第3話
音声が終わり、静寂が部屋に満ちた。亮は深い息を吐き出した。
「誰にでも一番変えやすい波動...か」
亮は椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。
窓から見える街灯の光も、すべて波動なのだと思うと、夜の街並みが、いつもと少し違って見える。
ベッドに横たわっても、亮の頭から波動という言葉は離れなかった。
子供の頃、祖母が味噌を仕込みながら「心を込めると美味しくなるんよ」と話してくれたのを思い出す。
あの頃は単なる気持ちの問題だと思っていたが、もしかしたら...。
翌朝、目覚めた瞬間から、亮の意識は波動に向かっていた。
歯を磨きながら鏡を見つめる。
「自分の波動って、今どんな状態なんだろう?」
通勤電車の中、いつもなら携帯画面を見ているはずが、今日は周りの人々を観察していた。笑顔で会話する高校生たち。眉間にしわを寄せるサラリーマン。みんな違う波動を発しているように感じる。
「もしかしたら、自分の気分の良し悪しも波動なのかもしれない」
そう考えた瞬間、電車が揺れ、隣に立っていた若い女性が向こうから押されて顔をしかめる。
亮は自分の前にいた小柄な老婦人を気遣ってスペースを開けると、老婦人はありがとう、というように軽く会釈して亮に微笑みかける。思わず亮も笑顔を返す。
「こんなことも一つ一つ、波動が行き交っているということなのか…」
オフィスに着くと、部下の田中響子が心なしかいつも以上に明るい表情で挨拶してくる。
響子とは2ヶ月ほど前から、単に上司と部下の関係ではなくなっていた。
お盆休みに入る前、課内のムードメーカーである佐藤光雄の
「帰省しない独身組でバーベキューでもやりませんか?」
との提案で、課内の数人が海に集まった。
その時、いつになくはしゃいで酔っ払ってしまった響子を、同じ方向に帰る亮が送っていくことになった。帰りの電車の中、
「木村課長とこんなふうに2人でお話できると思わなかったなぁ」
とずっと上機嫌で喋り続けていた響子に、別れ際
「実は私、木村課長にずっと憧れてたんです」
と半ば告白され、酔った勢いもあったのか、結局その夜を一緒に過ごすことになったのだった。
しかし、3年前の離婚に至るまでの綾子との関係性の変化や、それに関連して起きた諸々の出来事にまつわる辛い思いが心の奥底に澱のように残っている亮は、まだ一人の女性としっかりと向き合って関係を創っていける気がせず、その後響子とは微妙な距離を保ったままだった。
なので、昨日までの自分なら、なんとなく視線をそらして答えていたなと気づく。
でも今日は違った。
笑顔を向けて「おはよう」と返すと、響子はほんの一瞬驚いたような表情になった後、
「今日はいい天気で気持ちいいですね!」
と笑顔で答える。
「そうだね」
自分の笑顔はちょっとぎごちなかったかもしれないが、「週末は晴れたらどこかに出かけるかな」と独り言のように呟くと、それを耳にした響子の笑顔がさらに広がる。
亮は自分の中に小さな変化を感じていた。
午前中の会議。普段なら退屈で仕方なかったはずが、今日は皆の表情や発言の一つ一つが意味を持つように感じる。
皆それぞれ今思っていること、置かれた状況で、言葉にはならない波動を放っているのかもしれない、そう思うと、相手の言葉以外のものも受け取ろうとする自分がいた。
昼休み、カフェテリアで食事をしながら、亮は窓の外を眺めていた。秋の柔らかな日差しが木々を照らし、葉が風に揺れている。
「天気も、木々の葉も、風も光もすべて波動か。でも、そんなもの、望む状態に変えようがないじゃないか?」
午後、難航していたプロジェクトの会議。いつもなら苛立ちを感じながらも、あえて発言は控えるような場面で、亮は深呼吸をして軽く手を挙げる。
「すみません、ちょっといいですか?」
自分でも驚いたが、亮の発言に、会議室の空気が変わった。
一石を投じる、という言葉の通り、亮から波紋が広がるのが見えるかのようだった。
「これもまさに波動だな…」
議論が再び動き出す。
帰り道、亮は知らず知らずのうちに普段より歩くペースを緩めていた。
行き交う人々、店頭のディスプレイ、道路を走る車。
いつも見慣れて普段は何も感じなかった無機質な景色が、すべて波動を発して複雑に蠢いているように感じる。
もちろん、街の何かが変わったわけではない。変わったのは自分だ。
「そうか。誰にでも一番変えやすい波動...。それはきっと、自分自身の波動なんだ」
家に帰り着いた亮は、ソファに座ってビールの缶を開け、スマホを取り出す。
また会社のPCから転送した「第2話」と書かれたタイトルのメールをクリックする。
新しい波動が、彼の人生に流れ込もうとしていた。
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