第16話 雨の誓い
ファリダット町の空が灰色の雲に覆われ、風が湿り気を帯び始めた頃、アルスとマルタは町の中央通りで向き合っていた。マルタは両手を広げてアルスの行く手を阻み、濡れた瞳でまっすぐに彼を見つめている。その小さな体は震えていたが、その瞳には強い意志が宿っていた。
「……どうして、そこまでついて来る?」
アルスの低い声が静かに響く。彼は眉間に皺を寄せ、真剣な表情でマルタを見下ろしていた。マルタはその問いに一瞬だけ躊躇したが、やがて唇を噛みしめ、涙を浮かべながら力を振り絞るように叫んだ。
「だって……アルスおじさんとの冒険、楽しいんだもん!」
その言葉が空気を震わせるように響いた瞬間、空からぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。乾いた石畳に雨粒が跳ね、冷たい風が二人の間を通り抜ける。雨音は次第に強まり、二人を包み込むように広がっていく。
アルスはマルタの言葉に目を細め、ゆっくりと顔を上げた。雨が彼の髪や鎧に滴り落ちる中、その表情には複雑な感情が交錯していた。
「楽しい……か」
その小さな呟きは、雨音にかき消されそうになる。アルスの脳裏には、マルタと過ごした数日間が鮮明に浮かんでいた。無邪気に笑い、はしゃぎ、時には泣き、怒る――彼女の一挙手一投足が、孤独だった彼の日常に色を与えたことは事実だった。
だが、彼は自分の選んだ生き方がどれほど危険で、孤独で、命を削るものであるかを痛感していた。
バスターという職業――それは、モンスターの討伐を生業とする者たちの中でも、最も過酷で危険な道だった。人里離れた荒野や魔獣の巣穴、命の危険が付きまとう場所に足を踏み入れるのが日常であり、一瞬の判断ミスが死に直結する。強靭な肉体と精神が求められるだけでなく、モンスターの生態や弱点に精通していなければ、敵を前にする前に命を落としかねない。
アルスはその過酷な日々を生き延びてきたが、それは数えきれないほどの死線を潜り抜けてきたからだ。体に刻まれた無数の傷跡は、彼の歩んできた道を如実に物語っている。だが、それだけではない。バスターの道を歩む中で、彼はもう一つの苦しみを味わっていた。
アルスがまだ若かった頃、一人では成し得ないほどの難易度を誇るクエストに挑むため、彼は信頼していた仲間たちと共に戦場へ赴いた。誰もが腕利きで、互いに命を預け合う絆を築いていると信じていた。だが、クエストが佳境に差し掛かった時、その絆は無残にも崩れ去った。
――仲間に裏切られた。
『お前だけが死ねばいい……それが依頼主の条件だ』
そう呟いた仲間の冷たい目、そして彼の背中を襲った刃の感触は、今でも鮮明に記憶に残っている。アルスは命からがらその場を逃れたが、心に刻まれた傷は消えることがなかった。それ以来、彼は孤独を選び、二度と誰かを信じないと誓った。
『仲間なんて、信じるだけ無駄だ』
その思いが、バスターとしての彼を強くした反面、深い孤独をもたらしていた。命を預けられる者がいない。それがアルスの流儀であり、唯一の戦い方だった。
楽しい――その言葉は、彼にとって余計に胸を締め付ける響きだった。
アルスの目には、マルタの無邪気な笑顔と涙が交互に浮かんでいた。その笑顔は、彼が過去に失ったものを思い出させる一方で、彼の孤独な戦い方を否定するようにも感じられた。
(俺にとって楽しいなんて感情は不要だ……だが)
彼は雨の中で視線を落とし、再び深い息を吐いた。バスターとして生きてきた自分と、マルタのような無垢な存在が交わるべきではない――そう心に言い聞かせながらも、その決意は雨に洗われるように揺らいでいた。
「お前にとって楽しいかもしれないが……」
アルスは言葉を続けようとしたが、その続きを見つけることができなかった。彼の言葉を遮るように、マルタがさらに声を張り上げる。
「楽しいだけじゃないよ! アルスおじさんと一緒にいると、安心するし、嬉しいし……」
雨音の中でマルタの声は途切れ途切れだったが、その感情の強さはアルスに伝わっていた。小さな手を握りしめながら、マルタはもう一度顔を上げる。
「でも……もし本当にダメなら、家でおとなしくする! 冒険にも行かない! アルスおじさんの言うこと、ちゃんと聞く!」
その言葉を聞いた瞬間、アルスは心の中で揺れ動くものを感じた。彼女がどれだけ本気で自分に従おうとしているか、それが伝わってきたからだ。
雨はさらに強まり、二人の周囲を雨粒が包み込む。アルスはマルタをじっと見つめ、その瞳の奥にある無邪気さと強さを見つけた。彼の表情は読めないが、その目にはかすかな温かみが宿っていた。
「……本当に、約束できるか?」
アルスの問いに、マルタは力強く頷いた。
「うん! 約束する!」
その声に嘘はなかった。アルスはしばらく彼女を見つめていたが、やがて目を伏せると、小さく息をついた。そして、彼女の横を無言で通り過ぎ、雨の中を歩き出した。
「……家に帰るぞ。風邪を引くからな」
その言葉は短く、そっけないものだった。だが、マルタの顔には喜びが浮かんだ。彼女は雨に濡れた髪を拭いながら、嬉しそうにアルスの後ろを追いかける。
「うん! 一緒に帰る!」
雨の中、二人は静かに家へと向かう。アルスは前を歩き、マルタはその背中を追いながら、にじむような雨粒の中に微かな希望を見出していた。二人の足跡は石畳に刻まれ、やがて消えゆく雨音の中に溶け込んでいった――
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