カスミ・ツバキ

翠野みとこ

第1話 幸せ

 せっかくのお祝いなら、大きな花束が欲しい――そう言い出したダリアを連れて、わたしは人生で初めて花屋を訪れた。父や母は「花よりも食べ物がいい」という人だったから、他人に花を贈る機会など今まで一度もなかったのだ。

 店の内外に並ぶ色とりどりの花たち。その中から迷わず一輪を抜いたところで、一通り花を見て戻ってきたダリアが声をかけてきた。


「レナちゃん。お花はもう決まった?」


 わたしが手に持っていた花を見て、ダリアは満面の笑みを浮かべた。これを選んだ理由など聞かなくてもわかるだろうに「どうしてこのお花なの?」とわざとらしく首を傾げるのが可愛くて、こほんと咳払いしてから答える。


「ダリア。あなたと同じ名前の花よ」


 安直もいいところだがこれ以外にないと思った。わたしたち二人のための花束なら、きっと欠かせない花になるはずだ。


「……ふふ、やっぱりそうだよね。私も同じこと考えてた」


 ダリアが後ろに隠していた花を胸の前に持ってくる。

 白くしなやかに伸びた花。それは奇しくもわたしと同じ名前を持つもの。

 わたしはこの花のように気高く、美しくはない。けれどダリアは事あるごとに「百合乃レナ。私、綺麗なレナちゃんの名前が好き。ユリだって貴女によく似合ってるわ」と言ってくれた。だから自分のこともユリのことも、少し気後れはすれど嫌いではない。


「じゃあ決まり。すぐに買って帰ろうか」


 ラッピングを待つ間、腕を絡ませてきたダリアは顔を赤らめながら囁く。


「レナちゃん」

「ん、何?」

「ごちそうの前に、あれ……しちゃおうか」


 思わず財布を落としそうになったわたしは、焦って彼女の肘を小突いた。



 手を繋いで家に帰る。そして荷物を放り出して花束だけを抱えて。オレンジに染まる部屋の真ん中で、お姫様みたいにくるくる回った。子供っぽいとか恥ずかしいとか、この時はそんなこと頭に過ぎりさえしなかった。


「それじゃあ、しよっか。約束」

「うん」

「私は誓う。レナちゃんとずっと一緒に、ずっと幸せに暮らします」


 ――幸せになりに来た、と。

 初めて出会った時、ダリアはそう言っていた。

 今この時、そしてわたしと共に過ごすこれからが、彼女にとっての【幸せ】だと言うのなら。


「……わたしも誓う。ダリアとずっと一緒にいたい、幸せになりたい」


 観客は時計の鳩と、箪笥の上にいるマスコットのゴロ丸だけ。鳩が五回鳴いたのを合図に、わたし達は誓いを立てた。


「ありがとう。……レナちゃん、大好きだよ」


 柔らかくて暖かい、春風のような優しい声。わたしの大好きなその声が、永遠を誓う約束を紡いでくれる。これ以上の幸せをわたしは知らない。


「……うん、わたしも」


 感極まったわたしはダリアに抱きつき、静かに涙を流した。

 愚かなわたしは、この出来事が真実であり、そしてずっと続くと信じていた。

 ――その約束が、彼女の死によって裏切られるとも知らずに。


          *


 茫洋とした思考の海。その水面が静かに揺れた。

 散らばっていた思考が形を成していく。そして、幸福な思い出の終わりを告げる鐘が鳴った。

 ――意識の端にかかったインターホンは、一定の間隔で鳴り続けている。


「……うる、さい」


 僅かな体力をもって起き上がり、壁に寄りかかりながら玄関へ向かう。

 実家の両親や大学の友達、辞めてしまったバイト先の上司……この中の誰かが、また自分を心配して来てくれたのだろうか。二ヶ月も経った今となっては、有り難さよりも申し訳なさの方が勝る。

 しかし、扉を開けた先にいたのは、そのどれでもない人だった。

 赤みがかった髪に緑豊かな瞳、日本人離れした白い肌の見知らぬ男。その意志を持った視線が、じっとわたしを見下ろしている。


「あ……」


 寝起きの脳が理解する前に、男は内鍵がかかった扉の隙間からスマホを入れ込んできた。無機質な声が響く。


『ダリア・シャネルの家はここですか』


 反射的に頷いた後、わずかな沈黙が流れる。はっとなったわたしは自分のスマホを取りに寝室へ戻った。歩きながら翻訳アプリに文字を打ち込んで、音量を上げて彼に返事する。

 外国人と思われる男の名前はわからない。けれど、どうしてここに来たのかは予想できる。


『あなたは、ダリアの弟ですか』


 男は瞠目した。瞳の奥に広がる森林がざわめいたように。

 静かに頷き返した彼を見て、とうに枯れたはずの涙が込み上げてくる感覚を思い出してしまった。



 散らかりっぱなしの部屋に他人は上げられない。アパートの向かいにあるファミレスで待っているように、とだけ伝えて急いで身支度を整え、家を出る。

 久しぶりの町は随分と色褪せて見えた。空も飛んでいる烏も、停まっているバスでさえも。切り取られた白黒写真のように、時が止まったかのような。

 形は何一つかわっていないはずなのに、何故。

 ……答えはもう知っている。

 色を無くしてしまったのは、変わってしまったのはわたしの方だった。


「……馬鹿だな、わたし」


 乾いた風が梳いた胸を熱くする。言いようもない虚しさが込み上げてくる前に、どうにかファミレスまでやって来た。

 中に入ると、彼が何処にいるのかすぐにわかった。大きなキャリーケースを持った外国人は、店内で少し目立っていた。

 わたしが彼の向かいに座ると、ちょうどウェイトレスが通りかかり、すぐにお冷やを持ってきてくれた。コーヒーをお願いしてから、とりあえず「ボンジョルノ」と言ってみる。……気まずい時間が流れた。


