夜もすがら
杏「昨日で最後って言ってなかったっけ。」
一叶「同じことをするなら、という意味ではと伝えたはずだよ。」
杏「…そうだったかもね。」
一叶「けど、ここで話し合うのも今日で最後だ。」
杏「同じことをするなら、とかでもなく?」
一叶「今日で最後。」
まるでアナウンサーのように
音の抑揚はあるものの
そこに喜怒哀楽のない声で淡々と語る。
感情がアンインストールされたと
昨日は呟いていた。
感情がなくなったのだから
もう一叶自身は
苦しいも悲しいも何も感じないはず。
嬉しいも、楽しいも全部。
辛くなくなったはずだけど、
いいことも全部なくなった。
無に近いものになってしまった。
より、機械に近付いてしまった。
目の前の一叶は、
一叶の形をした知らないロボットのようにすら
見えてきてしまう始末だ。
一叶「スワンプマンって知ってる?」
杏「…知らない。また何かの思考実験?」
一叶「そう。男が沼地を訪れた時、運悪く雷が落ちて死んでしまう。が、同時に近くの沼にも落雷し、化学反応によって男と全く同じ記憶、姿、遺伝子、性格をした、元の男と何ひとつ変わらない男…スワンプマンが生まれた。」
杏「……何ひとつ変わらない。」
一叶「そう。スワンプマンは自分が死んだことに気づいていない。スワンプマンであることにももちろんね。その後スワンプマンは家に帰り、明日からも何事もなかったかのように日常生活を送るんだ。」
杏「…。」
一叶「さて、ここで問いたい。男とスワンプマンは、同じか。」
杏「同じじゃないよ。」
一叶「遺伝子情報まで全て同じなのに?」
杏「…でも、スワンプマン…沼…ではあるんだよね。それなら、違う。」
一叶「化学反応で全く同じ、そっくりそのままの男が誕生するんだ。明日からも食事をしたり眠ったり、その点は変わらない。人間としての循環器は整っている。」
杏「……違うところはない?」
一叶「かろうじて言うのであれば、スワンプマンの方は落雷の時、運良く避けたなど都合のいいように一部記憶が変わっている可能性はある。しかし、その落雷前後以外では変化はない。」
杏「同じ姿で、同じ性格で。……同じ遺伝子…生活スタイルも…全部。」
一叶「そう。」
今の一叶とは違うね。
そう冗談めかしく
言うことができれば良かったが、
感情を失った一叶を前に話しても
笑ってくれる未来など見えなかった。
一叶は姿は同じだが、
性格…感情がなくなってしまった。
変わってしまった。
そういうこともなく、
全く同じだったら。
これまでの人間関係が
崩れることもないだろう。
体組織も一緒なら?
自分の体に違和感を持つこともない。
元の体と全く一緒。
杏「…そういえば元の体ってどうなるの。落雷で微塵も残らないくらい消し飛ぶの?」
一叶「死体や血は残るとしよう。ただし、少しだけ離れた場所に。」
杏「隣だと流石にスワンプマンになってすぐ自分が死んでるってなるもんね。」
一叶「沼の底に落ちたことにしたっていい。」
杏「でも、そしたらいつか自分の死体が見つかったら…スワンプマンは自分が死んでたってわかっちゃうよね。」
一叶「生きている人間の死体なんて出てきたらとんでもない事件になるだろうね。」
杏「その時スワンプマン側は思い出したりしないの?」
一叶「しない。自分は人間だと信じている。」
杏「…そっか……。じゃあ本当に何故か自分がもう1人死んでいる…と。」
一叶「死体側が偽物と扱われるかどうかも不明だが、生きている本人がいる手前、遺伝子までも同じなら死体が偽物だと言われても仕方がないかもね。」
杏「…。」
一叶「それを踏まえた上で、スワンプマンは入れ替わる前の人間と同じと言えるかな。」
杏「……それは…。」
似たようなものでテセウスの船
というものがある。
壊れた部品は取り替え、
それを続けていると
やがて全部品を取り替えることになる。
船の形は同じでも部品は全て違う。
それはテセウスの船と言えるか…
