44 これから

 遠くで鉄扉が閉まる音が響いた。

 そのあとに続くのはトテトタと不規則な床の音。

 テレビから視線を外して、振り向けば、予想通りの人物がバックを肩からずり落とながら現れた。


「あー……疲れたぁ」


 俺と目線が合うと、ユリは開口一番。ため息とともに言葉を吐き出した。

 しかばねよろしく、よろよろとした足つきでダイニングに入ってきたユリは吸い寄せられるように椅子に深く深く座った。


「もう1ミリだって、うごけない」

「……おつかれ」

「ぅん」


 空気に溶けてしまうぐらいの微かな返事。ふたたび、ため息がこぼした。

 普段より、かなり早い帰宅である。たぶん定時で切り上げて、そのまま真っ直ぐ帰ってきたのだろう。それでも丸丸一日働いているのだから、疲れは極限に到達しようとしているのが、手に取るように分かる。


「・・・あ、ゴハン、買い忘れた。いや、もう、このまま寝るかなぁ」


 家に着いたことに安心したらしく、ぶつぶつと声に出しながら自分のこれからの行動を確認している。

 当然といえば、当然なこと。寝不足なのはユリも同じ。

 そして、昼寝ができる俺と違って、社会人に昼寝できるほどの休憩なんてないだろう。フル回転で働き切ったエネルギー切れとなった人間は、人間的な欲求の食欲より睡眠欲が上回っていると、判断能力も鈍っているようだ。


「そんなこと言って、なんか食わないと夜中に腹が減って、太る、太らないとか言い出すんじゃねーの?」

「むぅー! 良ちゃんのいじわる。睡魔がまぶたにぶら下がっていて重いのよぉ!」


 ジャケットを羽織ったまま、テーブルに転がるようにうつ伏せになって、うめいている。

 見た目が見た目なだけに、おもちゃ屋さんでごねている子供に見えてしまうのは仕方がないと思う。


「はぁ。見た目とかオシャレじゃなくていいなら、スープ食う?」

「えっ?」


 屍のようにグデグデになっていたユリは一瞬にして変わる。

 ウサギの耳でもついているのかと見まごうほど、ピョンと起き上がったかと思うと、キラキラとした純粋な瞳を向けられた。


「ぐっ」


 ほんと、これで年上とか……詐欺だよな。

 そう思いながらも、手を伸ばしてしまうのなぜか。


「まぁ……あれだ。時間があったし、なんとなく、作ったスープだからな」


 そう、ほんと。なんとなく、なのだ。

 なんとなく、立ち寄ったスーパー。

 なんとなく、安くなっていた鶏肉に、キャペツに手が伸びた。

 鍋に突っ込んで煮込めばできそうだな。と、実際、できたし、まぁ不味くはないと思う。

 ただ、作りすぎたようで、余ってしまったから翌朝に回そうと考えていたところだったので、渡りに船というもの。

 決して、ユリのことなんて意識はしていない。


「……期待すんなよ」


 押しすぎなくらいに念押しをして、コンロに火を入れスープを温める。


「わーい。良ちゃんの手料理、手料理っ」


 歌うようにゆらゆらと揺れるユリに思わず口元が緩んでしまう。


「ほら」


 数分のことだが、ユリは温めている間に自室に戻り、お下がりの襟ぐりが開いたTシャツにハーフパンツというラフな格好に着替えていた。

 俺はユリが座ったのを確認して、目の前にスープを置いた。

 ユリは香りを楽しむようにスープに顔を近づけたあと、浸りそうになる髪をあわてて耳にかけて、軽く息を吹きかけ、声を漏らす。


「はふっ。んんー! 美味しい!!」


 小さい口をもごもごと動かし、鶏肉を噛み締めては、震えて歓喜の声をあげる。

 そんなにも全身で表わされると、嬉しいを通り越して、照れてしまう。


「具材も大きくて、食べ応えも良い感じぃ」

「ま、俺が作ったんだから、当然だろ」


 熱が集まる頬を隠すように手の甲を当て、ユリから視線をそらした。


「ふふっ」

「んだよ」

「べっつにぃ? 良ちゃん、美味しい。ありがとぅ」


 噛みしめるように言葉を発するユリについ視線が動いてしまう。


「……どーいたしまして」


 ずっと見ていることができず、すぐにテレビを見ているように装う。

 画面にはバラエティー番組が流れているが、全く、頭に入ってこない。

 あぁ。ほんと、俺はユリに振り回されっぱなしだ。

 ぱちんと乾いた音が鳴る。


「ごちそうさまでしたぁ」


 右から左に抜けていった番組のエンディングロールが流れはじめた頃。

 器に注いだスープは綺麗に消え、その前には満足顔をしたユリがいる。


「おそまつさま」

「ふふっ。良ちゃんって、ほんと、分かりにくいけど真面目な子よねぇ」


 口元を押さえて笑うユリ。

 おい、バッチリ聞こえているぞ、その言葉。

 押さえているようで、押さえきれていないその行為に意味はない。

 つまり、隠すつもりのないストレートな言葉。

 それがなんだか気恥ずかしくて仕方がない。


「あ、ちょっ、まてよ」


 俺が心の葛藤をしている間に、自室へ戻ろうとしていたのを視界にとらえ、慌てて手を伸ばした。


「ん? 何?」


 くるりと半回転して、髪先がふわりとなびかせたユリは目を瞬かせる。

 触れることなく宙をかいた手はおとなしく自分の元に戻した。


「あー、その、だな」

「うん?」


 歯切れが悪い俺をどう思ったのか、首を傾げながら、目の前まで近づいて見上げるユリ。


「良ちゃん、どうしたの?」


 見上げているはずなのに、どこか懐かしさを感じる。

 あの頃は、見上げていた。

 今では反対になってしまった視線。

 だけど、変わらないものもある。

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