 ウェイトレスが二人分のコーヒーを運んできた後で、スマホ越しに挨拶をしてから本題に入る。

 ダリアから聞いていたので知ってはいたが、彼は自身をカルロと名乗った。


『ダリア……姉が亡くなった時のことは、父と母から聞きました。本当に悲しい。未だに信じられません。彼女が死んだなんて』


 湯気の向こうで目頭を押さえるカルロさんを見て、わたしは静かに頷く。

 わたしは心底思い知った。永遠なんてありはしないのだと。だって誓いを立てて数ヶ月で、彼女は死神に連れ去られてしまったのだから。

 ダリア・シャネルは――わたしの親友だった女の子は亡くなった。

 仲秋、満月が輝いていた夜に。

 歩道橋から落ちて、帰らぬ人となってしまった。


『私がここに来たのは、彼女の遺品を受け取ってほしいと頼まれたからです』

『遺品ですか。それらの話はもうご両親と済ませたかと思うのですが』


 事件の後、すぐにダリアの両親から連絡があった。二人は国を離れられないため、葬式や埋葬の段取りなどは全て日本に住む友人――ダリアを日本に連れてきた人でもある――に一任していること、娘の私物は全て処分してくれて構わない、とのことだった。

 カルロさんは真剣な表情でスマホに向き合い、入力し終えると画面に指を強く押し当てた。それとは裏腹の、感情のない機械音声がメッセージを淡々と告げる。


『私が父と母に言ったのです。姉は日記をつけていたはずだと。そうしたら、それだけでも回収したいと』


 心臓が、飛び出るかと思った。

 手の震えを誤魔化そうと、まだ熱いコーヒーを流し込む。

 日本語でどのように取り繕ったとしても、翻訳という塗り替えの前では無意味だろう。だから言葉は飾らない。


『ごめんなさい。日記のことは、何もわかりません』


 これは嘘だ。ダリアは日記をつけていた。パソコンでワードに打ち込むだけの簡素なものだったが、毎日欠かさず書き続けていた。

 そして彼女はこうも言っていた。


「これは誰も見ちゃだめなの。私と私の交換日記だから。家族も私が日記を書いてることは知ってるけど、見せたことはないの」


 パスワードをかけて、開いたまま放置したことはなかった。見る機会があっても見なかっただろう。人のプライバシーに勝手に触れてはいけないのだ。


「……でも、その時が来たら、レナちゃんだけは見ていいよ」

「え、いいの?」


 家族にすら見せたくないのに、わたしは構わない。その時のわたしはそのことが少し、いや大分嬉しくて、にやけ顔を誤魔化すのに必死だったことを覚えている。


「うん。パスワードは……いずれわかるわ。恥ずかしいけど、貴女には私のことを知っていてほしいから」


 ……日記のパスワードは未だにわからず、ましてや見る気にもなれなかった。

 だから、内容はわからないのだけれど。やはり生前の遺言は守られるべきだと思うのだ。

 そういうわけで。日記のことは知らない、で通すことにしたが……正直、バレていないか不安だった。肉親に嘘を吐くのは気が引けるが、ダリアを裏切りたくはない。

 音声を聞き終えたカルロさんは、静かに目元を抑え俯いた。じりじりと胸の痛みが強くなる。

 肩を震わせて泣く弟さんを見ていると、ダリアの家族は本当に仲が良かったのだろうと思う。

 両親と弟、そしてダリア。彼女はよく、わたしに家族の話を聞かせてくれた。幼い頃の些細な出来事や、誕生日パーティは必ず行うことなど、楽しそうに語る姿を見るのはわたしも好きだった。

 カルロさんが落ち着くまでわたしは沈黙を貫いた。やがて彼は顔を上げて、スマホに言葉を綴る。


『姉は幸せになりたいといって祖国を出ました。……ダリアは、幸せでしたか?』


 ――わからない、と言ってしまいたかった。わたしといて本当にダリアは幸せだったのかな。最期にあんな死に方をして、あの世で幸せだったなんて笑えているのかな。

 言い淀むわたしをみかねてか、カルロさんはまた長文を打ち込んでいく。


『貴女がいてくれてよかった。貴女は姉のことを思って、ずっと泣いてくれた。きっと彼女は幸せだった。だから――私も、幸せになりたいと思います』



 すぐに国へ帰るというカルロさんを空港行きタクシーに乗せ、遠くなっていく自動車をぼんやりと見つめる。


「……幸せ、か」


 なくなったものは二度と元には戻らない。わたしの幸せは失われてしまった。けれど――。


「いつまでも、ずっとこのままっていうのも、許されないんだろうな」


 いつかは区切りをつける日が来るのだと思っていた。彼女の弟と出会えたのは、今日がその日だったということなのだろう。


「――よし」


 帰路についていたのを翻して、わたしは歩き始めた。

 ……二人で花束を買った、あの花屋に向かって。

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