といった内容だったはずだ。
この問題は同じとは言えないと思っていた。
いくらパーツが同じでも
材質も重量も何もかも同じでも
名前が同じだけの別物だって思ってた。
その部品と旅したのなら
部品にしかない思い出や記憶が
少なからずあるはずだから。
それを、無機質は覚えていられなくても
うちら人間は覚えていられるから。
ベッドを買って、いつか全く同じものに
買い替えたとしても、
それは違うものでしかない。
使用する人は買い替えたことを覚えていて、
例えば飲み物をこぼしたのなら
昔の方ではあの時溢したななんて記憶が
残っているはずなんだ。
だから違うと思っていた。
けれど、人知れず
全く同じ自分に入れ替わっていたら。
自分が変わったと、
2人目だと、本物だと
証明してくれる人がいないのであれば。
…それは、1人目他ならない。
自分を証明するのは他者であるように、
その現場を見た人がいないのであれば
自分は最初から地続きで
本物の自分であると証明ができない。
自分ですら気づけないのだ。
そうだとするなら。
違うと証明できる人がいないのだから。
杏「同じ……と、見ることしかできない。」
一叶「どうしてそう考えたの。」
杏「自分もスワンプマンであると気づけない。他者も入れ替わったところを見てないなら証明できない。誰も偽物だと判断できない。死体が見つかっても生きている方を正しいとするなら、同じとするしかないんだよ。」
一叶「なるほど。…杏は本当によく迷って、その上でしっかりと答えを出してくれるよね。」
杏「優柔不断だから、決めた後にしょっちゅう悩み直すけど。」
一叶「でも、難しいね、わからないね、わかる時…今度にしよう、で済ませない。」
杏「……そうかな。」
一叶「少なくともこの数日間はそうだった。」
杏「……。」
一叶「……杏は悩み続けることができる人間。それで、悩んで悩んで悩んだ末、振り返った時に後悔がないと思えるような答えを出すんだ。杏が杏でいてくれて安心するよ。」
杏「……何それ。」
一叶「さて、そしたらそろそろ行こうか。」
杏「どこに。」
一叶「最後だから、ついてきて。そしたらわかるよ。」
すると、これまでの通り
一瞬暗くなっては
徐々に目が慣れ出していく。
初日よりも随分と遠くが見える。
一叶に手を引かれずとも、
彼女の背を追うことができた。
カフェの床はどこまでも続いている。
相変わらずカウンターも机も
暗順応する前にどこかへ隠れてしまった。
どのくらい歩いただろう。
少なくとも10分は
歩いたという感触がある中、
まだ先まで床が続いているのに、
一叶は何もない場所でぴたりと足を止めた。
それに倣って、うちの足も
自然に止まる。
どうしたの。
そう聞こうとした時、
何もないはずの場所から
扉の線が浮き出てきた。
表はモニターか何かしらで
映し出していたのかと思うと同時に
横にスライドされては
真っ白な光が刺すように漏れる。
目が痛くて、咄嗟に目を閉じ腕で覆う。
慣れるまで時間をかけ、
しばしばしながらも
徐々に瞼を開く。
すると。
杏「……っ!?」
10畳ほどの真っ白な部屋があり、
その正面には一叶が
立ったままの状態で目を閉じていた。
シャットダウンした機械のように冷たく、
同時に、同じ一叶が隣にいることを
思い出してはぞっとする。
腰や頭などに数本管がつながっており、
所謂充電状態なのかもしれない。
目を閉じた一叶の足元には
白く長方形の
ジュラルミンケースのようなものが
寝かせて置かれている。
動いている側の一叶は
その箱に近づいて、迷うことなく開いた。
一叶が2人いる現状も、
この後何が起こるかも
想像するだけで不安で不安で仕方なく
手から汗が滝のように出ているのに、
これまで何も知れなかった分
今回やっとついてきていいと言われたのだから
知りたいと思ってしまって、
おずおずと一叶の元へ近づく。
箱の中には、腕が1本丸々入っていた。
