第8話

 『おばあさんの家』が見えてきた時、どうしてか鼻の奥がつんとした。

 ガルーが『私』を降ろしたのは、食堂の反対にある応接間。

 食堂の半分よりも小さいけれど、カーペットが敷かれている。

 椅子に見えるものも、木目がむき出しだった食堂のベンチとは違って、座面に布が張られている。

 食堂のベンチよりも座り心地は良くて、ちょっと息が零れた。

「ロルフ、ミナの手当をあの無」

「エッ……エスメラルダ、逆、逆! ぼ、ぼぼぼ、僕、ダメ、そんなっ……」

「おや――アタシがいない方が、ミナの疑問んい答えやすいと思ったんだがね」

 からかう音でそう言って、エスメラルダさんはガルーに指示を出す。

 それに頷いて、彼は食堂の方へと歩いていく。

 ――その背中、腰に巻いた毛皮の下で揺れる、灰色の狼の尾。

「……すまなかったね」

「えっ」

「怖かっただろう」

 言いながら、エスメラルダさんが床にしゃがみ込む。

 ガルーに指示を出している間に棚からとってきたらしい瓶。

蓋を開ければ、そこには軟膏のようなものが入っている。

 失礼、と言ってエスメラルダさんが『私』のスカートをめくる。膝が擦り剝けて、血が滲んでいた。

 傷を見たとたん、ずきずきとした痛みが浮かんでくる。

 エスメラルダさんは手早く軟膏を塗って、それから綺麗な布を巻き付けた。

 じくじく、そんな痛みが足から頭に走る。

 ……擦り傷は、こんなに痛いのか。

 浮かんだそれが場違いで、思わず笑ってしまう。

 それを追いかけるように目が熱くなって、スカートにぽつり、ぽつりと雫が落ちる。

「ご……め、なさ……」

「ミナ?」

「あ、わ、『私』……ドア、開けちゃって……お、お、おじさんが……変な人、見た、って」

「……うん」

「す、少しっ……少しでも、力になれたら、って思った、のにっ……」

「ああ、うん」

「……ミナ?」

 エスメラルダさんの相槌に被さったガルーの声。

 怪訝そうな声は、すぐに跳ね上がる。

「えっ、だ、だ、大丈夫!? い、い、痛い? え、え、エスメラルダ、なんか、こう、い、い、痛み止めとかっ」

「お前さんが今持ってきたそれかね」

「アッアッ、じゃあ、あのっ、これっ……」

 足早にやってきたガルーは、手にお盆を持っていた。

 そこに乗ったカップには、暗い赤の液体が入っていた。

 カップを受け取れば、少し温かい。その温度に、息が落ちる。

「そうさね。まずはちょっと温かいものを飲んで、落ち着くと良い」

 苦笑気味のエスメラルダさんの声は、さっきよりもゆっくりだった。

 すっとスカートを戻してくれる、その気遣いが温かい。

 息を吹きかけた赤い液体からは、ブドウと、それからシナモンの匂いがした。

 一口飲めば、複雑な味にまた息が落ちる。

 床に直接腰を下ろしたガルーの、その灰色の耳がふるふると揺れる。

 エスメラルダさんからカップを受け取って、一口。

 好きな味なのか、尾が揺れる。

 まるで犬のようなその動作に、気持ちが緩んでいくのが分かった。

「『魔女』のホットワイン、悪くはないだろう?」

「……美味しい、です」

「うん。僕も、これ好き」

 ガルーの声は、森の中を案内してくれた時の音。

 それにほっとしたはずなのに、また涙が落ちていく。

 ミナ、と焦ったようにガルーが名前を呼ぶ。

 衣擦れの音がして、それから頭に何かが触れた。

 それが掌で、エスメラルダさんが頭を撫でてくれたのだと分かるのにもう一拍。

 その温度に、ホットワインの温度に――暫く、涙は止まらなかった。


 ひとしきり泣いて、少しだけ気持ちはすっきりした気がした。

 その間、『私』よりもずっとガルーが心配そうな顔をしていたのも大きいと思う。

 もう大丈夫、と伝えたけれど、眉尻はまだ下がっていて。

「それを言ったら、僕だって……森の中でマルコと会った時に気付くべきだったんだ」

「血の匂い? でも」

 アーデルハイドさんは首を絞められていたはずだ。

 そう言えば、ガルーの視線が逸れた。その様子に、エスメラルダさんが息を吐く。

「……アイツは余所者だったが、余所者なら警戒すべきだった、ってことだ」

「……どうしてですか?」

「あー……基本的には、生まれた街から出ることはそうそうないんだよ。商人でも、基本は生まれた街に属する。街から追われた連中を『人間狼』なんて呼ぶんだが、その類だったんだろうさ」

