第23話 霧の巨蛙、消えざる跳躍

 霧蛙はその巨体に似合わない静けさでアルスたちを睨んでいた。その大きな目はまるで周囲の霧と一体化したかのように光を吸い込んでおり、その視線だけでもプレッシャーを与えるほどだった。


 アルスは剣をしっかりと握り、霧蛙の動きを見据えた。霧蛙はその場でほとんど動かず、湿原の水面に大きな体を浸している。その姿からは、まるで動く気配が感じられない。


「……動きは遅いな」


 アルスは静かに呟き、ゆっくりと霧蛙の側面へと移動し始めた。泥と水が足元を取る中、慎重に距離を詰めていく。霧蛙はその巨大な頭を少しだけ動かすが、明確にアルスを追尾している様子はない。


「これは思ったより楽かもしれない」


 アルスは霧蛙の背後に回り込み、その分厚い背中を見上げながら剣を振りかぶった。狙いは霧蛙の関節に近い部分。動きを鈍らせるには最適な場所だ。


 だが、次の瞬間――。


「……くっ!」


 霧蛙の体が突然激しく震えると、粘液が大量に噴き出した。霧がその粘液と混ざり、一気に霧散する。アルスはその勢いに目を細め、手で顔を覆うが、次には目の前の霧蛙の姿が消えていた。


「消えた……?」


 アルスはすぐに警戒態勢を取る。湿原に響いたのは、霧蛙が飛び跳ねるような鈍い音だけ。だが、それがどの方向から聞こえたのか判別がつかない。


「どこだ……!」


 アルスが視線を巡らせていたその時、肩の防具に何かがヌチャリと付着する感触が伝わった。


「なに……!」


 彼はとっさに肩を押さえ、粘り気のある糸状のものが防具に絡みついているのを確認した。それは霧蛙の舌――湿原の霧を突き抜け、どこからともなく飛んできたものだった。舌は強烈な力でアルスを引っ張ろうとしていた。


「くっ……!」


 アルスは足を踏ん張り、舌に絡みつかれた防具を片手で押さえながら必死に引き戻そうとした。彼の腕に力がこもり、筋肉が隆起する。全身の力を込めて舌の引っ張る力に抗うが、その力は想像以上だった。


「なんて力だ……!」


 粘着質の舌は防具を完全に掴み、湿原の地面に叩きつけようと引き寄せている。アルスは歯を食いしばり、全力で抵抗する。だが、湿地のぬかるみが彼の踏ん張りを許さず、足元が滑りかける。


「持っていかせるか……!」


 アルスは剣を一度地面に突き刺し、もう片方の手で防具を固定した。しかし、霧蛙の舌の力は彼の想像を超えており、ついに防具の留め具が悲鳴を上げた。


「くそっ……!」


 次の瞬間、留め具が弾けるように外れ、防具が粘着質の舌によって引き剥がされた。アルスの体が軽く揺らぎ、彼はすぐに姿勢を立て直して剣を握り直す。


「姿を隠して舌を使うつもりか……厄介だな」


 アルスは舌の方向を確認する間もなく、再び別の方向から粘り気のある舌が飛んできた。剣で辛うじて弾くが、その舌は柔軟性を持ち、簡単には切り落とせない。


 地面に目を移すと、さらに厄介な事態が広がっていた。霧蛙の子供たち――無数のおたまじゃくしが次々と孵化し、湿原を埋め尽くしている。彼らの小さな口から放たれる毒素はアルスの周囲に漂い、彼の肌をじりじりと焦がしていく。


「こいつら……!」


 アルスは剣を振り下ろし、周囲のおたまじゃくしを叩き潰すが、その数は減るどころか増え続ける。湿原のぬかるみの中では動きも制限され、思うように対処することができない。


「このままじゃ持たないな……」


 毒素による痺れが体に広がり始める中、アルスはポケットから小さな袋を取り出した。それは霧蛙のような粘性のあるモンスターを相手にするための特殊な薬粉だった。


「これで少しは時間が稼げるか……!」


 アルスは袋を開け、その中の粉を自分の体に振りかけた。薬粉は体表にまとわりついていた毒素を弾き飛ばし、粘液の影響を防ぐ膜を作り出す。


「よし……これで少しはまともに動ける」


 アルスは深く息を吸い込み、剣を再び構えた。霧蛙の舌がどこから飛んでくるかを慎重に見極めながら、次の攻撃に備える――

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