第12話 バニリン
それはさておき、視線を窓に移す。遠くで咲く桜の一年前を、目を瞑って遡ろうとするも、頭に偏頭痛のような痛みが走る。左手でおでこを覆いリラックスさせると、痛みが引いていった。
__やはり、まだダメだ。
窓から視線を戻し、右手で簡単なペン回しをする。
人差し指と中指に持ったペンを薬指に通して、小指との間までペンを高速で回し、それを逆回転させる。小学生の頃、愛花の癖であったペン回しを真似して覚えたのだ。
英明が記憶を失くした四年間の濃密さは生徒会メンバーとの近さからもそれが伝わってくる。去年度までの英明が作り上げた人間関係の上に、今の英明は成り立っている。これが真っ新の状態だった場合、今よりも仲良く話なんてできていないだろう。
右手からペンが滑り落ちたので拾う。
裏を返せば、生徒会メンバーからしか英明の記憶喪失を知る情報は得られないのだ。
ふぅ〜、と気の詰まるような想像をしていたので、息を吐いた。
隣の黒沼がキョトンとした顔でこちらを見つめてくる。
__心配させたかな。
目尻を少し下げつつ、英明はノートの右端に梅干しを擬人化させた化け物を描き、吹き出しに『僕を食べると花粉症対策になるよ! バニリンが君に侵入する花粉を守ってくれるのさ』と書き込む。
黒沼はその下手っぴなイラストを見るなり、口を抑えながら笑う。そして、自分のノートの左端に何やら書き込むと、端へズラし見せてくる。
梅干しが食べられた後の種を上手く描いたものから、吹き出しが出ていた。
『僕の愛するバニリンがっ。バニリン‼︎』
何故かドラマチックな展開になったので、思わず吹き出しそうになり我慢するも、視線をお互いの顔へ戻すと、同じように肩を揺らした。唇からこぼれた白い歯が小さくて可愛らしい。
「明智、今の箇所訳してみろ」
英語専攻だった学年主任の大塚に当てられた。
急に当てられたが、聴力だけは人一倍いいので、大塚の無駄にネイティブな箇所も聞こえていた。えっと、英文を目でなぞる。三段目の箇所を読むのだろう。
「はい。ばに……くっくっ」英文はバニラアイスクリームの作り方が書いてあり、その中でなぜかバニリンが出てきたのだ。横にいる黒沼は教科書を立てて笑い顔を隠している。
「おいっ、なに笑ってんだ」クラスの全員から視線を浴びる。
「あっいえ……」咳払いを二、三度して真顔になり、再度読み直した。彼女から溢れる笑い声で釣られそうだったが耐え切った。和訳としては、バニリンがアイスクリームの甘い香料として用いられているという簡単な文だった。
「まぁよし、座れ」
トサカの大塚が少し顔を顰めつつも、しっかり話を訊いているので良しとしたようだ。英明は英文の予習をやらずに授業を受けていたので、まさかバニリンが出てくるとは知らなかった。当然、隣の子も時間が無くやっていなかった。
その間も黒沼は、教科書で隠れるように姿勢を低くし、声を押し殺し笑っていた。
「バニリン」
英明がそう呟くと、小さな彼女の背中が更に上下へ揺れた。
大塚の授業が終わった後も、二人でゲラゲラと笑っていた。
昼休みに入ると、籤箱を持って食堂へ向かう。生徒会メンバーは生徒会室で食事をするとのことなので、みんなとは教室で別れた。
食堂に着くなり、邪魔にならない箇所でやってみた。結果的には食事という目的があったからだろうか、五十人ほどしかやってくれなかった。もっとも、こちらへはかなり強い関心が向けられており、英明の名が広まったのは言うまでも無いだろう。
食堂の近くにあった売店で梅干しおにぎりを買い、教室へと戻る。籤箱を教室後ろにある空き棚へと置き、時計を見る。十二時半。まだ、時間はある。英明は口の中で広がる甘酸っぱさとバニリンを感じながら、アイデア絞りに勤しむこととした。
「ねっ、何してるのっ?」
目の前を向くと、大きな実りがふたつあった。
__なるほど、大きくなると喋ったりするのだろうか。さっきの梅干しみたいに。
「こらっ」おでこを指先で押されて、顔が上向きになる。徳橋エマがジトっとした顔をして立っていた。家庭教師に叱られる最高のシチュエーションぽっかったなと、人知れず喜んでいたら彼女は前の席へと座る。
「百点あげるよ」
徳橋は小首を傾げた。それすらも可愛い。
「で、何してるの?」机の上で広げられた英明のノートに視線が落ちていた。
「あぁ、毎日何かしら楽しいことしたいなって思ってるから。アイデア出し」
「おお〜、毎日イベント男」
「なんか軽そうで芯が無さそうだな」
徳橋は目を細めて、英明が持つペンを見つめた。
「みんなにそう誤解されても、貫く。芯がある人にしか出来ない強さだよ。シャーペンだけに」にひひ、とシャーペンを小突いた。
「お主、ダジャレ好きだな」
「お主も、だろ?」
「エぇ〜マぁ。エマだけに」
「ヒデぇなぁ〜、そりゃアキられるよ。ヒデアキだけに」
他の人なら全く笑わないであろう駄洒落に彼らも同じく笑わず、何も無かったようにノートへ視線を戻した。恥ずかしさで顔が赤くなる前に下げたのだ。
英明はそっと駄洒落王者決定戦という意味不明なアイデアを消しゴムで消した。おそらく、出場したら英明と徳橋は初戦敗退することだろう。
「この、放送室ジャックって?」駄洒落王者決定戦の下にあったアイデアを口にする。
「ぁあ、これな。一番インパクトがデカいだけに慎重にしないといけないんだよな」
「ヒデアキくんまさかっ」
「そのとおり、放送室の放送でオレの名前を広げるっていうド直球の作戦だ」
「面白そう!」バンと机をついて立ち上がる。英明の前に再度たわわが揺れて登場した。
ノリの良さは英明に通づるものがある。もっとも、他人から見れば止めるべきストッパーが欠如したバカコンビだと思われていることだろうが、ふたりには関係なかった。その後、英明と徳橋はその『放送室ジャック』の件を楽しそうに話していた。
暫くして黒沼が戻ってきては、弁当箱を自分の机に置いた。
ふたりは満面の笑みを黒沼へと向けるも、彼女はそっぽを向いた。
そして、小さく口遊む。
「……お手洗い、おてあらい」
どうやら、英明と徳橋が何やら怪しいことを企んでいると、見破ったようだ。変なことに巻き込まれたくないのだろう。
黒沼がトイレから帰ってきたのは、昼休みの終わりのチャイムが鳴ったと同時だった。
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