「鳥の飛ばない天地の挟間」20

 そして、月は。

 二度、夜に現れて、――――今度は、夜空に静止したように浮かび、…――。

 消えなかった。












15 藤堂 4



 ぼんやりと白い沙――月の沙漠を前に考える。

 いや、考えているのか?

「…おれは、――なにか、…―――。」

何をしていたんだったろう?

 シフトは、…―――。

 休暇が、そうだ。…

「…診察、…?面談、…―――」

 先に藤原医師と約束した一ヶ月面談、…。

 月に来て、着任して一ヶ月頃に行われる心理面に重点を置いた医療面談が、…―――。

 藤堂は、額を押さえて俯いたまま呟いていた。

「…おれは、―――」

 不意に、白く無表情な、無情といっていい人物の容貌が脳裏に浮かぶ。

 …―――藤沢紀志、…?

 それは、しらないはずの人物だ。

 生きていたときに、知り合いではなかった、…――。

「生きていた、…?」

 己の思考、その行く先におかしくなってつぶやく。

 苦笑しているような、それとも。

「おれは、…生きて、…るよな?」

 視線をあげて。

 白い隔壁と、硝子の向こうに永遠に続く白の沙漠。

 昏い天に動きは無く、白沙を動かすなにものもない。

 …―――月に風は吹かず、…。

「鳥は飛ばない、―――」

 そうだ、鳥は飛べない。

 空気が、翼を支える大気が月には存在しないのだから。…

 藤堂が視線をあげる。

 ――鳥の飛ばない天地の挟間に。

「…おれは、――――」

 あれは誰だった?

 無表情に、非情に藤堂に終わりを告げたあの声の持ち主は?

 …―――あれは?

「おれの、知りたいことを、…しっている、と、…―――」

 それはわかっていたのだ。

 月の、月に人の住む世界から。

 …月にひとの住まない世界へ、――――。

「…ここは、――――」

 藤堂が天を振り仰ぐ。

 其処には。


 青空がある。

「…何、が?」

 藤堂が茫然とみあげる空に。

 其処には、地球、地上に棲む人々が見慣れた空が。

 青く筋雲が白く果ても無くみえる有限の大空が。

「一体、…―――。」

 異変は、同じ頃、地上でも目撃されていた。

 それは、確実に。

 幻でなく。

 SNSに刻まれたフェイクですらなく、幻影でなく。

 残念ながら。


 唯の事実として、其処に存在していた。…―――


 月の巨大な姿が、地表面との間に。

 既に存在している月ではなく。

 ひとつの巨大な月が、地球の地表と空の間に。

 大気圏内に、何の予告も無く、重力異変もなく。

 幻のように大きく浮かぶ月が、忽然と空と地の間に現れていたのだ。

 世界に、驚愕と。

 信じられないものを前に、驚きと唖然とした感情のまま人々が見あげる空には、巨大な月が浮かんでいたのだ。

 地球の軌道上にある衛星の月。

 もし、本来その月が地表に落ちてきたとするなら、破壊と多くの悲劇が襲うのだろうが。

 幻の如く。

 けれど、消えることなくその月は。

 地表と天の間。

 そこに、巨大な月が浮かんでいた。




16 橿原




「あら、困りましたねえ、…」

少しも困った感情を伺えない様子で、おっとりという上司。

橿原に、真藤が視線をおいていう。

「本当にそう思っておられますか?」

橿原の就く古い見事な樫材の良く磨かれた飴色のデスクと。

同じく古い洋館に特徴的な格子窓が長く飴色の木枠をみせる傍に佇んで。

真藤がゆっくりと橿原を咎めるようにみていうのを、不本意だというようにすねて橿原が見返して。

「いやですねえ、…。いくら予測されていたこととはいえ、ぼくだって、月がいきなり空中に浮かんでいたりなどしたら、困りますよ?」

「本気でおっしゃってはいないでしょう」

あきれと諦めが絶妙に表現された視線を淡々と橿原に置きながらいう真藤に。

「…あら、少しは本気ですのよ?」

「…―――少しでしょう」

「そうはいいますけどねえ、…。例の観測機器を確保しなおして、漸く落ち着いたかと思いましたら、…」

「その観測装置から、異常が既に報告されていましたからね?」

「勿論です。…対策は取りましたけど、限界がありますからねえ、…。あんな異常が観測されれば、現実に此方の世界でも異常が観測されてしまっても、仕方が無いというものですよ?…まあ、それはねえ、本来なら、藤沢さんの処で全部収めてくだされば、一番有難かったのですけれど」

「禰宜の藤沢管理官ですか。」

しみじみと真藤が視線を置くのは、何に対してだろうか。

「…あら、同情なさってますの?」

不思議そうに真藤を振り仰ぐ橿原に、ため息を吐く。

「あらあら、真藤くんがためいきなんて、珍しいこと」

「―――したくもなるいうものです」

そうかしら?とくびをかしげる橿原が、本当に悪気なくそうおもっていることが理解できて、真藤は空を見あげる。

 多くの刻を、大人として部下達や若者達に比べれば生きてきたといえる真藤であっても。

 穏やかで物に動じず、この国の警察組織に於いて、それなりの地位にいることにいまなっている真藤にとっても。

 …――とおく、空を眺めてみたくなることはあるのだ。

それが何の解決ももたらさず、時間を少しばかり浪費するだけのことだと知っていても。

 否、それを知るからこそ、既に空白の時間にすら、打てる手は既に打ち、いまこの上司の傍らに侍する時間はその既に撒いた結果を待つ為の待機の時間だから、という状況を作り出してもいるのが。大人になったということなのだろう。

 現実が、明日を無事に迎える為だけにすら。

 本当には唯この瞬間、若者の――それも、まだ十数年しかこの世に生きていない高校生達の肩に乗っているのだという事実を。

 その事実を支える為に、―――。

 幾らかの補助を、明日も世界が続くために、単純な手助けを出来る範囲で終えてしまっているからこその。

 いま此処で、空を仰ぐ時間なのだが。

「きれいにみえますことねえ、…」

 上司の、橿原ののんびりというさまに。

 真藤もまた窓外を仰ぎ、その光景を見詰める。

 薄く青空に白く筋雲が。

 そして、世界は。

 地表にいる殆どすべての人がいま振り仰ぐのは。

「昼に見る月は白いといいますけれど、」

 橿原がのんびりとくちにするのが。

「昼に月が、白くこれほど巨大にみえますなんて、不思議な光景ですねえ」

 見あげる空に。

 真藤が窓の傍らに立ち、橿原は頬杖をデスクについたまま、ゆったりと見あげる空には。

 高層ビルの隣りに。

 白く巨大な月が浮かんでいた。



 月が。

 




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