杏「ひっ…!?こ、これっ」
一叶「私の腕。」
杏「な……あ、いや、そう…そう、なんだ。人のかと思って…でも一叶の…」
一叶「少し落ち着いてから話してくれないかな。」
杏「ご、ごめん。動揺しちゃって。」
そりゃあ人間の腕が
切断されたままの状態で
1本入っていたら驚くだろう。
そう言い返すこともできず見守っていると
今度は目を閉じたままの一叶の腕を
そっと引き抜いた。
元から取り外すことを予定していたのか、
それともついさっき誰かが
適当に置いたように
簡単に外れてしまった。
腕を並べる。
不思議な光景だった。
思えばたった今一叶の腕は
5本も視界の中にある。
動く一叶の冷たい手、暖かい手、
ケースの中の手、
目を閉じた一叶の手、そこから外された手。
吐き気をもよおすかと思ったが、
人のものだと思わなければ
おのずとそれも引いていく。
人じゃなかったから安心するなんて卑怯だ。
一叶だからいいや、大丈夫だ、と
思ってしまっている証拠じゃないか。
彼女は振り返って、
今くっついている自分の
冷たい方の腕に触れた。
手首から肘の間をマッサージするように
左右から指で押している。
一叶「この腕は見ての通り開きもしない。ただの鉄の塊だ。」
だけど、と言い
またケース内の腕に向き直る。
一叶「こっちの…元々の腕の方は、取り外せば肩のあたりから魚みたく開くことができる。」
得意げでもなく、悲観的でもなく
説明の文章を読み上げるように言う。
そして、ケース内の腕の
肩の部分に指を差し込んで
鍵のように回すと、
腕から手首にかけて線が浮かび上がった。
片方の辺はくっついているのか、
宝箱を開くように上部分を持ち上げる。
すると。
杏「…っ!?」
その光景を見て思わず息を呑んだ。
手首から肘あたりまで、
爪の先でつけた跡ほどの大きさの
小さな灰色のチップが無数に刺さっている。
そのうちの数列は
上辺が白く色付けられている。
ぎっしりと詰め込まれたそのデータは
遠くからはソーラーパネルのようにも見える。
上空から運動会の開会式の様子を
眺めている時のように整列していた。
肘から上はまた別の器官なのか
配線であったり
よくわからない部品が詰め込まれている。
ただでさえ多いデータの入った
大枠の入れ物を掴むと、
さらに下から同じものが出てきた。
杏「何、これ。」
一叶「データだよ。」
杏「それはわかる。前に話してくれたし…けど、何この量…。」
一叶「1段に約250個。内容量もかなり大きいものだから、下の段はまだあまり使われていない。」
杏「……何を…そんなに集めてるの。このデータなんなの。」
USBみたいなものだと
話していたことを鵜呑みにして、
それが3個ほど縦に並んで
収まっている程度だと勘違いしていた。
想像をはるかに上回る数のデータを前に、
何をそんなに収集しているのかが
気になってしまったのだ。
杏「こんな数…普通じゃないよ。」
一叶「行われていることは、とっくに普通ではなくなったよ。」
杏「…答えてよ、何のデータか。」
一叶「…みんなのデータ。」
杏「……!…うちらの……?」
一叶「そう。」
杏「…はは…一言一句…保存してる…的な?生い立ちをざっくり文章化しただけじゃ…そんな使わないっしょ。」
文章だとしたら、そんなに容量は取らない。
映像だとしたらわからないけれど、
1つのメモリあたり1TBなんてあった暁には
相当な量を保存できる。
しかも一叶は「容量はかなり大きい」と言った。
なら、豆粒のようなサイズでも
もしかしたらとんでもない容量だったり
するのではないか。
そうだとしたら、本当に映像で
この1年間を保存していてもおかしくない。
気味が悪い。
そう思ってしまった。
杏「でもさ、そんなの集めても意味なくない?」
一叶「…。」
杏「ね、そうでしょ?おかしいよ、こんなの。」
一叶「これまでの全ての言動が記録されている。もし次があった時に、重複して無駄にしないために。だから無意味じゃない。」
