11:World Champion Crab Style

工場跡地を改装した「青波ジム」は、週刊格闘技の記者たちを悩ませている。先月の世界チャンプ、トニー・"ザ・クラブ"・ジョンソンも、ここの出身だ。彼のファイトマネーで新調されたショーケースには、キラキラしたベルトが収められている。横の張り紙には「取材お断り」と達筆で書かれているが、今夜も何人かの記者が外をうろついている。


床の隅に開いた直径30センチほどの穴から、毎晩決まった時間にカニが出てくる。これこそが、青波ジムの強さの秘密だ。とはいえ、世界チャンプを育てる秘伝の技が「深海生物の真似」というのは、いささか格が落ちる気もする。しかし、効果は実証済みだ。入会希望者は後を絶たない。


「あれが『甲羅返し』だ」


私は新入生に告げる。トラフカラッパという種類のカニが、ハサミを胸の前で組み、中国拳法家のような仕草で歩いている。実物の3倍ほどの大きさがあるが、この教室で唯一科学的な説明が可能なのは、換気扇の軋む音くらいだ。


「でも、なんでカニの真似なんですか?」

「さあ。でも世界チャンプは3人出てるよ」

「それは本当に因果関係が...」

「さあ」


壁には歴代チャンピオンの写真が飾ってある。どの選手も試合後のインタビューで「これはカニから教わった技です」と語り、業界の笑い者になった。しかし、勝者の言葉は何であれ尊重される。今では「カニのように動く」が褒め言葉として定着しつつある。


記者たちは様々な推理を展開している。地下水脈の影響で幻覚を見ているとか、秘密の薬物を使用しているとか。先日は科学ジャーナリストが潜入を試みたが、カメラの調子が急に悪くなり、録画は全て潮風で消えたような波打つノイズになった。私たちとしては、取材を断る理由として好都合だ。


現チャンプのトニーは今夜も練習に来ている。彼の右手は既に缶切りのような形に変形しているが、誰も気にしない。むしろ後輩たちは熱心にその形を真似ようとしている。総合格闘技の世界では、勝てば官軍だ。手が蟹のハサミに似ていようと、関節が逆に曲がろうと、勝利には代えられない。


「コーチ、僕も世界チャンプになれますか?」

「カニの動きを完璧に真似れば、たぶんね」

「科学的な解説は...」

「そういうのは諦めたほうがいい。メディアも諦めたしね」


穴から這い出てきた三匹目のカニが、急に組手の型を始めた。私は古びたノートを取り出し、記録を取ろうとする。しかし、紙が潮を含んだように柔らかい。私の指も妙に長くなっている。まあ、世界チャンプを3人も輩出している道場の講師なのだから、多少の身体変化は想定内だ。


稽古場の隅では、新入生の右手が既にカニのハサミに似た形に変わり始めている。上達が早い生徒は体の変化も早いのだ。窓の外では、盗撮を試みる記者のカメラから海水のような液体が滴り落ちている。


明日の朝刊は、また「謎の道場」特集を組むのだろう。それはそれで、集客に好都合だ。

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