 腕を組んで落とすエスメラルダさんに、そういうものか、と思う。

 思い返せば、あのおじさんは去年やってきたのだと、ガルーが言っていた。

 その時はそういうものだ、と思っていたけど。

「アタシもコイツも街に馴染まないから見落としていたんだ。アンタが悪いんじゃないよ」

「……でも」

「むしろ、僕らの方が怖い思いをさせてしまったんだし」

 耳を伏せて、ガルーがそう続ける。

 曰く、魔女狩りで魔女を告発する役割の人だったのではないか。

 それであれば、ある程度街から街へ移動しても違和感はない。

 けれども魔女狩りが行われなくなり、それまで彼に許されていた特権がなくなったのではないか。

 ぽつぽつと落とすその言葉に、なるほど、と思う。

 歴史上の魔女狩りでも、言いがかりで『魔女』だとされた人は多かったという。

 さっきのおじさんの言葉を思い出して、ちょっとだけ背筋が冷える。

「……でも、ガルーが助けてくれたから、平気」

「うん――間に合ってよかった」

 頷いて、それからガルーが笑う。

 ぱたぱた、尾が揺れる。それに本心なんだと分かって、ほっと息が落ちた。

 そこで、思い出す。

「……ガルー、あの……その、耳」

 最後まで告げる前に、耳がぴんと跳ねた。ぶわりと尾が膨らむ。

 見て分かる程――怯えた様子。

「……狼男?」

「ッ――」

 喉の奥で悲鳴が上がる。少し遅れて、こくり、と首が縦に動いた。

 ミナ、とエスメラルダさんが名前を呼ぶ声が聞こえる。

「狼に、なったりできるの?」

「……それはできないかな」

 目を瞬いた後、普通に返された。

 ……流暢に話せるんだから、いつもそうやって話してほしい。

 そんなことが頭に浮かぶのと、エスメラルダさんが吹き出すのは同時。

 くつくつ、笑った彼女は口元に手を当てて、それでもしばらく笑いが収まらないようだった。

「……良かったじゃないか、ロルフ。この子には人狼ガルーなんて名乗らなくてもいいようだ」

「エスメラルダ」

「ガルー、じゃなくて、ロルフが名前でいいんです? やっぱり」

「あぁ。そっちで名乗りな、って言ってるんだが」

「……だって」

 耳を伏せて、もじもじとガルーは――ロルフは言う。

 ぼそぼそと言うところによると、『人間じゃないから』が理由らしい。

 別にいいのに、と、心に浮かんだ言葉は、気付けば口から零れていた。

 ぴんと耳が立つ。

 続いて、ロルフの顔が真っ赤になる。

 顔を覆って、声にならない悲鳴を喉の奥で上げて。

 そのまま床に倒れこんで、転がる様子はテンションの上がった大型犬のよう。

 エスメラルダさんの方を見れば、呆れたように肩を竦める。

「人付き合いが少なかったから、少し大目に見てくれないかい? 気持ち悪いかもしれないが」

「いえ……あの、犬、いや狼だって思えば、割と」

「お前さんも言うねぇ」

 くつくつ笑いながらエスメラルダさんが言う。

 狩人は狼で、狼のような人間がいた。

 ――それでも。

「お互い死なないために協力する、って言ったんで、その。それが守れて、良かったなって」

 そのタイミングで、がばりと、ロルフが体を起こす。

 そうだった、と叫んだのを聞くと――多分、忘れてたんだろう。

 その様子に力が抜けて、それから、お腹の底から笑い声が沸き上がる。

 ふふ、と零れた笑い声に、ロルフの黒い目が丸くなる。

 そうして、聞こえたのは「よかった」の声。

「そうだ――僕も、ミナも死ななかった。それが、一番だ」

 ロルフが『私』に手を差し出す。

 一瞬戸惑ったけれど――思い出したのは、『私』がこの体に入ってすぐのこと。

 お互いに協力しよう、と話した一面のスミレ畑。

 私よりも大きな手。

 その手を取れば、前より少し、強い力で手を握られる。

 火傷しそうなその温度に――あぁ、生きていると、そう思った。

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誰が赤ずきんを殺したか 走馬真人 @sbewis

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