ミスターカンフーデスマッチ〈2〉
マローダーの拳が迫る。覇金グループが作り上げた技術の結晶は、なめらかな動きをともない、夜闇に銀光の軌跡を描く。
処理しないと死ぬ。姫華は頭で分かっていた。
だが、身体が思うように動かない。
奥歯を食いしばる。全ていなすことはできない。腕を顔に寄せ、かろうじて顔面を守った。
姫華の頭は恐怖と焦りでぐちゃぐちゃだった。自分が見渡す限りの場所、病院一帯に巨拳が迫っている。超質量が否応なく着実にゆっくりと落ちてくるのは、死の概念の具現化と言える。
私は死ぬ。
実体を持って死を感じていた。背中に汗の玉がびっしりと浮かぶのを感じた。
「無様に死ぬがいい」
流星の如く、乱打が姫華の身体を撃つ。横腹にマローダーの鉄拳がめり込み、胃の中を戻しそうになる。
「ぬん!」
マローダーが裂帛の気合いを放つ。銀の光線が水平に描かれた。
首を刎ねる手刀だ。姫華が崩れかけたのが幸運となり、頭上を通過した。
雷が落ちるような音がした。
背後にあった大木が軋みながら、ゆっくりと倒れた。
鈍く重い痛みが姫華の全身にじんわりと広がるを
倒れてしまえば終わりだ。歯を食いしばると血の味がした。
「破滅を受け入れるがいい!」
マローダーの眼光による微妙な陰影が、残虐な笑みを錯覚させた。
「俺は恋一郎様から頂いたこのクリニックで、たくさんの奴を救った。それも全部、殺す時のためだ。巨拳が降ってくる時、こんなに救った善人の俺がどうして死ななきゃならない。そう思うほど、力が湧いてくるのさ」
マローダーはこのまま戦えば自分が破滅すると分かっている。だからこそ強いのだ。
待ち受ける破滅を受け入れる。その代わりに、巨拳を降らせるのが塔のチップだった。
「ちくしょう……」
なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
限界が来ていた。脚が震え、姫華はその場に膝をつく。
「残り5分。デスマッチは俺の勝ちだな。カラテチップでいい気になっても高が知れている。覇金の薫陶を受けた精神力に勝てるものはいない」
マローダーの手刀が、姫華の首に触れた。
冷たさに心臓が飛び跳ねる。痛い。許さない。死にたくない。死にたい。感情がとめどなく押し寄せる。
《……はぁ》
脳内で姉がため息をついた。
姫華は昔を思い出した。小さい頃、姫華が駄々をこねたり、泣いたりしていると決まって姉はため息をついた。
《……龍斗くんのナンバーは?》
姫華が推すホストの名前を口にした。
「6……」
まだ入店したばかりで、下から数えた方が早い。
《あなたどうしたいの?》
冷たく突き放したような声だ。昔から変わらないその響きに背中が冷たくなる。姉は嫌いだ。なのに、失望されたくないと、無意識に心の中で思ってしまう自分はもっと嫌いだった。
姫華は深呼吸した。きっと今、馬鹿みたいに情けない顔をしているんだろう。
《30億。取りたくないんだね》
「嫌だ」
姫華は歯を食いしばる。
《龍斗くんが勝つところ、見たくないんだ》
「嫌だ!!!」
龍斗はまだナンバー入りしたことがないし、姫華自身もエースになっていない。夢はまだ叶えていない。龍斗のためにシャンパンタワーをあげ、バースデーイベントでキラキラに輝く伝票で支払うんだ。飾りボトルを何本だって入れてやる。龍斗は白い歯を見せて笑うんだ。隣に座るのはあたしだ。
彼の笑顔を私はまだ見ていない。
それには、お金が必要だ。それもでかい額が。
そう、デカい額。30億円。姫華の頭にリフレインされる。
そういうことか。気づいてしまえばなんてことはない。
「残り4分……」
マローダーが静かに言い渡す。
みしっ……
夜の森に不穏な音がこだました。
5階建ての病院の屋上が、巨拳で潰されたのだ。
「未熟なカラテチップに引導を渡してやる」
マローダーは流れるような動きで手刀を振り上げる。
「死ねッ!!」
手刀は正確に姫華の首を切り落としたはずだった。
しかし、逆にマローダーの視界が衝撃で、ひび割れたように歪んだ。
マローダーは右側頭部への損傷を感知した。姫華を見ると、左拳をあげたまま硬直していた。首はつながったままだ。
「なるほど……」
マローダーは状況を把握した。
姫華の首に、マローダーの手刀は当たっていた。姫華は瞬間に左フックを撃ち、自身の攻撃の勢いに変えていたのだ。
信じがたいが、それしか答えはなかった。
運命の歯車の回転が軋みはじめた。
「ぬぅっ」
マローダーの鋼の両脚がたたらを踏んだ。
「この短期間で……何をした如月姫華……!」
姫華はまっすぐマローダーを見た。
「私、気づいちゃった」
追い詰められたストレスで、姫華が思い出したのは去年の記憶だった。
龍斗の前に、別の店に姫華の担当はいた。
その時の担当は席についても一度も話してくれなかった。煌びやかな王子様を絵本からそのまま出したような容姿だった。
姫華が缶酎ハイを注文する。すると2秒だけ彼と目が合った。彼と2分話すためには、20万のシャンパンを入れる必要があった。
気がつけばその月の売掛は500万を超えていた。払えなければ彼に会うことは二度とできなくなる。
常に刃物が首筋に突きつけられている気分だった。日を追うごとに担当のLINEは冷え、店に行っても舌打ちされる始末だった。期待を裏切る自分は存在しちゃいけない。希死念慮が脳裏にずっと付き纏っていた。
