第5話 奏鳴曲 | ソナタ
「ごめん!」
祐介は私に向かって思い切り頭を下げる。行き交う車の騒音であまり声が聞こえず、私は思わず祐介の側に近寄った。
「なんでここにいるの?」
「琴子にちゃんと謝りたくて。この辺に住んでるって友達に聞いたから来てみた」
この人に私の居場所を教えた友達は一体誰だ。
私はもう、祐介と離れて新しい道を歩み始めている。やっと祐介のことを誰かに話しても涙が出なくなったし、祐介がいなくたって楽しく働いて暮らしている。
それに、嫌だったあの無音のワンルームマンションにだって、今なら帰れそうな気がしてた。
ようやく、あなたの呪縛から解き放たれようとしているのに。
「本当に俺がバカだった。八年も琴子と一緒にいて、一緒にいるのが当たり前になり過ぎてた。何も言わなくても俺のことを分かってくれるのは琴子だけだって、気が付いたんだ」
「祐介……」
「だから、本当にいくらでも謝るから、もう一度やり直してほしい。今度こそ結婚したい」
祐介の声も手も、私から見ても分かるくらい震えている。
頭を下げているから顔は見えないけれど、彼の目からは涙がこぼれ落ちているような気がした。
「祐介、やめてよ」
「やめない。琴子が許してくれるまで、何度でも来る。だって八年間も一緒にいたんだし、東京でも二人でたくさん思い出を作りたい。すぐにとは言わないから、まずはまた俺の彼女になってくれないかな」
祐介は顔を上げ、私の両腕を掴んで必死に訴える。
怒るべき? 泣くべき? 何事もなかったかのように笑って受け入れるべき?
でも、私にはもう分かる。
私がどうするかは、私が決める。
誰かに合わせて生きて、嫌なことがあったら全部誰かのせいにして――そんな人生はもう嫌だ。
無音の空間から自分の意志で抜け出して、私は自ら音のある世界に飛び込むんだ。
「ごめん、祐介。もう、終わったことだよ」
「琴子……」
「私はもう祐介とはお別れした。今の部署で仕事を頑張ってみようと思ってるし、一人暮らしもなかなか楽しいよ。まだ東京に来て半年で慣れないこともいっぱいあるけど、負けずに自分で自分の世界を作っていこうと思ってる」
「だから、それを二人で一緒にできないかな?」
「ううん、無理だよ。私はいつの間にか、祐介とは別の世界に来ていたみたい」
今度は私が祐介にペコリと頭を下げ、くるっと背を向けて歩き始める。
(あれ? あそこにいるのは)
歩道橋の階段を下りたところに、黒い服に身を包んだくせ毛の男性が立っていた。夜の闇に隠れて直前まで顔は見えなかったけど、遠くからでもそれが誰なのかすぐに分かった。
「大樹さん!」
車の音にかき消されないように大声で名前を呼んで、私は階段を駆け下りた。
「お店は? どうしたんですか?」
「琴子さん。このまま一人で家に戻ったら、アイツついて来るよ。元カレでしょ?」
「え? ああ……実はそうなの」
「せっかく来たのにすぐに店を出ていくから、ついて来ちゃったよ。一緒に店に戻ろ」
大樹さんは私の手を握って、強引に店の方向に歩き始める。祐介のいる歩道橋は通らず、わざと遠回りをして。
歩道橋の上に目をやると、祐介がこちらをぼんやりと見ていた。
「琴子さん。今日の曲は愛がテーマなんだけど、何かリクエストある?」
「……雨だれ」
「うん、いいよ。雨だれ、弾く」
「えっ、本当にいいの? テーマは雨じゃなくて愛なのに?」
足早に歩いていた大樹さんが、突然立ち止まる。
振り向いて私を見つめる瞳は、まるで水面に映る月のようにゆらゆらと潤んでいた。
「俺にとっては、雨だれは愛の曲でもあるんだけど。ショパンが恋人のジョルジュ・サンドと一緒にいた時に生まれた、愛の曲だよ。それに、琴子さんあの曲好きでしょ?」
「……うん、大樹さんの雨だれ大好き」
「ほら、雨だれって
雨だれのように優しい言葉が、私の心に少しずつ染み渡っていく。
大樹さんは私の手をもう一度しっかりと握って微笑んだ。
―――
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