とある女の物語

眩しい光を感じて旅人はゆっくりと目を開けた。

おぼろげになっていた意識が、次第にまたはっきりとしてくる。

辺りを見渡してみると、先ほどまで見つめていたはずの亀はいない。海辺でもない。


今ここではない、どこかまた別の世界にいるようだった。


白と黒のドーナツみたいな光の輪を何個もくぐり抜けてここへとやって来た気がする。

あの亀に連れられて、この場所へとやってきたのだと思った。


(世界のはじまりの場所…)


誰かの何かの物語が始まる。

そんなはじまりの場所、にやってきたような気がした。


そこはまるで宇宙のような空間だった。

たくさんの星が煌めく夜空のように、暗闇の中にいくつもの光の粒があちらこちらで煌めいている。

自分がいる場所も光の球のように光っていて。暗闇の中にぽっかりと浮かんでいるようだった。


自分の足元のもっともっと下の方で、ひときわ大きく輝いている光がある。


旅人は、何故だかその光が気になった。


(あの光の場所へ、もう少し近づいてみよう)


そう思った途端、目の前に扉が現れる。


その扉の前には、どこにも見当たらなくなっていた先ほどの亀が鎮座している。


「あ!君、そんなところにいたの?!その扉に入れってこと?」


亀は扉を押し、その中へと入っていこうとする。


「え?!ちょっ、ちょっと待って!!私も行く!」


亀の後に続くようにして、旅人もその扉から中へと入っていったのだった。




・・・・・・




それは、はるか彼方、昔々のこと。

あるところに、とある女がいた。


その女は、艶やかな華やかさはなかったけれど、野の花のようにとても可愛らしい人だった。


その女には、とても愛していた男がいた。


ひと目見た時から、素敵な人だなと思った。

何度も見かけるようになり、何とかしてお近づきになれないものかと思うようになった。

そうして姿を見に行くようになると、そのうちに、男も女の存在に気づくようになった。


いじらしく、可愛らしい人だ、と男も思っていたのかもしれない。


やがて男から文が届いた。

ほのかな香が炊きしめられていて、やわらかな花の香りがした。

女は嬉しくて仕方がなかった。

すぐに文を書いた。


男もまんざらではなかったのだろう。そこから文のやり取りが始まった。


丁寧に書かれている文字。炊きしめられている香はその時々に変わっていて、その細やかな心遣いにとても幸せな気持ちになった。

会いたいと思う気持ちは段々と募り、何度か文のやり取りを重ねているうちに、男と会う機会が訪れた。


嬉しさと恥ずかしさのあまり、女は思うように話すことができなかった。

けれど、そんな様子もまた、男にしてみたら、いじらしく可愛らしいものであったのだろう。 


男は女への想いを優しく告げる。女も、今まで持ち続けてきた男への想いを告げる。

2人は気持ちを確かめ合った。そうしてその末に、契りを交わす。



女は、この上もない優しさとあたたかさに包まれていた。

世の女たちが言う「愛される」とは、こういうことなのか、と思った。


それからも2人の逢瀬と文のやり取りは続き、女はこれからの男とのことを考え始めるようになっていた。


そんな矢先のこと。

ある日突然、男が現れなくなった。約束した日のはずだった。


おかしい、何かを間違えてしまったのだろうか、と文を見返すが、たしかにその日のはずだ。

もしや、何かの障りがあったのではないかと男の身を案じ、急いで文を出す。


1日、2日と経っても何の音沙汰もない。

3日、4日と経ち、それでも音沙汰がない。これは何かがおかしいと女は思い、男の屋敷へと人を使わす。


すると、屋敷はもぬけの殻になっていたという。

どうして…、と女は愕然とする。

けれど、女はまだ諦められなかった。何かがあって屋敷を移っただけかもしれない、また文がくるかもしれないと、自分にとって都合のよいことを考えていた。


けれど、偶然にも屋敷の者たちがしていた話を聞いてしまう。

女には知らせないようにと、事実が伝えられていなかったこと。

男には他に愛していた女がいたこと。

そして、男はその女のもとへと移ってしまった、ということ。


始めから、男は女だけを愛していたわけではなかったのだ。


衝撃のあまり何も考えられなくなる。

頭を何かで殴打されたかのような衝撃だった。


身体が震える。寒い。寒い。

体の震えが止まらない。足が震え、その場へと崩れ落ちてしまう。


もう何も考えられなかった。

視界はぼやけ、ぐるぐると目が回る。

何が起こったのか、何が起きているのか、すぐには理解することができなかった。


そうして、女はそのまま意識を失ってしまった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


気がついたとき、女はいつもの部屋の布団の中にいた。


あのまま廊下で倒れ、ここへと運ばれたのだった。

外を見ると、辺りはもう薄暗くなっていた。


薄暗い暗闇と部屋の静けさに、たとえようのない思いがこみあげてくる。


壮絶な悲しみ。絶望。


まっくろい気持ちがわき上がってくる。その暗闇に飲み込まれそうになる。


今起きていることが 信じられなかった。


何が起きたのだろう。


どうして、なぜ…?、と。


いつから、どうして…?、と。



どうしようもない思いが、腹の底から涙とともに沸き上がってくる。


苦しい。寂しい。悲しい。


止まらない悲しみ。

止まらない苦しみ。

止まらない叫び。


そうして、何日も何日も泣いて、叫んで、臥せって。


一体どれだけ泣いたのだろうか。


そして、涙が枯れ果てたあと、腹の底からこみあげてきたのは、怒り、だった。



どうして…?、と。


永遠を約束したはずなのに、と。


あんなに想い合っていたはずなのに、と。


ドウシテ?