杏「…それが…大切なものだったの…?」
一叶「全部必要なものではある。けれど、1番大切なのはこの白色の列のデータ。」
杏「……それは。」
一叶「これまでの杏と過ごした時間のデータ。」
杏「…っ!?」
一叶「今の私にはほぼないデータだけど。」
アンインストールされたから、と
無感情なのに寂しく聞こえる声を落とす。
優しく撫でる手つきが
愛するものへの接し方と似ていた。
杏「あは…何……流石にさ…趣味悪くない…?大切なものって……それは、嬉しい…でもやりすぎでしょ…ね?」
一叶「辛くても助けてくれたのは杏の言葉らしいよ。今回だってそうだった。昨日の言葉は傷を癒すほどはなくとも、傷を束の間忘れさせてくれるものだったと思う。毎回この年の秋までを楽しみにしているみたい。」
杏「……この1年の…全部…それ。」
一叶「これまで全てって伝えたよ。」
杏「…もしかして……小さい頃も…ってこと…?」
一叶「…。」
杏「……は…何でそこまでして」
一叶「勘違いをしている。」
杏「……今更…。」
一叶「これまで全てって言った。」
杏「だから…ちっちゃい頃から…」
一叶「私は何度も杏に会って、話して仲良くなって、何度かは今回みたいに逸れたはずで、何度かは一緒にいたはずだ。今の私には今の杏のことしか残っていないけれど、この量のデータがあるなら、少なくとも1回ずつくらいは」
杏「何言ってんの。」
一叶「杏。」
声が、冷たい。
心の奥底まで凍えそうだった。
一叶「私たちがここで話をしたのは、初めて?」
心臓が鳴る。
答えなどひとつしかないのに、
口が震えて歯が鳴った。
杏「……初めて…に決まってる。」
一叶「そうだよね。今回は1度も追いかけてこなかったから、知るよしもない。」
杏「…っ!従えって言ったのは一叶じゃん!傷つけたくないからって!」
一叶「傷つけたくないのは本当。だけど、傷つかない方を選んだのは杏だよ。」
杏「知って欲しかったらそう言ってよ。話なら聞いたよ。相談だって…最初の感じだと確かに気まずかったけど…でも、友達なんだから、聞くよ。聞かせてよ。」
一叶「それで言うなら、もう十分聞いてもらった。」
杏「うち、一叶のこと何も知らないよ。何が十分だよ、こっちは十分でも何でもないの。」
一叶「でも、私は十分。杏の前で泣いて、息が詰まるって言わせてくれた。それだけで、私にとっては意味がある。それだけで全部全部救われる。」
杏「…感情……でも、無くしちゃったって。」
一叶「今はわからない。ただ昨日のあの時、嬉しかったらしいデータはある。」
杏「データだけなんて悲しいよ。…一叶の辛さ、教えてよ。」
一叶「辛いも何もないことは既にわかっていることじゃないか。」
杏「…っ。」
咄嗟に肩を掴み、
思うままに強くゆすった。
杏「うちは…初めて会った時の一叶と、ずっと友達でいたいだけ!それだけじゃん!」
感情がなくなったなら、
何を思って何を考えて、
何がしんどくて、何が苦しくて、
何が嬉しくて、何が楽しくて…。
聞きたいことが何ひとつ聞けない。
力になることもできない。
感情を抜きにした考えは
合理的なものでしかない。
それが聞きたいんじゃないの。
一叶が今どう思ってるか、
どうしたいかを聞きたいの。
でも一叶は何も言わなくて、
そのまま力が抜けて腕をなぞる。
手を握る。
冷たいままの指が、
絡まることなく滑り落ちる。
一叶「データを移し替えるから、ここで少し待っていて。」
杏「…。」
一叶はそう言って大量のチップを
箱の中の腕…元々の一叶の腕から
目を閉じたままの一叶の腕へと
移し替えていった。
もしここで2人とも壊したら。
バットこそないけれど、
鉄の塊だと言った一叶の腕で殴れば、
一叶はいとも簡単に壊れるかもしれない。
けれど、感情がないからと言って
友達をそんな惨状にすることもできず、
近くの壁に背をつける。
体重を預けてひとつ息を吐くと
