「鳥の飛ばない天地の挟間」24
23 鳥の飛ばない天地の挟間
「地敷大神、地返之大神、塞り座す黄泉戸大神、黄泉比良坂に座して千五百の黄泉軍を防ぎし十拳の剱持て、我に地返しの彌玉振りて地敷の彌玉振り、汝が背おきて祝わしむ、誰が背おきて祝わしむ、―――――」
藤沢紀志の唱える祝詞が、静寂に闇に響く。
それは祝詞なのか、それとも。
音が殷々と響いていく。
―――ちしきのおおかみ、ちがえしのおほかみ、さやりいますよみとのおおかみ、よもつひらさかにいましてちいほのよもついくさをふせぎしとつかのつるぎもて、われにちがえしのみたまふりてちしきのみたまふり、ながせおきていわわしむ、たがせおきていわわしむ、――――
繰り返す祝の詞は闇に重なるようにして響き、遠くからちかくから、二重に、三重に、あるいは十重二十重に、繰り返し響いていく。
藤沢紀志の白い容貌は無表情に整い、その横貌の鋭い美しさが神がかって闇に映えていくように思えるのは、何故なのか。
あるいは、神に近く、神子として神に捧げる詞を唱える為なのか。
藤沢紀志の声は、闇に低くしずかに地を渡っていく。
月は、そして、―――――。
動きをとめていた。
藤堂の傍らに片膝を即き、低く美しく響く声でしずかに続けていく。
「―――地敷大神、地返之大神、塞り座す、黄泉戸大神に、伏して奉る。我、黄泉比良坂に於いて我の唱えし詞に依りて、道を塞ぎ座し、礎の石となりて現れせしめ、幾久しき詔の思し召す処に於いて、汝が往きて幸い、背が往きて幸い、十重二十重にしろしめす詞であれば、千の約定に千五百の誓約いありてしにより、俄に此れ天にしろしめす。詔の正しき由縁を此れにもちて詞とし、我、大神に奉る。―――」
篠原守が無言で月を仰ぐように立ち、背に藤沢紀志を庇うように立ちながら、そのしずかな詞を聴いて無言でいる。
倒れている藤堂の顔色は白く、耳にその声が届くとも思えぬが。
構わずに、藤沢紀志の声が続いていく。
白くほそい指が地に差し伸べられ、そのゆびさきが地にふれる。
その声は、はたして、誰に聴かせているものなのか、――――。
「地返之大神、地敷大神、詔によりて、我遣わしむ。―――」
月に闇が大きく落ちる。
もう月は、音も無く落ちるまま闇に周囲を総て呑み込んでいる。
動きをとめているとはいえ、―――。
月の闇に包まれた世界に、藤沢紀志の声がしずかに響いていく。
静止した月。
背に大きく闇を抱く月の影に世界が包まれるその中で。
迫る月影を、篠原守が迎えるように無言で唯見詰めている。
その篠原に簡単に背を護らせて、つづけるのは。
「地返しの大石をもて、黄泉戸の境を塞ぎ座す大石として、黄泉戸を塞ぐ大石に於いて、此を塞ぎ座すことを命ず、――――」
藤沢紀志の声が闇に響く。
藤堂の意識を取り戻さぬままの容貌に、耳朶がわずかに。
あるいは、瞼が僅かに動いたかとおもえたのは、―――。
―――月が、…。
「黄泉戸の塞し座す大神の名に於いて、我此処に詔正しく在るものを在るように善きことを善きことに言祝ぐ。道を返し、地を返し、大石の戸として塞ぎ座し奉る。此処に黄泉戸大神を奉りあげて、地の鎮め、道の鎮め、境のまったき善きことの定めと為す詔を持ち、我、此の境をいまし塞ぎて塞き座しの大石を宣詔奉る。…―――」
浪々と響く声は、暗闇の境をわからぬほどにしている月の翳が落ちる中で、揺るがぬ響きで地を闇を渡っていく。
藤沢紀志が、しずかに微笑む。
「さて、長々と祝詞など唱えてみたが」
「…ふ、ふっちゃん?…?」
まさかここで?と振り向いて目を見張る篠原に、視線を合わせて藤沢紀志が応えてみせる。
しずかに、穏やかに、そして不敵に。
「いままでのは、手続きというか、伝統という奴だな」
「…―――ふ、ふっちゃん、…」
あきれとその他を絶妙にブレンドした篠原守の表情に深く笑む。
「要は、世界を渡る法則などというものは、単純に気合いだということだ。面倒な手続きも祝詞も何もかも、要は唯一つの目的に沿ってあるだけだといっていい」
「…――ふっちゃん、…」
少しばかり、頭痛を憶えるように篠原守が額に手をあてる。
「それって、ぼくの気合いとか、覚悟とか、色んなものの出番は?」
「ないな」
あっさり云い切って、篠原に微笑んで。
それから、手を、意識を失ったままの藤堂に向ける。
「…ふっちゃん、―――?」
「目を醒ませ、藤堂、…!」
おまえはとうに、と。
耳朶に藤沢紀志が告げる。
「――起きることができるはずだ、…」
しずかな確信と。
残酷な響きを持って。
「おまえの世界が滅んだことを、おまえはすでに知っているのだから」
玲瓏と響く声は、とても残酷で。
世界の終わりを、何の解釈もなく、それだけのことだと。
優しく繕う何ものもなく、その声は告げていたのだ。
「藤堂、おまえの悪夢は、目覚めても消えはしないだろうが。世界に唯ひとり取り残されて、おまえ以外の世界は滅んだ。…――もはや、落ちる月さえも、おまえの悪夢の中にしか存在してはいないように」
「…―――…、」
くるしく、藤堂の眉がうごいた。
苦しむようにくちもとが動き、何かを云おうとしていたのか。
その姿を前に、ふいに何かが消えて、篠原守は振り向いていた。
「…―――あ、きえた、?」
闇が失われ、光がもどる。
そう、そのそらに、――――。
月は、消えていた。
地に迫る、闇を纏い落ちる月は。
その姿を消して、唯日常の大空が、そこにはもどってきていたのだ、――――。
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