ドウシテ ウラギッタノ?

ドウシテ イナクナッタノ?

ドウシテ ウソヲツイタノ?


ドウシテ?

ドウシテ?


ドウシテ!!!!!



絶望は、怒りと憎しみへと変わる。


相手の女が憎い。

あの男が憎い。


あの女さえいなければ。

憎い、許せない、殺したい。

死んでほしい。

苦しみながらに死んで欲しい!


あの男が憎い。

許せない。

殺したい。


殺しただけでは足りない、そんなことでは足りない。

罰したい、罰してやりたい。

一生苦しみながら、枷を背負いながら、後悔し続けながら、

悔やみながら苦しみながら、絶望し続けろ。

そうして苦しみながら死ね!


それほどまでにわき上がってくる、怒り、憎しみ、怨み。


そんな憎しみや怨みの感情と、絶望とが繰り返し繰り返し、波のように押し寄せてくる。


胸がかきむしられるような悲しみ。喪失感。無力感。


どうして、なぜ?という思い。


どうしてこうなったの?

何故こうなったの?

何がいけなかったの?


あの頃に戻りたい、もう一度やり直したい。


いろいろな感情が、次から次へと湧き上がってくる。


それは、叫び、だった。


叫んでも叫んでも足りない、腹の底から次から次へと湧き上がってくる思い。

まるで一生分のような悲しみ、哀しみ。

涙。


こんなに泣くことがあるのだろうか、というくらいに女は泣いた。


戻らぬ人を想い、泣き、悔やみ。

自分の何がいけなかったのか、どうしてなのか、と嘆いた。


苦しい、辛い。

胸をかきむしられるような苦しみや悲しみ、喪失感。


それらは女の内側に大きな傷をつけた。


女は、愛されたかっただけだった。満たされたかっただけだった。

愛がほしい、愛されたい。

私をみてほしい、私を愛してほしい、愛し続けてほしい、そう願っていた。


けれど、その願いは叶わなかった。


どうして…?と。


そうして、答えのない泥沼のようなの暗闇の中へと迷い込んでしまった。


泣いて泣いて、憎んで、恨んで。

それでもまだ湧いてくるどうすることもできない思い。


手元にある、名前をつけることもできない重苦しい何か。

そんなものたちが、次から次へと湧き上がってはやってくる。

湧き上がってはやってくるものに押しつぶされる。のみこまれる。


湧き上がり、次々と波のようにやってきたもののあまりの多さに、大きさに、

あまりの深さに、

女はついに疲れ果ててしまった。


答えのでない迷いが、問いが、

受け止めきれないほどの悲しみや絶望が、

形にならない、どうすることもできないものたちが、

憎しみと怒り、そして、怨みへと形を変えた。


きっとそれが一番わかりやすかったからだった。

わかりやすく、容易かった。


この苦しい今から抜け出すためには、

恨むことが、憎むことが、その闇にのまれていくことが、楽だった。


なぜ、どうして、という答えの出ない問いを探すことをやめた。


そうして、その闇に、怨みと憎しみの真っ黒い渦の中へと自らのみ込まれていった。



そうして、やがて、女は鬼となった。


許せない。

女が憎い。

男が憎い。

死んでほしい、殺してやりたい。


憎しみと怨みで真っ黒に染まった心が女を鬼にしていった。



そうして、

鬼になった女は、男の元へとやってきた。


穏やかな顔で、自分とは別の女と眠っている男の枕元に立つ。


刃を握り、殺してやる…!と、その刃を振り下ろそうとした。


けれど、


その刃を振り下ろすことはできなかった。


殺してやる!と思うのに、その身が、腕が、動かない。


今までの男との出来事が、脳裏に浮かぶ。


出会った日のこと。男の姿を追いかけていた日のこと、笑みを返してくれた日のこと。

初めて文を交わした日のこと。そして、初めて触れた日のこと。


抱きしめてくれた優しく力強い腕。優しく香る焚きしめられた香の甘く芳しい香り。


今までの男との日々が思い出され、知らず、涙がこぼれた。


そして女は気づいてしまった。


自分が男をまだ愛していたことに。


男に振り向いてほしい、と。

愛をかけてほしい、こちらを向いてほしい…!と、鬼の姿になってまでも思っていたことに。


思い出を消し去ることなどできなかったことに、気づいてしまった。


ただただ、男に戻ってきて欲しかっただけだった。

ただただ、あの幸せな日々に戻りたかっただけだった。


愛されたかった。


選ばれたかった。


そんなひとつひとつの自分の思いに、女は気づいてしまった。



そうして、泣きながらに、男の元を去る。


業火のような怒りと憎しみは消え、悲哀と無念、寂寥感が残るのみだった。


女はようやく、自分はこれほどまでに誰かに愛されたかったのだ、

ということに気が付いた。

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