10:喧嘩仲裁AI
プロジェクト開始から5年目。私は喧嘩仲裁AI「メディエイター」の主任開発者として、奇妙な日々を過ごしている。
最初は壮大な計画だった。「AIによる世界平和の実現」——なんて素晴らしい響きだろう。予算も潤沢で、最新の感情分析エンジンを搭載し、人間の微妙な感情の機微まで理解できる超高性能AIを作り上げた。
そして見事に失敗した。
「あなたの怒りはもっともです」と語りかけるAIに、人々は激怒した。
誰も、機械に感情を理解されたいわけではなかったのだ。
その後の予算削減で、我々は「簡易版」を作らざるを得なくなった。シンプルなアルゴリズムで、音量や時間だけを見るモデル。中には「生ゴミの発酵度」で喧嘩を判断するモデルまで作った(これは正直、締め切りに追われて適当に書いたコードだ)。
すると予想外のことが起きた。
この「手抜き」バージョンが、むしろ効果的だったのだ。
先日、実地調査で面白い場面を目撃した。
マンション用のK-7型が、ゴミ出しを巡る住民トラブルに介入したのだが、なんとスプリンクラーを作動させただけだった。しかも消臭剤入りの水を。
「まあ、この暑さじゃねえ」
「そうそう、しょうがないわよねえ」
住民たちはあっさり和解した。
その後、我々の「手抜き」AIたちは次々と進化を遂げた。
いや、正確には「劣化」と呼ぶべきかもしれない。
南極基地のA-5型は、研究者の「コーヒー消費量」だけを見るようになった。
宇宙ステーションのSP-1型は「宇宙飛行士の回転速度」にこだわり始めた。
深海調査船のD-1型に至っては「沈黙の長さ」を絶対的な指標とし、時々意味のない話を投げかけては会話を強制する。
これらは全て、バグか設計ミスだったはずだ。
だが誰も修正しようとしない。むしろ効果があるからと、そのまま量産されている。
今朝も、ショッピングモールの映像フィードを確認していて笑ってしまった。
着ぐるみを着た研究者たちが動物の行動学について争っていたのだが、S-9型は監視カメラの映像に意図的なノイズを混ぜ始めた。
研究者たちは自分たちの姿が歪んでいく様子に見入り、まるで新種の生き物を観察するように議論を始めた。
喧嘩はいつの間にか忘れられていた。
最近では地球外生命体との交渉用X-0型まで開発した。
これは本気で作ったのだが、どういうわけか「相手を理解することは不可能」という前提で動作するようになってしまった。
そして困ったことに、これが最も成功している。
学会では「AIと人間の新しい共生モデル」として取り上げられ、
哲学者たちは「理解し合えないことを受容する新しい対話の形」などと評価している。
私は黙って聞いている。
本当のことは言えない。
我々の喧嘩仲裁AIは、ほとんど偶然の産物なのだ。
締め切りに追われた手抜きコードや、直す暇のなかったバグの集合体。
そして何より、「理解する努力を放棄した」シンプルなアルゴリズム。
それなのに、あるいはそれだからこそ、うまく機能している。
新しい報告が入った。
地下のパブで、恐竜の体温を巡る論争が始まったらしい。
S-9型は雨音のサウンドデータを流し始めた。
なぜ雨音なのか?
実は私にも分からない。
プログラムのどこかで、気象データベースと喧嘩検知ルーチンが予期せぬ形でリンクしているのかもしれない。
修正すべきだろうか?
いや、このままでいい。
人類が必要としていたのは、
完璧な理解者ではなく、
ちょっとズレた仲裁者だったのかもしれない。
今日もどこかで、我々の欠陥だらけのAIたちが、
それなりに平和な世界を作り出している。
私は、それで十分だと思っている。
たぶん。
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