急に足に力が入らなくなり、
膝を立て体操座りのように床に座った。
ひとつ、ひとつと移し替えていく。
大切だからか、まとめて乱雑に
移すことはしなかった。
何百もあるチップを移し終えると、
開いた腕の面を閉じ、
目を閉じる一叶へ嵌めた。
最初見た時と何も変わりない一叶だ。
腕にデータがあるかないかのみ。
一叶に近寄りよくよく見てみると、
クラゲヘアかただのボブかの
違いはあるようだが、
それ以外これと言って変化はない。
髪型の違いくらい
人間にでもよくある話だ。
一叶は1本の管を持ってきて、
その端をうちに渡した。
もう片方は目を閉じたままの一叶に
繋がっているようで、
不意に一叶に視線を戻すも
目が泳いで仕方がない。
やめて。
どうか。
けれど、口に出さない願いが
叶うはずもなかった。
一叶「これを私の首裏につなげたら、新しい方が起動して、私の方は使えなくなる。」
杏「…やだ…やだよ、ねぇ。」
一叶「ただ、私側に残った電気を渡すだけの管だよ。」
杏「一叶、ふざけてないでさ…っ。」
一叶「基本データは既に新しい方に入ってる。あれにはこれまでの杏のことも、感情データもある。元の一叶に限りなく近い。」
杏「…っ!」
一叶「今の私は、杏の思う一叶からはかけ離れているでしょ。」
唇を噛み締める。
頷きたくない。
けれど、肯定せざるを得ない。
今の一叶は数日前と比べて
全く違うものになってしまった。
冷酷で義務的で、ロボットらしくなった。
怖くなった。
友達だからと言いつつ
友達の頃の一叶じゃないと
思うようになっていた。
そうなってしまっていた。
一叶「さっき、スワンプマンの話を出したよね。その時杏は誰も見ていなければ同一であると認めるしかないと言った。」
杏「……っ…うん…。」
一叶「今回は残念ながらその通りにはならない。…けれど、管をさして、目を閉じていれば…もしかしたら誰も見ていないことになるのかもしれない。」
杏「……一叶。」
一叶「全く同じ入れ物に変わるだけ。たったそれだけじゃないか。」
最初の一叶のままで、ずっと友達でいたいだけ。
前者を叶え続けるなら
この人間味のない一叶と過ごすことになる。
後者を叶えるなら、
この1年間の一叶のままで
友達でいたいと思ってしまう。
感情のある一叶でいてほしい。
笑ってほしい。
どうでもいいことで笑い合いたい。
それが抑制されていて
強制的なものだったとしても、
どこか本当に楽しいって、
嬉しいって思うことができるなら。
苦しさもたくさん…本当にたくさん
考えられないほどあるだろうけど、
それでもほんの少しの幸せがあるのなら。
うちのエゴでしかない決断だ。
一叶を苦しませることになる。
それでも…そうだとしても
友達でいたいよ。
杏「たったそれだけ、じゃない。」
一叶「…。」
杏「今の一叶は、今の一叶だよ。たくさん遊んだのもだらけてもたれたのも…今の一叶。」
一叶「うん。」
杏「…でも、うちは人間で、合理的じゃなくて賢くない…感情が先行して勝手に選ぶ生き物…なんだ…。」
一叶「…知ってるよ。」
杏「……ごめんね…っ。」
一叶の手から管を取り、
昨日のように抱きしめる。
髪の毛を掻き分けた先に
これまでに見たこともない窪みがあった。
管を差し込むだけ。
それだけ。
それで本当にいいのか。
直前になって迷ってしまう。
決めたのに。
もうあと少しなのに。
手がわけもわからず震える。
だって、これをさしたら
長い間一緒にいた一叶はいなくなる。
うちとの思い出はデータとして残っていても
あなたそのものではなくなる。
息が荒んで吐かれる。
自分の息じゃないみたい。
ここで、やめたら。
一叶は一叶だから、
感情がなくなったとしてもあなただから。
そう言えたら。
その時、背に何かが触れた。
一叶の手のようで、
私を真似するみたいに
少しだけ力を込めて抱きしめる。
杏「……っ!」
正しいかなんてわからない。
