第18話
……眠れない。
その夜。
飯綱さまは有言実行とばかり、夕食後の話し合いを遅くなりすぎない時刻には解散した。
本当は話しきれていない懸念事項はまだいくつかあるのだが、明日は朝から警察の対応がある。曰く彼らを相手にするのには胆力が要るとのことで、充分休むように言われたのだ。
泰子さんに昨日と同じ洋室へ案内していただいて、一度は横になったのだけど……
「……だめだ、ぜんぜん寝付かれない」
観念して夏掛けを跳ね除けて起き上がった。
昨夜は普通に眠れたから、慣れぬベッドのためとは言えないだろう。色々と考えすぎているのかしら。
お部屋は明かりを消しているが、窓にかかった豪奢なカーテン越しに青白い光が差していて、月がでているのがわかる。
ベッドからするりと降りて、そこまで切迫してはいないけれど
窓明かりを頼りに広いお屋敷を歩く。
お借りした寝室から最も近い厠は日本建築の棟との境目近くにある。用を済ませてそちらを見ると、渡り廊下から夜のお庭が見えた。
ちょっとだけ、出てみてはいけないかしら。
この見事なお庭を、ゆっくり見てみたいと思っていたのだ。しかし昨夜からの流れでそんな余裕はなかった。おそらく明日も早いので同様だろうし……
庭も、灯りはなくとも月光が充分にその代わりを果たしてくれる。夜眼通の術を使うまでもない。
昼間の暑さはやわらぎ、そよそよと優しい風が吹いていた。玉砂利の音を立てぬよう飛び石を踏んでお池のほとりまで来ると、一旦立ち止まってみる。
もう十年以上も家屋の密集した下町で暮らしていて、こんな風に虫の声に耳を傾ける機会など滅多にない。
体は疲れてはいるのだろうが、ほっと心が安らぐ思いがした。
飯綱さまと出会ってから、なんだか毎日の密度が尋常でなく上がった気がする。
術商いの店を構えてもう十五年近く。そのほとんどの時間を、二間の間口の小さな土間で過ごして来た。
来るかもわからない客を、返済がいつか終わるのを、ただただ待っていたように思う。息はしていても、とうてい生きていたとは言い難い。
「眠れないのですか」
背後から声がかけられた。
「……そうですね」
振り向くと、私の出て来た渡り廊下の先、縁側に飯綱さまが立っている。
「外は風が心地良いですね。寝室が暑すぎましたか」
庭用らしき下駄をつっかけ、飯綱さまが縁側から降りていらした。もう深夜だが、まだ昼間と同じ、麻の背広の上着とネクタイを取っただけの格好だった。
「お部屋は快適ですよ。なんでしょうね、ちょっとあれこれと思量してしまって」
気づけばこんな夜半に、と言う頃にはもう隣に背の高い姿があり、影がさした。
「飯綱さまは、もしや何かお仕事を……?」
昨日今日と私のために、お勤めを抜けて来てくださったのだ。まさかこんな時間まで持ち帰り仕事をせねばならないほど、ご負担をかけているのだろうか?
「いえ、ちょっとした調べ物です。それなりにくたびれているはずなのに、きりのいいところまでと思ってついずるずるとね」
「ふふ、わかります」
術遣いが皆そうなのかはわからないけれど、私は魔術が好きで、術を込めたものをこしらえたり、新しい術を研究したりするのは楽しい。仕事ではあっても、術を扱っている時間には喜びがある。
「……少し、話をしても?」
二人横並びでお池の方を向いてわずかな間を置いたあと、遠慮がちに飯綱さまが仰る。
「勿論、うかがいます」
ありがとう、と返ってきたが、また少し無言の時間がある。こんなに話しにくそうになさるなんて、いったいどんなことなのだろう。
「顕ヲさんもお気付きでしょうが、私は正直なところ、魅了の術を無理を押してまで
気付かないわけがない。
「天眼堂の見料は我が姉の経営ながら、決して安いものとは言えない。本音としては、昨日の報酬は全てご自身のために使って欲しいのです」
今日の夕飯後のお話ね。飯綱さまが承諾はしても、ご納得されていないのは感じていたけれど……
「早く解きたいというお気持ちも理解できます。私のような爺いに周りをうろつかれては鬱陶しくお思いでしょう。しかし貴女の現状を改善する以上の
「飯綱さま」
「極力お会いせず影から助力するのも検討しましたが、顕ヲさんときたらすぐ危ない目に遭うし、妙な輩は出入りしているし」
「飯綱さまったら!」
ぜんぜんこちらを向いてくださらない飯綱さまに業を煮やして腕を引けば、ほとんど独り言のようになっていたお言葉がやっと止まる。
「……はい」
「もう、どうなさったのですか。必要な時はお頼りすると申し上げましたでしょう。私としてはそういうつもりで、現にこうしてお屋敷に泊めていただいておりますのに」
「迷惑だとしても言い出しにくい状況に貴女を追い込んではいませんか?」
「私をどんな人間だとお思いですか……嫌なら嫌とハッキリ言いますとも」
時折不服のお顔になるものの、私の主張は概ね通してくれた飯綱さまだ。これは急にわからずやになった……というよりは、ずっと我慢なさっていたと考える方が自然かしら。
「しかし昨日の妖も今日の空き巣も、責任は私にあるのですよ」
「ええ? それこそ飯綱さまのせいではございませんでしょう」
あるのです、と低くつぶやき、また目を逸らしてしまう。
「お父上の守り袋、持ち歩くよう言ったのは私ですよ」
確かにそうだけれど。今まさに寝巻きの帯にも挟んでいるし。
「伝太から聞きました。常人の不動産屋が危険な目に遭わなかったのに、顕ヲさんが妖に襲われたのは、おそらくその守り袋のためだと」
「これの術の要に妖の体の一部が使われている、という件でございますか?」
「そうです。確かにそういった品物が、術の守りを超えてある種の妖を逆に刺激する例はあります。もっとしっかり調べ、持ち歩くべきか判断しなければならなかった」
そう……といえばそうなのかしら?
「空き巣についても、顕ヲさんのお店と家を一晩空けるのなら、何か対策をすべきでした。貴女ご自身が私の保護下にあるからといって、油断していたと言う他ない」
……。
「エエト……飯綱さま、私今からちょっと無礼を申し上げますね」
一応前置きしておきましょう。
「いいですか、有り体に言うと、貴方さまは思い上がっておいでです」
まだ掴んだままだった飯綱さまの腕がびくりと震えた。非力な私だけれどここで彼を逃してはならない。引く手にさらに力を入れる。
「なんですか、あれもこれも全部自分のせい、だなんて。ご自身を全知全能だとでもお思いですか。私は幼子ではないのですよ。自分で決めた行動の結果起きることは自分の責任だって、ちゃんとわかっております」
この二日間の油断も浅はかも、絶対に避けられなかったような事象ではない。自分を含め誰かがあと少し注意深ければ、平穏に過ぎたかも知れない。
「飯綱さまが関わらなくたって結局あのビルには行ったでしょうし、守り袋の影響なんて、先に手を出すのが
なんだか少し自棄っぱちな気持ちで一気に言い放った。
「……その場では平気そうなお振舞いだったのに、飯綱さま、今日の出来事がよほど衝撃だったのですね」
「自分が役立たずだったために貴女を危険な目に遭わせただなんて心底がっかりしますし、今それを他ならぬ顕ヲさんに慰められているのも、甚だ慚愧の至りでございますよ」
また不服のお顔で仰る。これはだいぶ根が深そう……全くもう、自分の無力に落ち込みたいのは私だって同じなのに。
「なんでもできて優秀でいらっしゃると、
私など今更少々やらかしたところでいつものことと割り切るしかないわけで……
「他にはありませんか?」
「他とは」
「思い悩んでいらっしゃることが他にもあれば、お聞かせくださいませ」
こうして腹蔵なく話せる機会は、実のところそんなにない。
夜で、二人だけで、体裁を取り繕うには疲れ過ぎていて。こんなふうに条件がいくつも揃ってはじめて、飯綱さまは本音を漏らしてくださったのだ。
「術に囚われたままでいいだなんて、本当に私の経済状況だけが理由でしょうか? 何か他にも、お心を煩わせる事柄があるのではないですか」
飯綱さまのお顔を見れば、今の質問が正鵠を射たのがはっきりわかった。
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