「死ぬ気で稼いで、担当に返したあの吐きそうな緊張に比べればいけるよ……!」
姫華は空を見上げる。もう怖くなかった。
巨大な拳は、星空に完全に蓋をしていた。奥行きのない平坦な天井が、目と鼻の先にあった。
「この地獄は生ぬるい」
動けずにいるマローダーを、姫華が覗き込んだ。
「自棄になったか……」
マローダーは震えていた。
マローダーを見たまま、姫華は哄笑した。姫華の顔とマローダーの顔の距離が縮まる。機械頭の強化レンズが、姫華の息で曇った。
マローダーの目には、それが闘気と錯覚させた。極限状態に映る白靄は、破滅の色に思えてならなかった。
「こんなものは幻に過ぎない……!」
振り払うように、マローダーが動く。掌底を打ち込んだ時には遅かった。
姫華は腰を捻り、右拳を放つ。マローダーの腹部の金属がバキリと鳴った。
さらに姫華は左足を踏み込み、左拳を放つ。順突きの二連打により、腹部の板金が完全に破壊された。がくがくとマローダーの震えが激しくなった。
姫華が拳を引き抜くと断線したケーブルたちがスパークした。
《やるね。行こう》
姉の声に起伏はない。当然そうなるだろうという響きさえあった。
姫華は白衣の胸元を探り、スマホを抜き出した。
「もらってくよ」
姫華は踵を返して駆け出した。
背後で爆発音がした。駐車場までは目と鼻の先だ。巨拳の影は濃さを増している。バイクのテールランプを頼りに走った。
巨拳はすでにクリニックの3階を破壊し始めていた。窓ガラスが砕ける音が警告音のように響いた。ぼろぼろとコンクリート片が落ちてくる。
マローダーの死の影響か。拳のスピードは速くなっていた。
「待って、あたし免許もってない!」
《任せて》
姫華はバイクにまたがる。姉の言うまま、操作するとマフラーがドゥルンと声をあげた。考えるより先に、姉の指示を反射的に遂行する。
《何もかもぶっちぎって》
アクセルを全開にする。ヘッドライトが照らす先をひたすら走り抜ける。
森の中で立て続けに爆発音がした。
背の高い木々が潰されているのだ。死が近づいている。自分の顔に笑みが広がるのがわかった。面白くて仕方がない。
危険なサインだった。売掛と一緒だ。ひりつく時間は過ぎれば過ぎるほど、脳は現実を受け入れようとしなくなる。
《本当に死んじゃうよ》
「バカ! こんなんで死んだらあたしはもういないよ!」
土煙をバイクがかき分ける。マフラーの轟音が耳を聾する。見上げるまでもない。巨拳との距離は頭上3メートルほどしかなかった。
崖が多い。あちらこちらにある落石注意の標識を振り切っていく。いくつもカーブが続いた。姉の手を借りながら、姫華はハンドルを捌いていく。
馬鹿野郎。あたしは生き残るんだ。
「ねぇ、カラテチップは死なないんだよね」
返答がどうかは関係ない。
一か八かだった。姉の言葉を聞く前に、ガードレールに突っ込んでいた。スピードは十分。アクセルを更に振り絞り、エンジンが呼応する。
歯を食いしばった。衝撃とともにガードレールをぶち破った。
ショートカットだ。蛇行した道路の崖を飛ぶことで一気に距離を稼ぐ天才的なプラン。
飛び上がると、拳に頭を擦りそうになるほど近づいた。姫華は首を下げる。
時間がゆっくりと進んでいく。下から冷たい風が吹き上がる。川が流れているのか。ずっと見ていれば、吸い込まれそうな闇だった。姫華は抗うようにハンドルを握った。青白い光が針葉樹を半分だけ照らしている。
鉄の塊が死の境界線を越える。
姫華の頭上に夜空が帰ってきた。
タイヤが地面に触れ、着地する。サスペンションから、突き上げるような衝撃が伝わった。姫華は放り出されないようにハンドルを握った。
目の前に土砂崩れ防止用のスチールフェンスが迫ってきた。ハンドルをずらし、ブレーキをかける。
タイヤが擦れた。マフラーが擦れ、アスファルトに火花のラインを描いた。ギャリギャリとバイクが悲鳴をあげる。ぶつかるギリギリで減速する。数センチの隙間を空けてバイクは止まった。
姫華が振り返ると、巨拳は消えていた。起伏のあった山は均一にならされていた。三角形の図形が無理矢理、台形に変えられてしまった不自然な景色だ。じんわりと汗が背中に浮いた。現実に死が迫っていたと思うと、生の実感が湧いた。
目を凝らしても人影はどこにもいなかった。
《マローダーは追ってきていない》
「そう」
マローダーは、理想を現実に結ぶ力をカンフーと言った。だが、巨拳はもうない。
あいつの理想はあたし以下だったんだ!
そう思うと心がスッとした。
岩雪崩が起きる音が遠ざかっていく。鳥たちが狂ったようにめちゃくちゃな方向に飛んでいった。
残ったのは静寂だ。
姫華が飛んできたガードレールは土煙で見えない。病院は跡形もなく、すり潰されたのは間違いなかった。
姫華は病院着で顔を拭う。土煙と血でぐずぐずに汚れた。
「死ぬかと思った?」
姉は黙っていた。しばらくして《全然》とだけ言った。絶対にビビってる。生きてる内に見なかったリアクションに姫華は笑いが込み上げた。
風が冷たく吹きつける。身体の冷たさを誤魔化すために手を擦り、ハンドルを握る。
ふたたび、姫華はバイクを走らせる。紫陽花色の病院着がはためく。
満月は変わらず輝いていた。
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