第6話

佛臭い望春花の群々が鮮やかさを振り撒きながら、此方の様子を窺っている。

熱された蒸籠のような個室の中は鉄と薔薇と銀杏の臭いで満たされており、床は経年劣化で面皰のように凹凸を形成し、由来も知れぬ黒点染みはさながらメラノーマだ。粘度を帯びた液体が段々とゴム質の固体に変化していき、最後には白濁色の瘡蓋になった。反響する肉厚な声の正体は未だ明かされず、蓋が閉じられ、カーテンが下げられ、金属製のドアロックが、必死に身を守ろうと、気張っているのが分かる。その中に誰もいなくても。ただ彼女は放置された訳ではない。実験と称して、文字通り解剖されたのだ。大量入荷された消毒用アルコールの幾つかを拝借し、容器を逆さまにして、風呂桶に全て移す。内臓は特に腐りやすく、腐敗臭が酷い。勿論、医療用メスは普通の家庭にない。そのため、台所に置いてあった三徳包丁を使った。まず、確認として、右脇腹に刃先をゆっくりと入れる。日頃から良く研いであったようで、表皮から真皮までは、菜葉を切るのと同じくらい綺麗に切れていった。発色のよい鮮血が、つぅと一筋垂れて、官能的な匂いを漂わせる。葡萄酒でいっぱいに詰まった酒樽を相手にしているようだった。床に垂れるのは勿体無いと思い、脱がした彼女の下着を綿代わりに、血を吸い込ませた。急速に液体が染み込んだ布は、徐々に重くなっていき、手にずっしりと重量を感じられる程だった。私は鼻の近くにそれを近付かせ、陰茎を激しく擦る。もはや〈法〉に従っている場合ではないと気がついたのだ。その芳醇な香りは、鼻腔の粘膜を一瞬にして捉え、海綿体はしきりに同等のものを注ぐように指示を繰り返す。これは等価交換的な儀礼の一種なのかもしれない。彼女の血と私の血は体外や体内を問わず、循環しているのだ。私の四肢こそ、彼女の血管なのだ。



少女「レイヤーはいくつ重なってるの?」


どうだろう。不条理は、一直線の横滑りからなるものだと思っていたが、それは違っていた。「ずらし」というのは単なるコラージュの技法でしかなかったのだ。


少女「コラージュ?乱数のようなランダム性ではなく、計算された志向性が重要視されているってこと?それは不条理とは言わないんじゃない?」


素材にはそれぞれ数値が当てられており、その数値を横に一つずらすことで、ジャンルを変えることができる。これは数値に縦幅と横幅があり、横はジャンル、縦は横で指定されたジャンルの類似物といった風に分類されていることが可能にしている。偶然ではなく、必然的な生成物であって、完成形に向けて放射された作品なんだよ。


少女「その一つの選択すら、もう一つ後ろの選択によって決定していたら?」


それは詭弁だ。選択とは自由意志によって行われる理性の行使であり、いくつもの選択から自分自身が「是」とするものを抜き出した作品なんだよ。それは偶然ではない。望まれたものなのだ。そして、望まれたものには例外なく価値がある。人も、物もね。


少女「人は本当に望まれたの?」


はぁ。君と話すと疲れるよ。当たり前のことじゃないか。いいかい、お嬢さん。

人というのは自然発生しないし、自己分裂によって生まれるわけではないんだ。

大人の男性と大人の女性が愛し合って、つまり「選択」して生まれるんだ。

それは善や悪などという二元論には収まらない「神の選択」があるのだよ。


少女「神の選択だとすれば、自由意志は存在しないのでは?」


良い質問だ。確かに全てが神の選択だとすれば、我々人間に選択権や理性はないように思える。しかし、考えてみたまえ。「理性こそが神の表れ」なのだと。個人的理性は有限かもしれないが、人類全体を眺めると、それは完全な全体性を持った、ユビキタス的理性によって完成されているのだ。これは個人的体験としての神秘的合一ではなく、全体的体験としての神秘的合一なのだよ。それらは「一つ」なのだよ。「一つの魂」なのだ。


少女「理性は神が魂に点火した光というわけね。」


その通り。君も分かってきたじゃないか。それじゃあ、次は135頁 第二項目の「天使堕落論」と「このもの性と理性」について講義しよう。先生が優しく教えるからな。


少女「先生。後ろ。」


ゆっくり振り返ると、そこには黄金命題が先の見えない二つの黒点と共に口を広げていた。獣のような肥えた糞尿と皮脂が入り混じった臭いを感じ、両手で鼻を塞ぐ。指の隙間からも臭いはとめどなく侵入しており、思わず嗚咽いてしまう。

少女の笑い声と強烈な臭いと気配に踊らされ、場面は暗転と明転を繰り返している。教室の隅にはかなり年季の入った瓦礫と木材の破片が積まれており、暗転の際には、整った暖炉となり、明転の際には、また元の瓦礫の山に戻っていた。私は少女を追い求めた。全ての元凶は既に分かっている。今すぐに皮を剥ぎ取り、吊るさなければならない。私は久方ぶりに興奮を覚えた。心が弾み、体が自然に揺れるのを感じた。燃えるゴミをさっさと片付け、校内放送の電源もすぐに消した。私の鼻腔を貫き、山々を想起させるあの臭いがなくなった。それだけにとどまらず、少女の笑い声もぴたりと止んでしまった。これは問題だった。私はなぜか無性に腹が立っていた。辺りに怒鳴り散らかしたくなる衝動をどうにか抑えて、少女の声を再び探し出した。暗闇の中、群衆の中、警笛の中で、私は少女の声を、まるで卵を追い求める一匹の精虫のように追い求めたのだった。建て付けの悪い窓枠は北風でがたがたと騒がしく音を立てることで、より一層感情は昂り、焦り、そして唸った。私はとある洞窟を見つけた。顔の皮膚が丸ごと持っていかれそうな深淵は口を開け、獲物がかかるのを待ち侘びているようだった。雫が絶え間なく落ち、一定のリズムとなって、自然の音楽を奏でていた。私は気に食わなかった。少女の声を盗んだのは自然のせいだ。美を盗むというのはそれだけで大罪なのに、まだ渇望するというのか。洞窟は地響きによって地面が揺れ、天井は上がったり、下がったりを繰り返していた。地面にこびりついた苔は自身の性質を自慢するかのように、その青臭い潤滑油を出し続けている。私は堪らず足を滑らせ、穴の奥へと意識とともに沈んでいった。まんまと罠に引っ掛かった私は、思わず笑ってしまった。笑い声は四方の石の壁に反響し、いくつもの音の層となって、自分に跳ね返ってきた。私はふと昔のことを思い出した。風呂場で歌を歌うとこうなるんだ。そして、歌を歌ってるのは私ではない。


「誰だ?」呼吸が荒くなる。


「誰だ?」呼吸ができない。


「誰だ?」


少女「覚えてないの?」


私が頬を伝う涙に気がついたときには、既に少女はいなかった。


少女の幻影を求めて、約5年が経っていた。

彼女の微笑みの痕跡はこの世に殆どなかった。それはもはやおとぎ話だった。

しかし、残り香はあった。微かな残り香が。

彼女が通っていた学校、放課後遊びに行っていた友人宅。

今にも風に流されて消えてしまいそうで、もう堪らなかった。

そこで、私は計画を立てた。最後の望みだった。

一つ目は、学校を私物化することだ。私は学校に行き、女子生徒に話しかけた。

彼女は私の計画に気がついた教育機関や政府が送り込んだスパイだ。

その証拠に、彼女は私を見ると一目散に逃げ出した。

まず、彼女を排除しなければ、学校は手に入らない。

私は彼女に接近し、空き倉庫に連れ込むことに成功した。

最初のうちは抵抗したが、少し詰問したらすぐ大人しくなった。

13歳にしては、身体及び精神的な成長が遅く、タナー段階的にも非常に幼かった。腹部は胃下垂の傾向があり、ストレスや疲労が原因だと推測される。


「胸部のタナー度数は2から3の間程度と考えられるね。乳輪や乳首の発達も著しく遅れていて、理由は不明だが、一部に色素沈着のような箇所を見受けられた。該当部位を触ると、薄らと涙を浮かべ、身を捻るようにして抵抗したため、父親や兄などからの性的虐待の可能性を懸念したけど、性器を用いた反応を確認しても、不審な箇所は見当たらなかったため、単に過度な自慰行為からなったと推測できる。詳しい結果は後日書類で送るよ。」


医者は静かに分析結果を述べた。

私はぐったりとした彼女の亡骸を抱えて、小さな診察所の一室にいた。

部屋の中にはクローゼットがあり、同じような白衣が五着以上掛かっていた。

私は今にも折れそうな彼女の身体をベッドの上にそっと置き、白衣を一着手に取った。

白衣には呪詛が隙間なく書き込まれていた。私を呪い殺そうと企んでいたのだ。

私は部屋から出ようと彼女を抱き抱え、ドアノブに手をかけた。

しかし、ドアノブは鈍く軋んだ音を立てて、開こうとしない。

医者はじっとこちらを見ている。

私は戸惑いを医者に悟られないように、大丈夫だという意味のジェスチャーをした。

医者は表情を一つも変えずに、こちらをじっと見ている。そして、話し始めた。


医者「肩骨的詩人のテリトリーは映画化された後、和合庭園であらゆる点灯式が執り行われたらしい。これは差別主義的な修行でも、手術でもなく、作動装置を経由した当然の結果だと言える。つまり、ペダンティックな色彩は統治法の精神世界に、一種のパズルとして提供され、余りにも道理に沿った高速のレインマン状態なのだ。」


「いや、それはおかしい。もし、それが真実というなら、彼女はなぜ殺されたのだ?」


医者「おそらく、大統領だろう。形容詞の鎖から察するに、知られたくなかったようだ。」


「つまり、私の計画の邪魔をしようとしたということか?」


医者「その通り。君も早く逃げたほうがいい。私のようになる前にな。」


「しかし、ドアが開かないのだ。鍵がどこにあるか知ってるか?」


医者「腹の中だ。あるいはポケットの中、かな。ふふふ。」


私は近くにあった点滴用のポールを手に取った。

そして、医者に目掛けて、振り下ろした。医者は抵抗する素振りを見せなかった。

医者の目は黒かった。私の顔をじっと見つめ、いや私の内部にある何かを透視していた。私は鍵なんてどうでも良くなっていた。医者は一体私の何を見ていたのかが知りたくてしょうがなかった。私の中には何が住んでいるのかが知りたくてしょうがなかった。私が何者なのか。私を動かしているのは誰なのか。私は誰に操られて、こんなことをしているのか。私は、私は少女を、少女を何度も殴った。少女は私をじっと見ている。赤黒い血飛沫と血溜まりが暖色の照明に照らされ、光沢を帯びる。次第に鏡面のようにくっきりと像を浮かび上がらせ、私の顔を映し出す。私の正体が露わになっていく。少女の顔面はもはや原型を留めておらず、顎の骨は粉々に砕かれ、裂かれた皮膚と筋肉は捲れて垂れ下がっている。眼球は潰れて、眼窩からは萎んだ風船のような残骸が飛び出している。動脈からは勢いよく血が噴き出し、奇跡的に機能を保っている心臓の鼓動に合わせて、必死に拡大と収縮を繰り返していた。私は少女にキスをし、舌に歯を立てて、噛みちぎる。彼女の舌を口の中に含み、自分の舌の上で転がす。徐々に冷えていく感覚がどこか懐かしい感じがした。しかし、過去なんてどうでも良いのだ。今、私は猛烈に感動している。私は幸福そのものであり、歓喜の叫びであり、絶対者であり、完全な世界であり、あの日見た天井の奇跡であり、脈動を繰り返す心臓であり、エクスタシィを超越した吐精であり、産声を上げた胎児であり、石の平穏であり、滝壺を目指さんとする一人の解脱者であり、至高天へと昇る修道者であり、か弱く、何よりも美しく、世の終わりまで私達と共にあり、決して届かず、沈黙し、求めては離れ、離れては求める、永遠の、永遠の少女なのである。


医者の腸壁には、肉でできたポケットのようなものがあり、そこには金と銀で作られた二対のウォード錠が入っていた。ドアには一つの鍵穴があったため、どちらか一方を使うのだろう。私は金の鍵を挿した。何も反応がない。次に銀の鍵を挿した。何も反応がない。私は戸惑った。私は一生ここから出られないのではないか。この悪臭漂う密室で餓死するなんて想像するだけで最悪だった。私は部屋の隅々まで探った。がん検診のポスターの裏。ベッドの下にあった段ボール。検査器具の中。クローゼットの中。どこにもない。というより、この部屋はまるで映画のセットのように綺麗で、傷や埃は一つも見当たらない。私は少し疲れを感じ始め、ベッドに腰掛けた。下では血を吸い取った絨毯があり、足で踏むたび、ジュクッと音を立てるのが面白く、何度も何度も足踏みをした。そんな時、どこからか金属が擦れるような音が聞こえてきた。それは足踏みをするたびに鳴っている。それはどうやらズボンの右ポケットから鳴っているようだった。恐る恐るポケットに手を突っ込むと、そこには余りにもシンプルで、義務的な鍵が一つ入っていた。鍵には青いネームプレートが付いており、水性ペンで「柊木診療所」と書かれてあった。私は早速ドアノブにそれを挿し込み、左に捻った。カチンと心地よい音を立て、ドアは開いた。外には医者が立っており、遅かったな、と一言言うと、どこかへ消えていった。


私は振り返り、医者の死体を踏まないように跨ぎ、彼女の身体を抱き上げ、外へゆっくりと出ていった。血の海は穏やかに波を立て、さざめいていた。

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少女内残酷奇譚 牧神にじん @dadakan-ersterbend

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