第5話
7月最後の日曜日。
理人が現れて、まだ半月足らずであるが、モーニングコールとおやすみメッセージのやり取りが日課になった。
全て彼発信だが、私も律儀に応じてしまっている。
そんなやり取りに加え、仕事終わりご飯に行ったのも、金曜日で7回目を数えた。
いつも、定時で帰ろうとしているところを、理人に連行される形が多いのだが、予定もないのでついて行ってしまう。
一昨日は、イタリアンのお店だった。
そこで、来週末に開催される花火大会に誘われた。
花火大会デート。
それは、何度も妄想し、胸をときめかせた、定番中の定番シチュエーション。
‘行く’以外の選択肢があるだろうか。
浮かれていることを悟られないよう、パスタを口に運びながら、
「屋台奢ってくれるならいいけど。」
と返した。
「食うことばっかだな。」
と揶揄い口調でokが出された。
交渉成立かに思われた瞬間、
「浴衣着てこいよ。」
追加条件が出された。
それも、決定事項かのような口ぶり。
浴衣など久しく着ていないし、面倒なので断ろうとした。
「俺も浴衣で行くから。」
それを聞き、ぐっと口を噤む。
「浴衣で花火大会…好きだろ?」
右の口角だけを上げ、ダメ押しする。
軍配は、理人に上がった。
そんな訳で、午前中は、実家へ浴衣を取りに行ってきた。
実家までは、電車で1時間ほど。
遠くない距離ではあるが、行くのが億劫だった。
「ただいま。」
持っている鍵で玄関を開け、声をかけてリビングへ向かう。
キッチンに、母の後ろ姿を見つけた。
「ただいま。」
再度言うと、振り向いた母が開口一番、
「また急に帰ってきて!」
煩わしそうに言い放つ。
一応、連絡はしておいた。前日だったから、確かに急ではあるだろう。
「浴衣一式持ったら、すぐに帰るから。」
あまり長居はしたくない。
「浴衣なんて、何するのよ?」
「着るの。」
返事は短めに済ませ、浴衣を仕舞ってある和室へ移動する。
「デートでもするの?」
「別に。」
「大して似合いもしないのに。一体誰が、あんたの浴衣姿なんて見たいんだか!」
背中で、母の豪快な笑い声を受け止める。
わざわざ付いてきて言うことだろうか。
浴衣や帯など、必要なもの全てを早々に見つけ出し、一緒に仕舞われていた風呂敷に包む。
「それ、全部持って行くの?
こっちで必要になったら、どうすんのよ?
本当、自分のことしか考えないんだから!」
詰めているのは、全てこの浴衣用に購入した物である。
したがって、万が一、急遽母が和装をしなければいけなくなっても、必要な物は揃っている。
母が捨てたりしていなければ。
そもそも、普段着物に縁がないのに、いつ必要になるというのだろう。
「じゃあ、帰るね。」
「本当にそれだけで帰るなんて。
お兄ちゃんは、買い物に連れて行ってくれたり、洗い物してくれたり、頼りになるのに。
女の子なんだし、もう少し気遣いできないと、結婚できないわよ。」
実家暮らしで定職にも就かず、生活費すら入れていないアラサー男性の、どこが頼りになるというのか。
買い物だって連れて行くだけだし、洗い物をしてくれるって、家を出るまで私だってしていたことだ。
兄が頼りになるという割には、スマホの設定だの、テレビが映らなくなっただの、私に助けを求めて電話をしてくるくせに。
「今日は忙しいから。またね。」
母はまだ何か喚いていたが、適当な理由をつけて、玄関ドアを勢いよく閉めた。
29歳になる兄は、いまだに反抗期を引きずっている。
バイト以外は自室に篭りきり。ご飯も、部屋に持って行って食べる。
兄アゲの母とすら、滅多に会話はしないという。するとしても、事務的なものだけ。
父も、私には口煩いのに、兄には何も言わない。
2人とも、兄の顔色ばかり伺って暮らしている。
高校生の頃、機嫌が悪くなると、壁を殴って穴を開けたり、物を壊したりしていたこともあってか、両親は兄を恐れているのかもしれない。
さすがに今はしていないけれど。
私と兄は、幼少期はそれなりに仲が良かった。
しかし、やはり兄が高校生になり、反抗期のピークを迎えてから、関係は変わった。今は、兄が何を考えているのか、さっぱりわからない。
実家の雰囲気が嫌で、就職と同時に私は家を出たのだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
そんな日中を過ごし、今は、日が落ちかけて薄暗くなった部屋で、ベッドに仰向けで寝転んでいる。
そして、手に持ったスマホと、衣紋掛けに干した浴衣とを、交互に眺めていた。
スマホ画面には、理人とのやりとりが表示されている。
テキストカーソルは左端で点滅し、たまに右へ動いては、また左端へ戻るを繰り返していた。
気づけば、もう30分もそうしている。
家族と接すると、酷く疲れて、ネガティブモードを誘発する。
これまでは、抱えた負の感情を夢小説のドキドキで上書きしていた。
その相手とは今、直接やりとりできる状況だ。
頭の中は、母の言葉で満たされていて、思考が鈍っている。
経験上、こういう時にメッセージを送るのは良くない。
繰り返すが、今は思考が鈍っている。
‘私の浴衣姿なんて、見たい?’
とうとう送ってしまった。
面倒くささの塊みたいな内容だ。
私は、何を期待してこんなメッセージを送ったのだろう。
少し冷静になり、送信を取り消そうとしたところで、自分側の吹き出しが、少し上に押し上げられた。
‘見たい。’
左下に現れた、シンプルな返事。
引き結んでいた唇が、緩んでいくのを感じた。
更に続けて、
‘夢では見たことあるから、可愛いのは知ってるけど、生でも見たい。’
歯の浮くようなセリフ。
どこまでが本心なのか。
可愛いは、恐らくお世辞だろう。
分かってはいても、たったこれだけのことで、心が軽くなる。
やっと起き上がり、部屋の電気をつけた。
急に明るくなったので、一瞬目が眩む。
曖昧になっている着付けを確認するため、『浴衣 着付け』と検索する。
部屋は散らかったままだ。
夢女と王子様 富田 りん @rin-tomita
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