 ただ呟くしかなかった。

 恐怖よりも、胸の奥で何かが燃える。

 この力を知っている気がする。

 戦うことが“当たり前”だったような錯覚。


「ルカ! 無事!?」

「うん……なんとか。」


 月葉の笑顔が戦場の緊張を全部洗っていく。

 イソトマは血のついた拳を振り払い、息を整えた。


「アレはANIMAアニマだ。俺たちはそれを──」


 その瞬間だった。


 黒い狼の“腕”が動いた。


「っ──二人とも、離れ──!」


 言い終える前に、吹き飛ばされる。

 コンクリートが迫る。


「ルカッ!!」


 熱。

 鈍い音。

 抱きかかえられた私の目の前で、イソトマの口から血が滲む。


「イソトマ!?」

「……問題ない。」


 全然問題ありそうだった。


「ワオォォォォォォン!!」


 ANIMAが咆哮し、瘴気が暴れ狂う。


「あんたの相手はこっち!!」


 月葉の声が夜を裂く。

 ビルの上から狙撃。紅い弾丸が狼の額を貫くが──再生速度はさっきより速い。


「ルカ! イソトマを安全な場所へ! 私が引きつける!」


 月葉は奴を誘導するように撃ち、ビルからビルへ跳躍する。

 ANIMAはその動きを追い、轟音とともにビル街へ消えていった。


「イソトマ! しっかり!」

「ゴホッ……かすり傷だ。」

 

 どこが!?でも、彼は立ち上がろうとする。

 その姿に、胸が熱くなる。


 ──助けなきゃ。


『そう来なくてはな。』


 あの声が、さっきより鮮明に響く。


『その衝動は、お主の魂そのもの。従うがいい。それがお主を“元の自分”へ戻す。』


 どうすればいいの……?


『名を呼べ。わしの愛刀を貸してやろう。』


 名前──。

 自分の名前すらおぼつかないのに、刀の名前だけが浮かんだ。


『あぁ、使ってやれ。それは今日からお主の刀じゃ。』


「──おいで。紅丸べにまる。」


 胸の奥から、熱が溢れた。

 焼けつくような熱気と、脈打つような鼓動。


 黒い刀身が紅く光り、赤い稲妻が刀身を走る。

 柄は冷たいはずなのに、手に吸い付くように馴染んだ。


 全身に力が満ちる。

 世界の形が違って見える。

 すべてを断てるような、危ういほどの万能感。


「お前……」

『イソトマ。少し待っておれ。すぐ戻るからな。』


 私は刀を握り、歩み出した。

 月葉が戦っているビル群へ──。

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