Side:川野 葵

2022.6月8日



「まま、見てー!100点!」


「あら、すごいねぇ。よく頑張ったね。葵はお母さんの自慢の娘ね」



 そんなあの一言が。

 そんな明るい過去が。私の中に残り続ける。


「お母さん、私、頑張ったよ?お母さん。ねぇ、私を見て」


 大きな窓から夕陽が差し込む薄暗い部屋の中。カーテンを揺らす風だけが、私に触れる。

 静かで物が少ない、そんな大きな部屋の、一つのテーブル。

 そこで揺れる数枚の紙切れが、無駄に大きいこの部屋が、無性に私を孤独にする。


「お金なんて、、要らない」


 こんな紙切れよりも手紙が欲しい。

 手紙よりも笑顔が欲しい。

 笑顔よりも愛情が欲しい。


 ねぇ、お母さん。いつから変わってしまったの。 

 いつになったら戻ってくれるの。

 私は何も、変わってないのに。




「お、川野。また勉強か?」


 騒がしかった教室に人影はなくなり、私のノートを開く音が響く。そんな教室に、ある一人の教師が顔を覗かせた。


「お前、隈できてるぞ。成績がそんなに重要か?」


「そうですね。前のテスト、間違えましたし」


 だって私には方法がわからない。勉強以外の、私を認めてもらえる方法が。

褒めてもらえる方法が。

 だからたった一つの小さな過去に、記憶に縋っている。


「前のテストってお前、、98点の一問ミスだろ?」


「っ98じゃ!!、、、駄目なんです、、」


 100じゃなきゃ駄目なんだ。

 また褒めてもらうには、見てもらうには。


「まぁ勉強も大事だが、友人も楽しみも青春も、人生には大事だぞ。ほら部活とか、興味ないのか?」


 部活、友情、青春。そんなものには


「興味ないですね」


 私は荒く椅子を引き、教室を後にする。私を呼び止める先生の声なんて聞こえないふりをして。

 ねぇお母さん。

 私はただ、また笑ってほしいだけなんだよ。



「あ!川野さん。ちょっといいかしら」


 乾いた風が木々を揺らす、そんなある日。

 また一つの私を呼ぶ声が聞こえた。


「なんですか」


 いいからもう、独りにして。


「あなた、その、、。お家のこととか、何か困っていることはない?」


「っ、、いえ。特には」


 どうして皆、離れる私に触れるのか。


「私ね、何度か家庭訪問に伺っているの。一度も会えたことは無いのだけれど。あなたのお家、母子家庭よね。お母さんは何時ごろまで働いておられるの?ちゃんと家には、帰っているわよね?」


 うるさい、、っ。

 家には帰ってないですよ。夜も、朝も、私が誕生日の日だって。

 ただ働いて、私がいない間にお金を置いて、出て行って。

 顔も目も合わせてくれなくて。

 連絡も、声も届けてはくれなくて。

 そんな、そんなお母さん。

 でも、それでも私は、、っ。


「川野さん?」


「っ大丈夫ですから。それでは」


 私は、服の裾で涙をぬぐって走った。見慣れた校舎を、何処に行きたいかもわからずに。

 外から聞こえてくる楽しそうなその声も、つらいほどに晴れたその空も、望まぬ善意を向ける教師だって。皆が私を否定している。

 もうやめて。

 私なんて、放っておいてよ。



「はぁ、はぁ」


 晴れた屋上に風が吹く。私の涙を乾かすように。 

 私はドアにもたれて座り込んだ。


「お母さん」


 私ね。そんなお母さんが大好きよ。

 だって、あなたは優しいだけだから。


『葵』


 あなたの声も顔も笑顔も、忘れられないほどに。


『あなたっ。どうして、、』


 もう私は覚えていない、お父さんが死んでしまった時だって。


『葵。私が、守るからね。貴女の幸せは私が』


 目をはらして、鼻をすすって、まともに寝ないで。

 それでも、あなたはずっと優しかった。


「いやだ!私このお家がいい!」


『、、そう。それが、貴女の幸せなら。私は守ってあげなきゃね』


 小さな私のそんな我儘を、無理して守っているわよね。

 こんな広い家、もういいから。

 家も学費も服も何もかも、昔から私に不自由は無かった。ただあったのは、寂しさだけ。

 ねぇ、服なんて私は要らないから。

 ただ私を孤独にするだけの、あんな広い家なんてもう要らないから。

 もう、守らなくていいから。

 だからただ、一緒にご飯を食べたい。

 テレビを見たい。

 学校の話を聞いてほしい。

 だから、まずは話をしようよ。お母さん。

 私の気持ちを聞いてよ。お母さん。


「ごめんね、お母さん」


 私の自分よがりな我儘なんてもう、忘れてよ。






 今日も静かで暗い部屋の中。


「おかえり」


 なんて言葉は聞こえてこない。静かで暗い、部屋の中。


「今日は疲れた」


 鞄を置いて、上着を脱いで、ネクタイを外して。私はベッドに倒れこむ。

 少し響いたベッドのきしむ音。

 私は額に手を当てて、目を閉じた。

 このまま、ずっとこのまま眠ってしまえたらいいのに。私にだけ都合のいい、知らない世界の夢を見ていられたらいいのに。

 ずっと、ずっとこのまま。


“ブー、ブー”


 私の肩がびくりと跳ねた。まるで現実に引き戻されるように。

 体を起こす気にはなれなくて、横目で机を見る。 

 そこには暗い中に光るスマホと、鳴り響くバイ

ブ音。


「誰?」


 知らない電話番号。私に電話をかける人なんて、いないはずなのに。  

 私はスマホに手を伸ばした。

 その白く光る画面から聞こえてきたのは、知らないある女の人の声だった。


「__え?」








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