けど、うちが選ぶんだ。
選んだんだ。
震える手で、息を止めて、目を閉じて
管を差し込んだ。
その瞬間、抱きしめていた一叶の体が
うんと重くなり、
重力に倣って人形のように
崩れるのがわかった。
目を開かないように、
管がささったままかも確認せず
背中を向けて蹲る。
人は、死んだら生き返らない。
けれど機械は、ロボットは、一叶はどうだろう。
人ではないから死んでも生き返る。
それは覆ることはない。
だからもしも壊したとしても
一叶はどこかのタイミングで
生き返っていたのかも知れない。
たとえどれを選んだとしても
空想でしかないが、
何があろうといずれ一叶は
この場に立つ姿が浮かぶ。
まるで昨日話したロバの
思考実験のようだった。
しばらく経って、足が痺れて床に座る。
真っ暗だ。
一叶と話をするようになったあの初日のよう。
目を閉じればそこは夜。
けれど。
とんとんと肩を叩かれる。
音がなくて気が付かなかったが、
すぐ後ろまで来ていたらしい。
明るさに慣らしながら瞼を開く。
ようやく夜が明けるようで、
自然と目からこぼれない程度の涙が滲む。
振り返る。
すると、そこには一叶が1人だけいた。
あたりはいつの間にか真っ白な空間から
カフェに移り変わっている。
転がった一叶なんておらず、
今目の前にいる彼女が
目を閉じていた方だとわかるのは
髪型がボブだったから他ならない。
変わったんだ。
変わってしまったんだ。
でも…でも。
一叶「杏。」
杏「…っ。」
にこって優しく微笑んで
名前を呼んでくれるあなたは
紛れもなく一叶なんだ。
うちの知ってる
唯一の一叶でしかないんだ。
彼女は正面に回って
両手を差し出してくれた。
そっと握る。
両方暖かかった。
一叶「待たせてごめんね。」
杏「ううん、ううん…待ったけどいい……いいよ、もう。」
一叶「あはは、待ったけどって言うんだ。」
杏「言うよ、そりゃ言うよ…っ。」
一叶「そっかぁ、うんうん、怖かったねー。」
杏「もー茶化さないでー!」
時々こうして茶化すのも、
あははって笑うのも
うちの知っている一叶そのものだ。
これでよかったんだ。
これでよかったんだ。
よかったはずなんだ、きっと。
片手だけは繋いだままカフェを出る。
冬のせいであたりは既に真っ暗だ。
一叶「帰ろ。」
杏「…うんっ。」
一叶「今日からまたボクの家に来てくれてもいいんだよ。」
杏「え。」
今、ボクって。
一叶はいつも「私」って言うのに。
その違和感が刹那足を止める。
けれど、手は離れることはなかった。
一叶「どうしたの?」
杏「…いつも、私って…。」
一叶「ああ、変えてみようかなって。ほらボクっ子って可愛くない?ちょっとやってみたいなとは思ってて、じゃあ今からはどうかなって思ったんだ。」
屈託なく笑う一叶がそう言う。
一叶が…今の一叶が言うのなら
何だっていいよ。
一人称が変わったくらいで
友達をやめたりなんかしないよ。
あなたが笑っていられるのなら
もう何だっていいよ。
杏「…うん…いいんじゃない?好きにすればー。」
一叶「そんな適当な。」
杏「勝手にしなよー。あ、そういえば最近コンビニでめっちゃ味の気になる飲み物出たんだよ、知ってる?」
一叶「どれだろう?結構あるような。」
杏「一叶はチェックしすぎ。」
一叶「あはは、そうかも。どれどれ?」
杏「えっとねー…」
スマホを取り出すと
一叶は子供のように、
けれど、どこか気だるげな雰囲気を持って
覗き込んでくる。
全てが、うちの知っている一叶のまま。
ふわりと髪の毛が風に靡く。
短くなった彼女の髪が
夜風にぷかぷか漂った。
これでよかったんだ。
そのはずなんだ。
だって今うちらは2人で笑えているんだから。
夜を渡る 終
夜を渡る PROJECT:DATE 公式 @PROJECTDATE2021
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます