第3話 心中の果てに

 退職して1ヶ月が経とうとしていたころ、雪矢から電話がかかってきた。


 彼との関係は、退職という節目で断ち切ったつもりでいたから、突然の連絡には正直驚いた。


 教師を辞めて1ヶ月、私は次の職探しもせずに、ひたすら泣いて過ごしていた。


 仕事に未練があったわけではない。


 雪矢と会えないことが、なによりもつらく、保護者からの人格否定といえるほどの抗議の声が中々おさまらないことも含めて、私は極めて不安定な精神状態だった。


 夜も眠れず、薬を処方してもらい、それでも頭の中から雪矢が消えることはなかった。


 だから、雪矢から連絡があったとき、私は迷いなく電話に出た。


「一緒に死のう」


 雪矢は一言いうなり、窺うように私の言葉を待った。


「うん」


 私の答えに安堵したのか、明日、自分たちの仲を引き裂こうとした人間に復讐のつもりで学校の屋上から身を投げる計画を雪矢は語り、私はそれに同意した。


 決行の日は、七夕の夜。


 織姫と彦星が出会う、奇跡の日。


 ふたりのように、永遠の愛を手にしよう。


 後世に語り継がれるような、ドラマチックな最期を迎えよう。


 けれど、私たちはわかっていなかった。


 織姫と彦星は、揺るぎない愛を約束されているが、ふたりが出会えるのは、1年で一度、七夕だけ。


 七夕の日に、屋上から身を投げた私たちは、過酷な運命によって、引き裂かれた。


 雪矢は打ちどころが悪く、その場で死を迎えたのだが、私は助かってしまったのだ。


 仕事も愛するひとも失った私は、屍のように生きていた。


 周囲の目が私を観察していて、雪矢の後追い自殺ができる状況ではなく、私は生きているのか死んでいるのか自分でもわからない状態のまま、益体もない日々を過ごし、1年が経った。


 七夕の夜、私は辞めたはずの高校にいた。


 雪矢の初めての命日で、どうしても花を手向けたかったからだ。


 そこで私は、驚くべき光景を目にした。


 雪矢がそこにいたのだ。


 最期に会った日のままの姿で。


 ふらふらと近づいていく私に気づいた雪矢が振り向き、微笑んだ。


 瞬時に私の涙腺は決壊した。


 会いたかった。


 すごく、会いたかった。


 私はカバンを投げ捨てて彼駆け寄り思い切り抱きついた。


 彼は驚きながらも、私を受け入れてくれた。


「また、会えたね、先生」


 記憶の中そのままの声で、雪矢は言った。


 私は涙に濡れた瞳で何度もうなずいた。


「今日だけみたいなんだ」


「え?」


 雪矢が優しく私にだけ微笑みかける。


 その表情は、困っている様子でもある。


「命日の日だけ、こうして、蘇ることができる。

 ただ、ここを離れることはできないみたい。

 まるで地縛霊だな」


「幽霊でもなんでもいい。

 またこうして、雪矢に会えるんだよね?」


「たった1日だけどね」


 それでもいい、と首を振る私の髪を優しく撫でながら、雪矢は言った。


「まるで織姫と彦星みたいだよね。

 ぼくも、先生に会えるなら、それでも構わない。

 でもね、先生、ひとつ約束してほしい」


「約束……?」


 雪矢は変わらない微笑を浮かべたままそれを告げた。


「今日が終わったら、もうぼくのことは忘れてほしい」


 私は呆然と彼をみつめた。


「……どうして……?」


 思った以上に掠れた声が出た。


 愛するひとに拒絶されたショックに私は打ちのめされる。    


「ぼくはもう死んでる。

 いつまでも先生を縛りたくないよ。

 先生には、先生の人生を生きてほしい」


 私は黙り込んだ。


 雪矢の言いたいことはわかる。


 私のためにそう言ってくれていることも、わかっていた。


 わかってはいるけれど、現実に彼が目の前にいるのに、すぐに忘れるなんて不可能な話だった。


「でも、今日だけは……七夕の日だけは、ぼくを思い出してほしい。

 会いに来てほしい」


 ずるい、と思った。


 忘れてくれと、言っているのに、思い出してほしいという。


 それのどこが、束縛ではないというのだろう。


「次に会うときは、ちゃんとぼくを忘れていてね、約束だよ」


 風がグラウンドの砂を巻き上げる。


 そんなことお構いなしに、私たちはキスと抱擁を飽きずに繰り返し、夜の闇に溶けて行った。

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